世界中のクライアントから厚い信頼を得ているデザイナー・片山正通。そのデザインの源泉や原動力となるものを探る。まずは片山の半生について話を聞いた

TEXT BY MARI MATSUBARA, PHOTOGRAPHS BY YASUTOMO EBISU, EDITED BY MICHINO OGURA

画像: 片山のオフィスWonderwall®の打ち合わせルームへ入るときに出迎える巨大な木彫作品は大竹利絵子作《In or Out》(2012年)。「木や鉄などの無垢材に惹かれる」と片山は言う。その右はジャン・プルーヴェがカメルーンの学校の建築のために制作したアルミパネル《Sun-Shutter》(1964年)。

片山のオフィスWonderwall®の打ち合わせルームへ入るときに出迎える巨大な木彫作品は大竹利絵子作《In or Out》(2012年)。「木や鉄などの無垢材に惹かれる」と片山は言う。その右はジャン・プルーヴェがカメルーンの学校の建築のために制作したアルミパネル《Sun-Shutter》(1964年)。

 銀座、上海、パリ、NYに展開するユニクロ・グローバル旗艦店をはじめ、ピエール・エルメ・パリ青山、外務省主導によるJAPAN HOUSE LONDONなどの国内外店舗……あの店もこの空間もデザインを担ったのは片山正通率いるWonderwall®。最近では虎ノ門ヒルズ ステーションタワーの地下にオープンした「T-MARKET」や、「NOT A HOTEL EXCLUSIVE HIROO」など、飲食空間やシェア別荘も手がける超売れっ子インテリアデザイナーだ。さまざまなジャンルの業種からオファーが絶えず、「困ったときのカタヤマ」と呼ばれ絶大な信頼を得る、その秘密はどこにあるのだろうか? 片山の頭の中をのぞいてみたくてオフィスを訪ねた。

画像: 1階の吹き抜けの打ち合わせルームの眺め。片持ち階段がつなぐフロアの重なりは、美術館やギャラリーを彷彿させる。

1階の吹き抜けの打ち合わせルームの眺め。片持ち階段がつなぐフロアの重なりは、美術館やギャラリーを彷彿させる。

 瀟洒(しょうしゃ)な住宅街に立つコンクリート外装のビル。地下2階、地上3階と屋上からなるオフィスは“整頓された混沌”という言葉がふさわしい。古今東西、ハイ&ローが入り交じるおびただしい数のアートや骨董、CD、書籍、家具などがぎっしりと詰まっているのだが、その詳細は後にして、まずは片山の半生を聞こう。

「実家は岡山で家具の販売店を営んでいました。郊外で山を切り崩しニュータウンを造成し始めたこともあり、家具がよく売れる時代だったんです。地下2階、地上5階の吹き抜けのビルの各フロアが店舗で、住まいは最上階にありました。子どもは店に顔を出すなと言われ、学校から帰ると逃げるように店内の階段を駆け上がっていましたね。小・中学校では野球に打ち込みましたが、隣町にすごく上手な子がいて、これじゃあ野球で生きていくのは無理だとすぐ悟りました。高校に入るとパンク音楽にはまり、バンドを組んでベースを弾き、ミュージシャンになりたいな、なんて思ってコンテストに出るのですが、そこでもやっぱりとびきりかっこいいグループがいる。それで音楽の道も無理だなとさっさと諦めてしまいました。雑誌が好きで、大都会に行きたいと思っていたので、どうしたら店を継がずにすむかとずっと考えていました」

画像: これまでに作成した模型のパーツ。指の先にのるほどの小さな人物や家具まで詳細につくられている。クライアントと情報を正しく共有するための欠かせないステップだ。

これまでに作成した模型のパーツ。指の先にのるほどの小さな人物や家具まで詳細につくられている。クライアントと情報を正しく共有するための欠かせないステップだ。

 そんなとき、大阪でインテリアの勉強をすれば家業に役立つのでは、という父親の助言があり、片山青年は単身大阪へ出て専門学校へと進むが。
「梅田やミナミは僕にとって宝の山。学校よりもレコード店や洋服屋、ライブハウスに入り浸り、楽しくて仕方なかった。中高時代から小遣いを貯めてレコードを買い、聴きながら何時間でもアルバムジャケットを眺めていたけれど、そこにはファッションもグラフィックも写真もアートも、すべてが詰まっている。ようやくそれが“デザイン”であり、クリエイターの仕事であるということがわかってきて。同時にDCブランド隆盛の頃で、コム デ ギャルソン、ビギ、ニコルなどのファッションに憧れたし、そのブティックをデザインしているのはインテリアデザイナーだということにも気づいて。僕が正面突破できずに憧れていたクリエイティブの世界に関われるのがこの職業なのかも、と思ったんです。あれ? もしかしたら夢の世界に裏口入学できるかもしれないって。そのとき自分の人生に少しだけギアが入りました」

 80年代半ばのバブル前夜。大阪では安藤忠雄がイッセイ ミヤケの店舗を設計、高松伸がKPOキリンプラザ大阪ビルを手がけ、東京ではフィリップ・スタルクが旋風を巻き起こし、インテリアデザイナーが脚光を浴び始めていた。しかし専門学校を卒業してから約10年間、片山本人いわく“黒歴史”の時代が続く。「バブル絶頂期に、某有名空間プロデューサーの事務所に採用されたのをきっかけに上京しました。そこを2カ月で辞め、いくつかのデザイン事務所を経て友人と会社を立ち上げたのが26歳のとき。バブルは弾けていて仕事はない、同僚とは険悪ムード、かといって意地でも岡山には帰れない。真っ暗闇のどん底ですよ。でもね、チャンスさえあれば俺がいちばんいいデザインができるのに、という謎の自信だけはあったんです」

 1998年に手がけたA BATHING APE®の原宿店が話題となり、ようやく日の目を見た。そして2000年に独立、Wonderwall®設立に至る。
「僕にとってデザインとはアカデミックなだけではなく、それ以前に生活を楽しくしてくれるもの。人が集い、楽しい時間を過ごす延長線上に空間デザインがあり、たまたまその方向へ進んだだけなのです。だから今でも僕にとっての仕事とは、遊びの誘いに乗っかるようなもの。でも遊びっていちばん妥協できないことじゃないですか。最高の時間にするために、誰と何をするか、必要なものは何なのかを必死に考えますよね」

画像: アートや建築に関する蔵書は絶版になっているものも多い。わからないことに惹かれ、知りたいから調べる。そのため本は増え続ける。

アートや建築に関する蔵書は絶版になっているものも多い。わからないことに惹かれ、知りたいから調べる。そのため本は増え続ける。

片山正通の頭の中【後編】へ続く

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