フランスの厳しいロックダウン期間中に書き続けた『十年後の恋』。ウイルスの感染拡大と作中の主人公の恋愛と日常が、執筆とリアルタイムで進行。作家のこれからの生き方をも大きく変える作品となった

BY AKANE WATANUKI, PHOTOGRAPH BY SHINSUKE SATO

 2021年初夏の現在も世界を黒い影で覆っている新型コロナウイルスの猛威。辻仁成がこの未曾有の災禍を、長編小説『十年後の恋』に大胆に盛り込んだ。当初、東京を舞台に構想していた作品だが、執筆中に在住するフランスで感染が広がり始め、作家としての直感が働きパリに舞台を変えて書き直した。ドラマは現実とフィクションが同時進行していくような、リアリティのある展開になっている。

「書き直している間、パンデミックの動きに合わせて小説内の時間を書き変えていくのと、自分の目の前の日常とがリンクしていきました。今は執筆から約一年後の世界にいますが、小説のラストと同じように、現実でもまだ感染は続いています。今後もどうなるかわからない。感染症が落ち着いても、それ以前とは世界が変わってしまうかもしれない。そういうことを主人公の恋愛と重ね合わせていければ、文学として一つの完成形になるのではないかと考えて取り組みました」

 主人公のマリエは40歳目前の映画プロデューサー。両親は日本人だがフランスで生まれ育ったシングルマザーで、母親の助けを借りながら娘を育てている。結婚生活に懲り、離婚後は生きることに懸命で恋愛とは無縁だったが、別れて10年の時を経てアンリと出会う。

「マリエのキャラクターは自分の経験から自然と現れてきました。離婚して子どもとずっと向き合っていると、恋愛に走るパワーなんてどこかにいってしまう。10年間子育てをした女性の気持ちになったときに、やや強引に踏み込んでくる素敵な男性が現れたら、その女性はどんな風になっていくんだろうと。彼女の気持ちに並走しながら書いていきました」

 アンリは孫もいる60歳のシングル男性。系譜をたどるとロマノフ王朝とも関わりがあるとほのめかす。小さな投資サロンの主宰をしているとはいえ、本当は何を生業にしているのかわからない。やさしくて穏やかだけど謎の多い男に、マリエは不安に揺れながら惹かれていく。

「アンリのような男性はフランスに多い。女性にやさしくて、偽っているつもりはないのに誤解させてしまうずるい人。そこがまた魅力的に映ります。こういうよくわからない人に惹かれるのも、とても人間的な心の動きです。たとえばカップルが別れるときに、どちらが悪いかなんて本当のところはわからない。白黒はっきりできないのが人間だし、そういう世界のありようを示すのが作家の役割の一つです」

画像: 『十年後の恋』辻 仁成 著 ¥1,780/集英社

『十年後の恋』辻 仁成 著 ¥1,780/集英社

 恋で始まったアンリへの思いは、次第に愛へと変わっていくが、どうにも距離を詰められない。躊躇しているうちに、ウイルスがじわじわと街に広がりだす。日本語での恋と愛の違いや、フランスで生まれながら日本人の両親に育てられたマリエと、フランス人のアンリとの根本的な気質の違いが距離となって現れる。

「パンデミック下での物語なので、他者との“距離”は主題の一つになっています。日本では小さい頃から集団の中に入れられ、立ち位置みたいなことを常に意識して他者と一定の距離を保っている。しかしフランスは個人主義で自由だから距離感も人によってバラバラ。フランスにいると国籍はどこであろうと、人間はここまで自由でいいのだと学びます。どちらが良いというわけではなく、違いの面白さがある。集団のなかで距離を保つ日本人のあり方は、世界という外側から見ると非常に独特です。フランス語では“アムール”の一語で表すものが、日本語では恋と愛という別々の言葉になるのもそう。そういう日本の外からの視点で恋愛小説を書きたいという気持ちもありました」

 ある衝撃からアンリへの愛が危機を迎え、パンデミックの大きな波に飲み込まれるマリエだが、ラストシーンにははっとさせられる。
「それは、愛にはさまざまな価値観があり、その計り知れない可能性について、コロナの時代にそれぞれの人が考えられる終わり方にしたいと願った結果です。人間は1+1=2の世界に生きているわけじゃない。答えは一つではないし、出会ったり別れたり、裏切ったり裏切られたり、悲しみも憎しみもすべてを超越するような大きな愛を人は持ち続けなければならない。それを最後に受け取ってくれれば嬉しいし、現実にはコロナウイルスによって突きつけられたような気がしています」

 人類が増殖して地球温暖化が進み、世界中がいがみ合っている。自然を支配しようと神の領域に踏み込み、制御できない限界にきて突如現れたウイルスは、突きつけられた刃のように、人間の持つ価値観を壊し、すべてを変えるよう迫っている。

「僕はもう、人間はコロナ以前の世界には戻れないと思う。三度のロックダウンの間、毎日買い物に行って食事を作り、子どもと『おいしい』と言い合って食べる。そういう些細だけれど大事なことを繰り返していました。小さな幸せを重ねて毎日を慈しみ、楽しんで豊かに暮らす。それが人間の生きる意味だと強く思っています」

辻 仁成(HITONARI TSUJI)
作家。東京都生まれ。1989年「ピアニシモ」で第13回すばる文学賞、1997年「海峡の光」で第116回芥川賞、1999年『白仏』のフランス語版『Le Bouddha blanc』でフェミナ賞の外国小説賞を受賞。著書多数。作家のほか、詩人、音楽家、映画監督と幅広く活動している

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