BY NAOKO ANDO
北川民次は、1894年に静岡の製茶業の両親のもとに生まれた。文学や美術、演劇に興味をもち、早稲田大学予科を中退。1914年、20歳で兄を頼ってアメリカに渡った。この頃のアメリカでは緑茶の市場開拓が進み、北川の兄もオレゴン州ポートランドで茶葉を商っていたという。ニューヨークに移り、劇場の舞台背景制作の仕事をしながら美術学校に通った。
1920年、「もっと充実したライフと暖かさを求めて」南へ向かい、アメリカ南部を経てキューバに到着。そこで現金とアメリカ時代のドローイングをすべて盗まれてしまい、描きかけのキャンバスと絵の具箱だけを持って翌年にメキシコに辿り着いたという。約15年間のメキシコでの活動を経て帰国し、日本では東京と、疎開先の瀬戸を拠点に制作。1955年にメキシコを再訪している。
北川の最大の特徴は、民衆を描き続けたことだ。メキシコでは、先住民族の村に分け入って、その暮らしを描くこともあった。
「本展でメインビジュアルとした作品《ロバ》は、北川の代表作とまでいえる大作ではありませんが、彼がメキシコの美術界に認められるきっかけとなったという意味で重要な作品です」と、担当学芸員の塚田美紀氏。メキシコ先住民たちにとって大切な家畜であるロバを描いた温かなまなざしが受け入れられたのだという。
その姿勢は帰国後も変わらなかった。
第2の特徴が、1910年〜1917年にかけて民主主義革命を成し遂げたばかりのメキシコで盛んだった芸術運動を、日本でも展開したこと。美術教育と壁画だ。帰国後、絵画制作とともにこれらにも取り組んだ。
「野外美術学校」は、子どもたちの自発性を尊重する自由な制作を目指して芸術家らによって設立され、政府の支援のもとメキシコ各地に広がった。先住民の子どもを中心にさまざまな年代の人々に対し、美術を通じて新たな社会への理解を深める啓蒙の場となったという。北川もこの活動に参加し、メキシコシティから170km離れたタスコで校長も務めた。この頃、北川のもとを藤田嗣治やイサム・ノグチが訪れている。この学校が閉鎖された1936年、北川は日本に帰国した。
帰国から13年後、北川は念願の日本版「野外美術学校」ともいえる「名古屋動物園児童美術学校」を開校。新聞広告などを見て集まった生徒が毎週日曜日に名古屋の東山動物園に通い、自由に動物の絵を描いた。この作品は雑誌に掲載され、大きな反響を呼んだという。本展では、実物と映像で当時の子どもたちの、のびのびとしたユニークな表現を観ることができる。
北川は美術教育の一環として絵本制作にも注力し、当時の日本の絵本では画一的に表現されていた人物や動物を躍動的に描いて、それらが子どもたちの創造力と独創性を育むと唱えた。本展では絵本の原画が多数展示されている。
壁画は、文字が読めない人々にも新しい社会の理想を伝えるために公共建築に多数描かれ、北川がメキシコに滞在した時代は、フリーダ・カーロの夫ディエゴ・リベラらが活躍していた。北川は壁画制作には携わらなかったが、「いつかは画家である自分もあのような仕事がしてみたくなる。あれこそ生きがいのある仕事だ」と考えていた。
北川はディエゴ・リベラとは最初の滞在時から交流があり、フリーダ・カーロと暮らした有名なアトリエ兼住宅を描いた《赤い家とサボテン》という作品も残している。1955年にメキシコを再訪した際も、ここでリベラにインタビューを行った。
帰国後の北川に壁画制作にかかわるチャンスが訪れたのは、1959年。名古屋のCBC会館を皮切りに、瀬戸市民会館、旧カゴメビル、瀬戸市立図書館と、愛知県内に次々と北川が原画を描いたモザイク壁画が完成した。
また、北川の絵画の鑑賞には、作品そのものを目で楽しむことに加えて、もうひとつの喜びが潜んでいる。「北川は、さまざまな画家の影響を受け、多くの表現方法に取り組みました」と塚田氏。後半の作品では、フェルナン・レジェの強い影響が見て取れるが、そのほかにも、セザンヌやゴーギャンなど、絵画の奥に、北川の心を震わせた多くの芸術家の名前が浮かぶ。そんな考えを頭の中で転がしながら絵の前に立つのも楽しい。
そして最後の楽しみはミュージアムショップ! カラフルなメキシコの民芸品が並び、とてもではないが素通りすることなどできないだろう。世田谷美術館のある砧公園の散策も加えて、充実した秋の一日が過ごせそうだ。
「生誕130年記念 北川民次展−メキシコから日本へ−」
会期:11月17日(日)まで
会場:世田谷美術館1階展示室
住所:東京都世田谷区砧公園1-2
公式サイトはこちら
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