BY MIKA KITAMURA, PHOTOGRAPHS BY MASAHIRO GODA
調理学校を卒業した彼が最初に配属されたのが、広尾の本店だ。パリ店のスーシェフを経て、広尾本店の料理長に30歳で就任。30歳は、名店の料理長としては経験不足と言われても仕方がない。さらに、1年たった頃、宏之のスペシャリテ(看板料理)をすべて封印せよ、とのお達しが下った。客から頼まれても断るように、と。大樹は追い詰められた。「スペシャリテがあれば、ほかのメニューに季節感を加味し、素材を替えるだけで十分やっていけます。でも看板料理がなくなったら、頼るものがない。しかも、それを楽しみに通ってくださるお客さまを失いかねません」
宏之は言う。「僕のスペシャリテは僕の顔です。違う料理人が作っても、それは別もの。これからは大樹の料理を楽しみにお客さまが通ってくださる店にしなければならないんです」
産みの苦しみは3年ほど続いた。ブレイクスルーは、食材に出合う旅だった。長崎・島原の食材を使ってディナーをとのオーダーを受けたのだ。現地へ赴き、さまざまな食材に出合うと、どんどんインスピレーションが湧いてきた。「これだ!と思いました。厨房で、自宅で、ウンウンうなっていたのがウソのよう。こうしよう、ああしようと視野が広がっていきました」
ソースを極め、食材の組み合わせを昇華させていった宏之の時代から、食材そのものに敬意を払い、そこから料理を作り上げていく大樹の時代へ――。「日本のフランス料理」を牽引してきたひらまつもまた、時代に合わせ、人々の嗜好に合わせて次なるフェーズへと進んでいくのだろう。
改めて、「フランス料理とは」という問いに、宏之がこたえてくれた。「世界最高峰の料理です。どの時代でも、フランス料理の料理人たちは世界の食文化を吸収して料理に昇華させ、それをフランス料理の技法に組み入れてきた」。もともとフランス料理はボーダーレスであり、どの国の料理人が作ってもフランス料理になるゆえんは、そこにあるのだと。
大樹は言う。「今まではフランス料理をなぞってきただけでしたが、これからは日本の食材を通して、僕なりのフランス料理を作り上げていく。それをひらまつの料理として、日本から世界へ発信していきます」。夕方の驟雨(しゅうう)が上がり、深みを増した軽井沢の緑の中、平松大樹はメンバーの待つ厨房へと戻っていった。