BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY MIKAEL OLSSON,TRANSLATED BY MIHO NAGANO

寝室のひとつから見下ろした裏庭の景色。コッホ夫妻が飼っている犬のマーファがいる。
翌年の2019年の春には、ヨルクとマリアは、ベルリンの中心部にあるセント・アグネス教会の住居を引き払って引っ越した。1960年代に建てられ、打ちっぱなしのコンクリートが特徴的なブルータリズム建築のカトリック教会の建物の内部は、現在ではアートギャラリー空間に様変わりしており、ふたりはそこに7 年間住んでいた。10代のふたりの子どもたちを連れて、夫妻は新居に移り住んだ。やがて、この家は歴史的建造物に指定されているため、改装には法的な規制がかけられており、自分たちらしい居場所にするために新たに手を加えるのは、非常に困難だという問題にぶちあたる。だが、ふたりは、この家の本来のデザインが、実は彼らのニーズに合っていることに気づき始めた。この空間の中で暮らすだけで、リーフェンシュタール本人や彼女の作品とは異なる、また別の価値観を提供できるのではないか、とふたりは思った。「この家は非常にモダンな計画に沿って存在している」とマリアは言う。彼女はマリオス・シュワブやジル・サンダーなどのファッション・ブランドで働いたのちに、「032c」という自らのファッション・ブランドを立ち上げた。
今、彼女は自分の家の裏庭となった空間に佇んでいる。夏のある暑い朝、そびえ立つ松の木陰で、ジャーマン・ショートヘアード・ポインター犬がゼーゼーと息をしている。この犬のマーファという名は、テキサス州の芸術の町として知られる町名が由来だ。その犬の後ろには、野草や満開のツツジの花があり、円錐形をはじめさまざまな立体的な形に細かく刈り込まれた木々が生えている。そしてそれらを幾重にもとり囲むように、砂利の小道が新たに整備されていた。「この家を建てたときのレニは成金だった。そして、この家を買ったとき、僕らは成り上がり者だった」とヨルクはパティオに腰掛けながら言う。「実は僕らはたくさんの要素をそぎ落として、1930年代当時のこの家の様子を復元したんだ」
玄関を入ると、厳格な雰囲気のロビーのような空間が広がっている─そこにあらかじめ敷かれていたカーペットを夫妻が剝ぎ取ると、その下から赤色の砂岩のタイルが敷き詰められた床が出現したのだ─この空間がこの家全体の印象を決定づけている。フランス人デザイナー3人組の、ピエール・オーガスティン・ローズが制作した、まるでジャコメッティの石膏の彫刻のような形をした照明が、天井からぶら下がっている。そしてイギリス人建築家であり、デザイナーのノーマン・フォスターが制作した、アルミニウム製の脚がついた円形のガラステーブルもある。それら以外にはその空間には何もない。玄関扉の脇にはアルミ製の野球のバットが立てかけられてあり、ほかには装飾的なオブジェはほとんど見あたらない。とはいえ、夫妻が以前住んでいたアパートメントはとてつもなく奇抜だったーーメインの空間には濃い紫色のカーペットが敷き詰められ、壁にまでカーペットが這っていたーーさらに、ベルリンの西側にある「032c」の店の大部分は、赤いビニールで覆われている。マリアは新しくわが家となったこの邸宅を「ラテマキアートみたいな空間にずっと住みたかった。ここはものすごく落ち着く」と形容する。
メインの広間の左側にはリビングルームがあり、オーク材のパネルでできた壁に囲まれたその空間には、同じくピエール・オーガスティン・ローズ制作の、少し丸みがかった形をしたクリーム色の一対のソファが置かれ、コンクリートが流し込まれた床の殺風景さを和らげている。
