ドロシア・ラングは、時代の波にさらされても決して色褪せることがない20世紀のイメージを創造したひとりだ。また、彼女は現代のフォトジャーナリストという概念もつくり出した。アーティストであり、記者であり、被写体に共感する魂と、あらゆるものをつぶさに捉える観察眼を備えた者として

BY ALICE GREGORY, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 今、ラングのキャリアを振り返ってみると、その写真表現の革新性はビジュアル効果や技術面よりも、むしろ人とのコミュニケーションのとり方に如実に表れている。彼女は写真を撮るときに、被写体に話しかけた。何か質問するより先に、自分自身のことを話した。どこから来て、この仕事がどんな内容になりそうなのか、さらに自分の子どものこと、出張で離れているときはどんなに子どもが恋しいかまで。彼女が自分の身の上を明かすと、そのお返しとして、被写体たちは自分のことを語ってくれるのだ。恐らくほかのどんな写真家の作品と比べても、ラングの作品は、歴史の目撃者としての意味より、むしろ歴史と直接関わり、歴史の一部になることに突出していたのだ。

 ノーマン・メイラーやトム・ウルフなど、1960年代から70年代にかけて登場した新しいジャーナリストたちは、それまで客観的な立場から書かれていた記事に、率直で個人的な意見を盛り込んだ。ラングはその数十年前に、写真を使って同じようなことをやっていた。彼女は報道と芸術の境界線をあいまいにし、それによって写真という媒体において、あとに輝かしく脚光を浴びる担い手たち、つまり、ラングの表現力と共感の後継者であるロバート・フランクからヴォルフガング・ティルマンスまでが活躍する下地を開拓したのだ。彼女と同世代のアンセル・アダムスはラングの写真を「事実の記録であり、同時に非常に繊細で感情豊かな文書だ」と語っている。彼女はジャーナリストに扮装したアーティストであり、冷静な公務員を装った活動家だった。今日、この4つのどの役割を考えてみても、彼女の影響をまったく受けずに存在することは不可能だと思える。

 ラングは19世紀が終わる直前に、教育レベルが高く裕福なドイツ系アメリカ人一世の両親のもとに生まれた。文学に親しみ、芸術のパトロンにもなった。また、子どもの頃ポリオに罹患し、足を引きずる後遺症が一生残った。「この後遺症は私の人格を形づくり、私を導き、私に指令を出し、私を助け、そして私に屈辱を与えた」と彼女は語った。ニュージャージー州ホーボーケンで育ったが、マンハッタンの高校に通っていた。放課後はニューヨーク市の南のバワリー地区あたりをうろついていた。「足を引きずりながら、保護者の同伴もなく、ひとりで歩いている少女だった」そう語ったことがある。それは、彼女が初めて「目立たないように振る舞う術を身につけた」時期でもあった。周囲を観察しつつ、自分は風景に溶け込んで存在感を消すというこの経験から、彼女は自分のカメラを所有する以前から、写真家になると公言していた。

 高校を卒業後、数年間ニューヨークで働いて、コロンビア大学で芸術写真の分野の大家であるクラレンス・H・ホワイトの授業を受けたのち、彼女は友人と世界を旅するために東海岸を出発した。だが、途中でスリに遭って計画が頓挫し、彼女たちはカリフォルニアより先に進めなかった。そのとき以来、ラングは同州で後半生を過ごすことになる。ホワイトのもとでのごくわずかな経験を除けば、ほとんど独学で写真を学んだ。ポートレート撮影の商業需要の波に乗り、サンフランシスコの貸しスタジオで裕福な顧客の肖像を撮影した。彼女は自分の美意識を研ぎ澄ませると同時に、倫理的な動機にも目覚めていった。当時はまだ最初の夫と結婚していた。風景画や壁画の作家として尊敬を得ていた夫との間にはふたりの幼い子どもがいた。やがて1933年には大恐慌が最悪の状態に達した。

 ラングは、裕福で心地よい生活をしている客たちが座っているスタジオの窓から外を眺めた。そして街頭では、仕事がなく腹を空かせた人々が悲惨な状況にあえいでいるのを目撃した。彼女が《White Angel Breadline(パンの配給を待つ人びと)》と題する自身最初のドキュメンタリー写真を撮ったのもその頃だった。この写真は今日に至るまで、大恐慌時代の食糧危機を画像一枚で見事に切り取った記号的な存在であり続けている。

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