BY MARI SHIMIZU
歌舞伎座という「限られた空間」で10月に上演される舞踊は『楊貴妃』で、これも玉三郎さんの代表作だ。「すでにこの世の者ではなくなっている楊貴妃のもとへ、玄宗皇帝の使いとして方士(神仙の術を身につけた者)が訪ねて来る幻想的な物語です」
中国風の衣裳を身に纏い、京劇の女方に学んだ技術を駆使して優美に舞う玉三郎さんの美しさは、まさにこの世を逸脱した存在だ。「紗幕に映像を投影するなど、『鷺娘』とはまた違った趣向も取り入れてお見せいたします」
豪華な髪飾りやみごとな刺繍が施された衣裳の細部、ゆったりと繊細な身のこなしをつぶさに観ることができるのは映像の特権だ。1991年の初演以来、何度も上演を重ねている作品だが、過去のどの上演とも違った世界感を形成することになるだろう。
そもそもこの創作舞踊はどんないきさつで誕生したのだろうか。
「1987年に新橋演舞場で『玄宗と楊貴妃』という作品で楊貴妃を演じたことがあるのですが、その折に京劇の名女方でいらした梅蘭芳(メイランファン)さんのご子息でやはり女方の梅葆玖(メイパオジュウ)さんに歩き方や身のこなし、特徴ある袖の使い方など、さまざまな技術を教えていただいたのです。そして『玄宗と楊貴妃』の一場面を膨らませて独立させたのが『楊貴妃』なのです」
きっかけはひとつの作品との出会いだが、以前から玉三郎さんは中国の文化・芸術に憧れを抱いていたという。「祖父の十三代目、父の十四代目守田勘弥は京劇と交流があり、梅蘭芳先生の舞台に接した父からはその芸がいかに素晴らしかったかを聞かされて育ちました。それでいつしか私も憧れるようになっていったのです」
芸術や美への純粋な憧憬をたゆまぬ芸の鍛錬で独自の境地へと昇華させ、新たな創造を続けた来た玉三郎さん。その積み重ねと応用が、密を避けた「新たな生活様式」を余儀なくされたコロナ禍における上演スタイルに「映像×舞踊 特別公演」という形でフィットした。
「急に考えたことではなく、これは熊本県の八千代座での公演のために5年前に始めた企画なのです。映像と実演を融合させるのは非常に難しいのですが、経験を重ねいろいろなことがわかってきたなかで、たまたまこのタイミングと重なったのです」
最新技術を駆使して音響の調整をした『鷺娘』のサウンドリマスター版が公開となったのも『楊貴妃』がシネマ歌舞伎化されたのも昨年ことで、その映像があったからこそ2カ月連続の上演が実現した。『楊貴妃』という作品を通して人々の心に届けたいものとは何なのだろうか。今のこの時期を踏まえて改めて尋ねてみた。
「天国、という言葉が正しいかどうかはわかりませんけれど、争いも悲しみもないところでうらうらと過ごしている楊貴妃という存在そのもの、でしょうか。絶世の美女として知られる楊貴妃ですが、ここで描かれている彼女はそうしたことをすべて通り抜けてしまっています。心穏やかな、悟りの境地にいる存在。その宇宙観に浸っていただけたらと思います」
実際にはあり得ない世界に心を遊ばせリフレッシュすれば、立ち戻った現実でまた違った風景を見出すこともあるだろう。
「現実と飛躍した世界との行き来、その往復が人生をより豊かなものにしてくれるのではないでしょうか」
註)『楊貴妃』上演前には『口上』(舞台挨拶)があり、これも「お客様に少しでも楽しんでいただきたい」という玉三郎さんの意向によるものだ。9月の公演では、せりや回り舞台など歌舞伎座の舞台機構を自ら紹介したが、これも映像と実演とを巧みに融合した展開となっていた。10月の公演では基本的な部分を踏襲しながら、映像で楽屋にも案内するという