メトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートの今年度の展覧会が開催中だ。これを見れば、「見せびらかす」「気取った態度をとる」といった意味の「キャンプ」の概念を理解できるとは限らない。だが、その歴史を辿るのは間違いなく面白い

BY VANESSA FRIEDMAN AND ROBERTA SMITH, PHOTOGRAPHS BY DOLLY FAIBYSHEV FOR THE NEW YORK TIMES, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

画像: ピエトロ・タッカの作とされているブロンズ像「ベルヴェデーレのアンティノウス」(1630年ごろ)。オリーブの葉を模してあしらったヴィヴィアン・ウエストウッドのレギンスとともに、『キャンプ』展の最初の展示室に飾られている

ピエトロ・タッカの作とされているブロンズ像「ベルヴェデーレのアンティノウス」(1630年ごろ)。オリーブの葉を模してあしらったヴィヴィアン・ウエストウッドのレギンスとともに、『キャンプ』展の最初の展示室に飾られている

贅沢な前半パート

S (展覧会としては、前半は4つに分けられているが)私は、展覧会の前半部分を3つのパートに分けたい。ソンタグ以前の歴史的資料を集めた長い冒頭セクション、ソンタグのキャンプを扱ったセクション、そしてメットが「できそこないの真面目さ」と名づけた部分。で、この3つのセクションで、来場者はそれぞれ違った方向に導かれて、続く、猛攻撃と失望の後半パートへの期待を高めるわけ。(この前半部分は)難解で、注意深く構成された、含蓄のある展示でもある。絵画、印刷物、書簡、本や写真など、たくさんの展示品が交差していて、ジェンダーについてのテーマもいたるところにある。なかでも、私が気に入ったのは、シュヴァリエ・デオン(1728−1810)に関する展示。フランスの兵士や外交官として活躍したのち、女性として英国で生活し、セレブリティのような扱いを受けたという人物。オスカー・ワイルドにまつわる写真や手稿もすごく魅力的だった。

F 私は、最初のほうの展示スペースで、キャンプなものがファッションと関連づけて展示されていたことに違和感をおぼえた。たとえば、オスカー・ワイルド作『サロメ』のイギリス版表紙になったオーブリー・ビアズリーの精緻な孔雀の羽のイラストが、サラ・バートンによるアレキサンダー マックイーンの、金モールで孔雀の刺繍をしたゴージャスな黒いケープと並べて展示してあったこと。マックイーンのケープは、私にはとくに大げさだとも人工的だとも思えない。多少芝居がかっているというだけでね。同じ疑問を、ソンタグをフォーカスした展示スペースでも感じた。そこには、ジェイン・ライツマン(註:夫とともに著名なアートコレクターとして名を馳せたアメリカ人女性)から寄贈された、オストリッチフェザーをあしらったブラッシュピンクのバレンシアガのドレスが飾られていて、セシル・ビートンが1966年に撮影した、そのドレスを着たライツマン夫人の写真が添えられている(これは素晴らしきコール・アンド・レスポンスではあるけれど)。

ソンタグが生きた時代に、このドレスが大げさな表現だったとしたら、おそらくこれはキャンプだと言えるのでしょう。時代が異なれば、何をもって大げさだとするかの表現形式も変わる。そこは強調しておくべきだと思うけれど、ありがちな疑問も生まれてくる。つまり、キャンプとは、明確な形があるものというよりは、ほのめかされる性質のものであって、(ポルノのように)見る者の目に宿る、つまり「見る人が見ればわかる」類のものなのだろうか、と。

その一方で、アンディ・ウォーホルがソンタグを撮った試写映像とウォーホル自身のポートレート、またウォーホルのキャンベル・スープ缶のシルクスクリーン作品とキャンベル・スープ缶をプリントしたドレスを揃えて展示したのは、すごく効果的だと思った。

画像: ブラッシュピンクのフェザーがあしらわれた、バレンシアガのイブニングドレス。1966年にセシル・ビートンが撮影した、このドレスを着たジェイン・ライツマンのポートレート写真とともに展示されている

ブラッシュピンクのフェザーがあしらわれた、バレンシアガのイブニングドレス。1966年にセシル・ビートンが撮影した、このドレスを着たジェイン・ライツマンのポートレート写真とともに展示されている

画像: ソンタグのキャンプを掘り下げた展示室。メットの収蔵品から選ばれた美術品や工芸品が展示されている

ソンタグのキャンプを掘り下げた展示室。メットの収蔵品から選ばれた美術品や工芸品が展示されている

S 私も、そのウォーホルが唇に指を当てたポートレートが時に気に入った。ソンタグのキャンプについてフォーカスした展示室では、まさに彼女のエッセイそのままに、キャンプなものが集められているようだった。何がキャンプで、何がそうでないかは、すごく曖昧だと思うけど、この展示室に飾られた素晴らしい品々は、すべてメットのコレクションから選ばれたもの。これらは、ソンタグが『《キャンプ》についてのノート』で触れた美術品、工芸品、デザイン作品の代表的なもの――というか、ソンタグは頻繁にメットを訪れていたわけだから、実際そのものかもしれない。

1ダースほどの引用文が、それにふさわしい展示品とともに掲げられていて、“動画化された小壁”とでもいうべき帯状の電光ボードのうえを、エッセイそのものがタイピングの音とともにテロップになって”流れて”いく。スキャパレリがジャン・コクトーのためにデザインしたスーツのようにわかりやすいものもある。エドガー・ドガの「バレエダンサーのスケッチ」と、陶器でできたバレエダンサーの小さな置物が並んで飾られているのを見たときは、それ自体がキャンプそのものだと思った。エミール・ガレの、カウパセリの花を象ったキャビネットの上に、ぽてっとした愛らしいセーブル焼きのコーヒーセットが置いてあったのは、よくわからなかったけど。

F 後半のパートでは、そういった文脈化がなくなってしまったのは残念だった。ファッションを扱った、お菓子の詰め合わせボックスみたいにカラフルなこのセクションでは、服にデザイナーが込めた芸術性や政治的な意味合いが、無視されているようだった。たとえば、クリストファー・ベイリーによるバーバリーのエコファーのケープ。これは、LGBTQ運動への支援と祝福(それに「忠誠の誓い」の意味も?)を表していて、性役割に対する古い固定観念を変えようとする意志が花開いたものでもあったはず。しかし、そこにはアーティストのフィリップ・コアの言葉「キャンプとは、ヒーローになることを求められなかった者たちのヒロイズムである」という引用文が添えられただけ。この服が誕生したときの、世界との繋がりーーアートの世界にしろ、カルチャーの世界にしろ――は、どこに行ってしまったのか?

 

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