外の庭の景色が見える大きな窓の正面には、ドイツ人工業デザイナーのコンスタンチン・グルチッチが手がけた黒革製の低い肘掛けつき安楽椅子が二つ置かれている。「私たちはここに毎朝座ってる」とマリアが言う。「『この服のシルエットはどうしたらいい?』と私が聞いたり、彼が『この記事に目を通して、意見を教えてくれる?』と言ったり」。「032c」のファッションレーベルは、2016年にTシャツのラインナップからスタートし、現在では社員20人を抱える規模となり、最近では、パリ・ファッションウィークのショーのスケジュールにも同社の名が正式に加わった。「ファッションを取材するだけの立場なら、ふうん、ショーに参加するんだな、くらいの認識なんだけど」とヨルクは言う。「でもそこに自分が参加して、いざ共犯の立場になると、見ている風景がガラッと変わるんだ」

ヨルクの書斎の本棚は、ディーター・ラムスによるデザインで、ヴィツゥが制作した
自宅の1階部分の西側に行き着くまでに、まずダイニングルームがありーーこの邸宅に残されていた木製のテーブルの周囲を、ベルギー人家具デザイナー、マールテン・ヴァン・セーヴェレンが制作した8脚のカンティレバーチェア(註:後脚がなく、フレームで重さを支える椅子)が囲んでいるーーその先には長さ12mの室内プールと、石灰岩でできたデッキがあり、ヨルクは毎日このプール室を使っている。プールの横には、ラウンジチェアを置く代わりに彫刻を置いた。それは、ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレとシャルロット・ペリアンが制作したあのLC4シェーズロング・チェアを模倣した彫刻で、《カリプソ》と名付けられている。ベルリンを拠点とするフランス系スイス人アーティストのジュリアン・シャリエールが2019年に発表した作品で、ネオプレンと呼ばれる合成ゴム素材をカバー部分に使っている。
本物のLC4チェアで円筒形のネックレストになっている部分は、酸素ボンベで代用している。プール室の扉の外の階段を上がると、ゲストが滞在するための部屋につながるーーその部屋には現在、「032c」のファッション・ディレクター、ラス・バウン・バートラムが滞在しているーーさらに、その先にはヨルクのオフィスと数千冊の蔵書が納まった書斎がある。そこで、目立つように飾られているのが1992年出版の本『マレーネ』だ。ドイツ人女優で歌手でもあり、ナチス政権に対し反対の意志を表明したマレーネ・ディートリッヒの写真集であり、回顧録だ。「1920年代のベルリンでは話題の中心となっていた女性がふたりいた。マレーネ・ディートリッヒとレニ・リーフェンシュタールだ」とヨルクは言う。「ひとりは祖国を出て米国へ移住し、米国市民権を取得した。もうひとりは、ナチスのシステムの中でキャリアを形成できると気づき、それをつかむため、とことん非情に徹した」
2階にはマリアのオフィスと、寝室がいくつかある。彼女とヨルクは初めて別々のオフィス空間を持つことになったが、マリアは自分の部屋は、テレビ番組の『カーダシアン家のセレブな日常』を観るのにも使っていると語る。強烈な太陽がジリジリと照りつけるなか、彼女はバルコニーから身体を乗り出して建物の後ろの壁に埋め込まれた時計を見て、時間を確認した。翌日には、彼女がデザインした服ーー色はほとんど黒かグレーのトレンチコートやドレス、カーゴパンツなどーーに身を包んだモデルたちが、砂利道をランウェイに見たてて歩く、「032c」の2024年春夏コレクション、名付けて「Nothing New(いつもと変わりなし)」が開催された。
そのショーに合わせて、ドイツ系米国人ミュージシャンで25歳のガブリエルが愛と償いのメッセージを込めた歌を披露した。かつてはこのふたつのメッセージとはまったく縁のなかったこの裏庭の木陰で。ガブリエルはこのショーのために新しい曲を作ってくれと「032c」から頼まれ、『山々(Mountains)』と題するバラードを創作した。それはリーフェンシュタールがこの建物を建てることで体現したいと熱望したイメージでもある。だが、マリアは、これは単なる偶然だと語る。この歌手にとっては、この建物は単なる家にすぎないのだ。
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