欧米では、「和食」は非常に繊細で美しい半面、厳格なルールにこだわるあまり、柔軟性に欠けると思われている。しかし今、新世代のシェフたちが既成概念にとらわれない新しい和食を創造している。彼らは、歴史が培ってきた和食の神髄とは何か、という命題に問題提起をしている

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY MARI MAEDA AND YUJI OBOSHI, FOOD STYLING BY REBECCA JURKEVICH, PROP STYLING BY VICTORIA PETRO-CONROY, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 横浜で生まれた文人、岡倉覚三(天心)は、1906年に『茶の本』を出版した。岡倉はこの本の中で、“茶の湯”と呼ばれる、何世紀にもわたって培われ、所作の粋を極めた日本の茶道を西洋人に紹介した。彼は、茶を飲むという何げない行為に込められた美意識は、「日常に存在する不浄な現実の中に美を見いだし、それを慈しむこと」だと記した。さらに岡倉は、その美こそが、芸術から文学、そして料理の“繊細な品々”に至るまでのあらゆる文化の礎であり、神髄だと理解すべきだ、と述べている。岡倉は、茶道の神秘を解き明かそうと試みたが、彼の書き記した言葉はその意図とは裏腹に、むしろ、日本人の食への向き合い方や、17世紀初頭から1854年までの鎖国政策で世界から隔絶されていた島国である日本を理解することの難解さを強調する結果となった。

 岡倉覚三の本が出版されて50年以上のちに、フランス人哲学者・文芸批評家のロラン・バルトが、1970年発行の著作『表徴の帝国』でさらにもっと難解な表現で日本料理を語っている。バルトは、日本料理とは、西洋の物質的な豊かさとは対照的に、ごく少量の盛りつけを尊び、人間と食卓と宇宙を秩序づける深淵な空間の中で展開される営みだ、と記した。今日でも、西洋人たちは日本伝統の“和食”をその強烈な観念で捉え続けている。つまり、ほぼ不可能なレベルまで厳密さを極め、各素材は、季節に合わせて最も旬のものだけをほんの少しだけ使い、刹那の生命をそこに反映させるという考え方だ(この哲学は“懐石”という、最上級の趣向を凝らした日本料理だけにあてはまるのだが、そのあたりは気にしなくてもいい)。

画像: 日本式の天ぷらの盛り合わせ (上から)かぼちゃ、海老、ブロッコリー、なす、椎茸、しその葉。イクラ、鰻とサーモンの寿司

日本式の天ぷらの盛り合わせ
(上から)かぼちゃ、海老、ブロッコリー、なす、椎茸、しその葉。イクラ、鰻とサーモンの寿司

 だからこそ、シェフの相馬睦子が采配をふるう、シアトルの小さな酒バー「Hannyatou(般若湯)」のキッチンで、スーパーのセイフウェイ印のハラぺーニョ・チェダーチーズ味のベーグルの袋を見つけたときには、ちょっと不安になった。スーパーのプライベートブランドのベーグルは、どんなカルチャーにおいても、美を代表するものとは、とても思えないからだ。ゴツゴツとした岩っぽい形のベーグルは大事な素材として扱われていた。細かくなるまで刻まれ、塩と麹で揉まれて(麹とは穀物や豆などにニホンコウジカビの胞子を植えつけたもの。コウジカビは系統発生的には、凝固した牛乳をブルーチーズに変質させるカビの親戚だ)何週間かたつと、ファンキーでとんでもない悪臭を発する物質になる。

相馬は栃木県で育ち、18歳で米国に移住した。彼女はここ数年間で、日本国外で、常識にとらわれず、予定調和とは正反対のやり方で日本食を提供するレストランを開いたシェフたちのひとりだ。彼らは、生まれ育った国を離れた異邦人だったり、移民だったり、二世や三世だったり、ガイジンだったりとさまざまで、往々にして紆余曲折の末、和食にたどり着いている。

 

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