ドロシア・ラングは、時代の波にさらされても決して色褪せることがない20世紀のイメージを創造したひとりだ。また、彼女は現代のフォトジャーナリストという概念もつくり出した。アーティストであり、記者であり、被写体に共感する魂と、あらゆるものをつぶさに捉える観察眼を備えた者として

BY ALICE GREGORY, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 この一枚は、貧困にあえぐ男たちの群衆が全員カメラに背を向けている中、たったひとりの男がこちらを向き、汚れた顔で絶望したように地面を見つめている姿を捉えたショットだ。この写真でラングは、1930年代のアメリカの没落を目撃した重要人物としてフォーク・ミュージシャンのウディ・ガスリーと並ぶ存在になった。彼女はカメラを通して、苦しみを共有する人びとの普遍的な姿を、見る者の胸にぐっと迫ってくるような手法で伝えた。

たとえば、カリフォルニア州ブライスに設置された手作りのテントの中で、母の胸に抱かれている痩せ細った赤ん坊の姿(《Drought Refugees From Oklahoma Camping by the Roadside(道端で生活する、オクラホマのキャンプからやってきた干ばつ避難民)》1936年)、絶望にうちひしがれ頭を低く垂れた男性が、逆さになった手押し車の隣で座っている姿(《Man Beside Wheelbarrow(手押し車のそばの男)》1934年)。さらに、ふたりの労働者が全財産らしき荷物を手に持って、周囲に何もない砂利道を歩いて行く姿。ふたりのすぐ横にはサザン・パシフィック鉄道の大きなビルボード広告があり、「次回は鉄道でリラックスして旅しませんか」という人を嘲笑うかのようなフレーズが書かれている(《Toward Los Angeles, California(カリフォルニア州ロサンゼルスに向かって)》1937年)。

画像: かつて検閲の対象となった1942年の作品。日系アメリカ人たちが強制収容所へ「隔離」されていく様子を写した一枚 DOROTHEA LANGE, “WOODLAND, YOLO COUNTY, CALIF.,” MAY 20, 1942, COURTESY OF NATIONAL ARCHIVES PHOTO NO. 210-G-C514

かつて検閲の対象となった1942年の作品。日系アメリカ人たちが強制収容所へ「隔離」されていく様子を写した一枚
DOROTHEA LANGE, “WOODLAND, YOLO COUNTY, CALIF.,” MAY 20, 1942, COURTESY OF NATIONAL ARCHIVES PHOTO NO. 210-G-C514

 裕福な人びとの写真を撮影することをやめた頃、ラングは夫と離婚し、カリフォルニア大学バークレー校の農業経済研究者のポール・テイラーとともに働き、ほどなくして彼と再婚した。カリフォルニア州の緊急救済局が1934年に出稼ぎ労働者の調査のためにテイラーを雇うと、彼は1935年に、同局に掛け合ってラングも雇うように説得し、彼女をタイピストという名目でリサーチ出張に同行させた。もちろん本当は、彼女があらゆる光景を撮影するためだった。ふたりはともにカリフォルニアじゅうを旅し、口述記録と画像で残すという新しいマルチメディア社会学の手法を実施していった。ときには巧妙な手も使った。アリゾナでは、テイラーがガソリンスタンドの従業員に金を渡して出稼ぎ労働者の数を数えさせた。圧倒的な貧困と絶望を記録した彼の計測とラングの写真は、大干ばつの被害を受け、ダスト・ボウルという名称で呼ばれることになった南部の平原地帯を記録した最初の試みだった。

 私たちが現在見ることができるこの時代の画像は、ほぼラングひとりの手によって撮影されている。彼女がテイラーと一緒にまとめた報告書は、針金のバインダーでとじられ、その中にはラングが撮影した50枚の写真も含まれていた。これらは役所用の報告書だったが、まるで小説のように構成されていた。ラングの写真は円グラフでは決して表現できない情報を可視化した。たとえば、丸められたボロボロのリノリウムシートの写真がある。それは家を失った家族が運んできたものだ。その一家は、いつか再び自宅のキッチンの床にそれを敷くという希望を捨てておらず、3年間、それをカートに積んで移動していた。

 それからの4年間、ラングは米連邦政府の再定住局の職員として働いた。農業安定局が1937年に改名され、新たにそう呼ばれるようになったのだ。彼女はその頃から、その日の撮影対象のみに神経を集中し、彼らに共感しながらも、あくまで事実に基づく撮影スタイルを確立していった。環境の荒廃、地方の貧困、そして集団出稼ぎなどの慣れ親しんだテーマを再び撮影することが多くなった。これらの題材を捉えた彼女の作品は、その後のキャリアを決定づけ、また、アメリカが抱える懸念点を的確に表す語彙を生み出すのに役立った。また市井の人びとの生活を写すことにより、かえって神秘的な構図をつくり出すことに成功し、彼女の作品は、意図的にニュース性を狙ったり、小細工をしたりなどということを決してしない印象を与えるのだった。繊細なタッチや細部へのラングの心配りは、ひとりひとりの個としての被写体をまるで国家による犯罪の証拠のように見せる効果があった。

 実際、彼女が1942年に撮影したカリフォルニア州東部マンザナーの強制収容所の写真は、米軍により押収され検閲された。第二次大戦当時、ここに収容されていた日系アメリカ人たちを撮影したものだ。アメリカの国家としてのイメージを最も損なう危険があるとされたのは、たとえば、労働者たちが温室で作物を収穫している姿を写したショットだった。温室の細い柵が縞状の影をつくり、それが牢獄の鉄格子のように見えるからだった。人が住むのにとても快適とは言えない荒野の風景、収容所の施設や番号札を首からぶら下げた幼い子どもたちの姿などは、今日、メキシコ国境で撮られた写真と驚くほど似ている。日系アメリカ人たちを撮影した写真は、彼女がダスト・ボウルで撮影した人びとのポートレートとともに、私たちが一枚の写真に求めるものの基準をぐっと引き上げた。その期待値は今も上がり続けている。今日、カメラはそれがライカであれ、iPhoneであれ、ドキュメンタリーの道具というよりも、むしろ政治的な主張をするための道具という意味合いが強い。誰かを挑発して怒りを増幅するツールであり、現状を劇的に変えるための手段でもあるのだ。

 

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