BY KIMIKO ANZAI, PHOTOGRAPHS BY TOMOKO SHIMABUKURO
アロマティックな香りとふくよかな果実味で、女性に人気が高いシャンパーニュといえば「ヴーヴ・クリコ」だ。数あるシャンパーニュ・メゾンの中でもその華やかさは際立っている。
創業1772年の老舗で、大きく発展したのは2代目フランソワ・クリコの妻であったバルブ=ニコル・ポンサルダン(通称マダム・クリコ)の時代。27歳という若さで夫を亡くしたマダム・クリコは、家族や従業員を守るべく、まだ女性がビジネスに携わることなど考えられなかった時代にシャンパーニュ・ビジネスに乗り出した。ナポレオンが発した大陸封鎖令のもと、部下とともにロシア宮廷に自社のシャンパーニュを売り込んだのだ。「クリコ社」のシャンパーニュはロシア宮廷で大人気となり、当時の桂冠詩人プーシキンは「ロシアの上流階級の間ではクリコしか飲まない」と記したほどだった。
最高醸造責任者のドミニク・ドゥマルヴィル氏はこう語る。
「マダム・クリコは新進の気性に富んだ人物だったと聞いています。“ルミアージュ(瓶を手で回して澱を集める作業)”を開発したのは彼女。また、初めてブレンド法によるロゼを誕生させるなど、現代のシャンパーニュ造りへの道筋を示した人でもありました。いったい、どんな女性だったのだろうといつも想像を巡らしています。できることなら、話をしてみたいですね(笑)」
そんなドゥマルヴィル氏のもとに、2010年7月のある日、時を超えて“マダム・クリコからの贈り物”が届いた。あるダイバーチームが、北欧・オーランド諸島の海底に沈んでいた船から、47本の「クリコ社」のシャンパーニュを発見したのだ。
「ある日、コミュニケーション・ディレクターから電話がかかってきて、第一報を聞きました。『ドミニク、沈没船からうちのシャンパーニュが見つかったんだ』とね。彼はとても興奮していたので、最初はシャンパーニュでも飲みすぎて酔っているのではと思いました。なにしろ、土曜の夕方でしたからね(笑)。翌日、BBCのウェブニュースをチェックして、やっと『本当だったのだ』と実感がわきました」
メゾンの歴史家であるファビアンヌ・モローさんが古い文献を調べたところ、そのシャンパーニュは1839年のもので、当時マダム・クリコがロシアへの輸出を部下に指示していたことがわかった。その後、ドゥマルヴィル氏がオーランド諸島に赴き、シャンパーニュをテイスティングしたところ、香りこそ心地よいものではなかったものの、風味はきちんと残っていたことに驚かされたという。ボトルが眠っていたのは光が届かず、水温がつねに4℃に保たれた水深40メートルの場所。この深海の水圧はシャンパーニュの瓶内気圧(4~5気圧)とほぼ同じであるため、瓶が破損することなく保たれていたのだという。
この発見を機に、メゾンが始めたプロジェクトが“セラー・イン・ザ・シー”だ。これは、海中での熟成プロセスに関する専門知識への理解を深めるためのプロジェクトで、「オーランド・ヴォールト」と名づけられた海底貯蔵庫が、かつてボトルが眠っていた地点から約1㎞ほどの海底に設置された。
「海中貯蔵の方が熟成の進行はゆるやかになり、長期の熟成に向くのではないかと考えています。これから、またどんな結果が出るのか興味深いですね」。次に「オーランド・ヴォールト」が引き上げられるのは2020年。ドゥマルヴィル氏は、その日が楽しみだと笑顔を見せる。
メゾンの挑戦は、これだけでは終わらない。今シーズン、かつてない斬新なアイディアのシャンパーニュが新たに誕生したのだ。それがリザーヴワインだけを使用した「ヴーヴ・クリコ エクストラ ブリュット エクストラ オールド」。シャンパーニュの“ノン・ヴィンテージ”は、その年に収穫されたブドウのキュヴェ(一番搾りの果汁)に古いヴィンテージワインをアサンブラージュ(ブレンド)して造るのが基本だが、こちらはヴィンテージ・キュヴェだけを贅沢にブレンドしたもの。“メゾンの宝”ともいえる1988年ヴィンテージのキュヴェも使われている。複雑性があり、かつ華やかさを感じる味わいだ。
現代においてもなお、革新を続け、時代の先端を走り続ける「ヴーヴ・クリコ」。マダム・クリコの精神は時代ごとに姿を変え、確かに、ボトルの中に生きている。
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