BY CHIKO ISHII
ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』
1972年に鼓 直による日本語訳が初めて出版されてから、なんと52年1カ月と21日。コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が7月1日に文庫化された。今回「本のみずうみ」というブックレビューの連載を始めるにあたって、読者が待ちわびすぎて「文庫になったら世界が滅びる」という冗談さえ飛びかっていたこの名作を再読したいと思い立った。中上健次『千年の愉楽』から小川哲『地図と拳』まで、現代日本文学にも多大な影響を与えている作品だからだ。私が初めて読んだのはおよそ20年前。まだその頃はライターではなかった。
『百年の孤独』は文明から離れた岩だらけの川岸にマコンドという村を建設したブエンディア一族が滅びるまでの物語だ。書き出しは〈長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない〉。アウレリャノ・ブエンディア大佐は、マコンドの始祖であるホセ・アルカディオ・ブエンディアの次男で、マコンドで誕生した最初の子供であり、戦争の英雄になる人物だ。〈銃殺隊〉と〈氷〉のインパクトが強く、ブエンディア家の人々の〈孤独〉をわかりやすく体現していることもあって、アウレリャノ大佐を軸に読んだ。
2回目に読んだのは2019年。『名著のツボ』の取材のために読んだ。このときはラテンアメリカ文学の「マジックリアリズム」とは何かを理解したいと考えた。マコンドでは眠れなくなる奇病が蔓延したり、絶世の美女がシーツに包まって昇天したり、4年11カ月と2日にわたって雨が降り続けたりする。以前お話を伺った翻訳家の木村榮一氏によれば〈ヨーロッパの文学者の目には、魔術的、驚異的に映ったのでしょうが、南米にはヨーロッパにはない自然や風土があり、想像を超える破格の独裁者もいました。(マジックリアリズムは)意識的に追求された手法というよりも、現実そのものが驚異的なので、それをありのまま描いたら魔術的になった、と言うべきでしょう〉とのこと。
原始共同体的な村社会から賑やかな町になり、長い内戦を経てアメリカの大資本の介入によって繁栄し、さまざまな問題が出てきて衰退していく。マコンドの歴史はガルシア=マルケスの故郷、コロンビアの歴史と重なり合う。しかも、ジャーナリストだった彼は、 具体的な数字を効果的に用いて、一見ありえない出来事に現実味をもたせた。土地によってリアリズムは異なるのであり、小説はもっと自由に書いてよいということを『百年の孤独』は知らしめた。だからこそ世界中にフォロワーを生んだのだ。
今回は3回目だ。改めて精読したとき、女性たちのことが気になった。まず、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの妻であるウルスラ。ウルスラと夫は何百年も前から血を交えてきた家に生まれ、一緒に育ったいとこ同士だった。親戚には〈豚のしっぽ〉を持って生まれた子供がいた。ふたりは周囲の反対を押し切って結婚したが、ウルスラは妊娠することを恐れ、鍵つきのズボンをはいて寝ていた。しかし、そのことがある殺人事件の引き金になり、夫妻は故郷を離れてマコンドにたどりつく。
夫は錬金術にはまって虎の子の金貨を溶かすわ(文字通り鍋でどろどろに溶かして炭にする!)、長男は見世物小屋の娘に夢中になって出奔するわ、ウルスラの苦労は絶えない。一度はウルスラ自身も行方をくらますのだけれど、飴細工の商売を繁盛させて家を大増築する。妄想に取り憑かれた夫が栗の木の下で暮らすようになっても、おとなしかった次男がなぜか反乱軍を率いて政府軍との戦いに明け暮れるようになっても動じない。マコンドの独裁者になってしまった孫は容赦なく叱りつける。ウルスラの生命力の強さはマジカルだ。
ウルスラの娘、アマランタの話も引き込まれる。アマランタは姉妹同然に育ったレベーカと同じ男を好きになってしまう。仲良く刺しゅうをしていたふたりの美少女の恋の顛末は苦い。アマランタは母親に見限られ、手に黒い繃帯(ほうたい)を巻いて生きることになるが、こうしたら幸せになれるという規範に反逆して自分の感情に正直に動くところがいい。ブエンディア家の親戚ということになっているが素性はよくわからず、土を食べる奇癖があるレベーカの人生も想像をかきたてる。
色事とトランプ占いに長けているピラル・テルネラ、動物を殖やす不思議な力があるペトラ・コテスなど、ブエンディア家と影でつながる人々も魅惑的だ。『百年の孤独』の女たちは、家の内にいても外にいてもどこか魔女めいている。魔女たちの〈孤独〉も描かれているのだ。
友田とん
『百年の孤独』を代わりに読む
3回読んでも読み終えた感じがしない。まだまだ違う切り口で面白く読める気がする『百年の孤独』は、誰かと感想を語り合いたくなる本でもある。友田とんの『「百年の孤独」を代わりに読む』は、恰好の話し相手になってくれる。『百年の孤独』をこよなく愛する著者が〈まだ読んでいない友人たちの代わりに読む〉という試みを綴った読書エッセイだ。当初は自主制作本として出したものが人気を博し、早川書房から刊行された。
『百年の孤独』は、数字こそふられていないが、20の章(のようなもの)に分かれている。著者は〈冗談として読む〉〈なるべく関係ないことについて書く〉ことを心がけて、1章ずつゆっくり読んでいく。
第1章の「引っ越し小説としての『百年の孤独』」から、脱線の大胆さに魅せられた。著者はマコンドを開拓したホセ・アルカディオ・ブエンディアの腰が据わっていないと指摘し、『それでも家を買いました』というテレビドラマについて語る。1991年の日本のドラマと『百年の孤独』、女優の田中美佐子とウルスラが結びくところが楽しい。
伊丹十三監督の映画『タンポポ』、ドリフターズのコント、近藤聡乃の漫画『A子さんの恋人』……ほかにもバラエティ豊かな作品が登場する。著者の個人的な思い出も入ってくる。次第に本筋と脱線の境界が曖昧になって混沌としてくるくだりがスリリングだ。〈代わりに読む〉とはどういうことかを問いながら、読むという体験自体の深みを感じさせてくれる。
塚本邦雄
『新版 百珠百華 葛原妙子の宇宙』
芸術を鑑賞して何かを伝える人は、みんな〈代わりに読む人〉なのかもしれない。〈代わりに読む人〉の引き出しに詰まっている知識や教養や思考や経験によって、作品はどこまでも広がる宇宙になる。その意味でも百つながりでも同時に紹介したいのが次の作品だ。
塚本邦雄の『新版 百珠百華』は、戦後短歌史を代表する歌人が、葛原妙子の作品を100首をとりあげ、自ら解説した本だ。葛原妙子もまた戦後短歌史を代表する歌人であり、「現代の魔女」「幻視の女王」とも呼ばれた。
塚本は〈作者がただ一言、「花」と歌った時、その一首には花の持つ、あらゆる概念が集積され、すべての要素が匂い立つ。それを証するために、私は「百華」を、負けじと動員せねばならぬ。玲瓏たる二顆の珠玉の触れ合いを、言葉を以て伝えるには、私は百顆の珠をかき集めて、それを再現せねばならなかった〉と語る。その言葉通り、ひとつの言葉から爛漫なイメージが花開き、珠玉の表現が連なっていく。〈アンデルセンのその薄ら氷に似し童話抱きつつひと夜ねむりに落ちむとす〉という歌があれば、その童話とは何を指すのかから考えるのだ。
葛原の代表作として知られる〈他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水〉の読み解きも緻密だ。まず〈しづかなる的〉に着目して〈一体この世に、「騒がしき的」や「しづこころなき的」が存在するのだろうか〉と問う。あえて数え立てるべきでもなさそうな〈常態常識の的〉を〈しづかなる〉と修辞していると指摘する。そして〈眺めてあらば〉の〈ば〉という仮定順接の助詞について吟味する。〈ば〉だけでこれだけのことが書けるのかと驚嘆せずにはいられない。
葛原妙子の入門書として、さらに塚本邦雄の入門書としても最適な一冊。装幀も内容にふさわしく美しい。
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