BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPH BY ANTHONY COTSIFAS, FOOD STYLING BY YOUNG GUN LEE, SET DESIGN BY VICTORIA PETRO-CONROY, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA
「ムーサよ、晩餐の話をしてくだされ。滋味深き数々の晩餐の話を」
紀元前4世紀のギリシャの詩人、ピタネのマトロンは、ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の冒頭の言葉を借りて、「アッティクスの饗宴」という詩を書いた。
「オデュッセイア」のほうは、文芸の神ムーサに向けて、勇敢な英雄オデュッセウスの冒険譚をねだるところから始まるのだが、マトロンの作品に英雄は登場しない。乗り越えるべき危機も出てこない。出てくるのは食べ物に次ぐ食べ物、そして、それを食べる人間ばかり。ホメロスの叙事詩「イリアス」のトロイアへ向かう船出の描写に重ねながら、マトロンは「雪よりも白き」パン、「まるまる太った」アヒル13羽、テーブル9つ分もの長さがあるウナギ、一度に並べられないほどたくさんの魚料理や旬の料理を描写した。乗り越えるべき苦難があるとすれば、食後にぱんぱんになった腹だけだ。
古代ギリシャ人にとって──少なくとも、マトロンの詩を楽しんでいた貴族たちにとって、この描写はあくまでもおふざけだった。食べ物を詩のテーマにするなど本来は非常識なことであり、生きるために必要な分を超えて食への欲求を示すのは、いやしさの表れだった(哲学者たちは食事の定義として「sitos(穀物など主食になるもの)」と「opson(味わいを楽しむために添えるもの)」を区別し、後者を過度に礼讃することを諫いさめていた)。食べ物のことばかり考える人間は「あくじき」なのだ。同じく紀元前4世紀の詩人で、後世には美食レシピの発明家として知られるシラクサのアルケストラトスは、各地の名物を求めて海を渡り漫遊したことから、そのようにののしられたという。アルケストラトスは「食の悦び」と題した詩で、さまざまな料理を紹介した。詩は断片的にしか残っていないのだが、たとえば塩漬けにした魚については、その愛好家もひっくるめて酷評している。アテネ沖合で捕れる上質な魚を絶賛し、それ以外の小魚は食べられたものではないとこき下ろしたかと思うと、魚の調理方法についてのくだりでは「焼くべからず」と断じている。
2000年以上も前に書かれたにもかかわらず、この詩は不気味なほど、現代人にとってもどこかで読んだことのあるような文章だ。断定的で、大げさで、うわさ好きで、教えたがりで、妙に攻撃的。自分は料理の権威なのだ、知識があるのだ、とうそぶく(「粗末な食事と見事な食事を本当に見分けられる人間は少ない」などと)。ほんのひと口を大仰に描写し、堪能した食事をうっとりと語る。ひと言で表せば、アルケストラトスはフードライターだったのだ。そう呼んでも差し支えはないだろう。何しろ現代における食の専門家たちとよく似ている。どんなレシピにもストーリーを語りたがるシェフ、遊びなのか信念なのかこれまでに食べた食事をすべて暗記している食通、裏庭でのバーベキューまで記事にするジャーナリスト、変装してレストランに入店し、感想と称してナイフのような言葉を振り回す料理評論家たち。
だが、職業として食べ物について語るフードライターと、ただ食べ物について書く人との違いは、どこにあるのだろう。何らかのジャンルを細かく区切るときに起きやすい現象なのだが、フードライターという肩書には、どことなく俗っぽさがある。まるで、現代でも古代ギリシャと同じく、食べるという行為は卑俗なもので、真剣な熟考を伴うものではないと思われているかのようだ。華美すぎる晩餐会を表現した詩人のマトロンは、明らかに滑稽に描くことを狙っていた。一方で、アルケストラトスが詩に漂わせた雰囲気は、それとは少し違っている。彼は食の面白さをまとめるにあたり、自分は「人間の価値を高めるであろう科学の基盤を築いている」と豪語して、のちの学者たちから失笑を浴びた。だが現代のフードライター(おそらく私もそのひとりだ)が、味を絶賛するというおのれの領分をわきまえず、テーブルに並んだ料理をとりまく大きな問題──労働搾取、動物虐待、気候変動、グローバリゼーションのもとで進行する食文化の均質化、毎年数百万人を飢えに追いやる体系的な不正義の横行──にまで話題を広げると、やはり読者から反発を受けることがある。食を政治的な話にすべきではない、と。食は普遍的なもの、人と人とを結びつけるものであって、ケーキはただただ平和に食べていればそれでいいじゃないか、と。
言うまでもなく、人は昔から食べ物のことを書いてきた。現存している最古のレシピは、4000年近く前のメソポタミアで石碑に彫られたものだ。同じ頃に書かれた文章で、ロバの尻肉やら、犬やハエの糞やらを材料にした季節料理を教える悪ふざけの記録もある(排泄系のネタは有史前から定番だったらしい)。紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「野蛮人」(ギリシャ人以外という意味)の文化における食習慣を細かく書き記した。たとえば、ペルシャ人はデザートを山盛りにし、スキタイ人(註:紀元前8~3世紀のイラン系遊牧騎馬民族)は馬の乳を飲み、茹でた料理を好む、というふうに。大半はまた聞きの情報で、架空の話もあった。異国の民の異様さを強調してギリシャ人より劣ると理解させることが狙いだったのか、それとも食という共通の行為を通じて人間はかくも同じものだと示すことが狙いだったのかは、不明である。
とはいえ、調理技術のマニュアルではなく食そのものを書いた文章が出回るのは、もう少し時代が下ってからのことだ。18世紀半ばのパリで、現在では「レストラン」と言われる風変わりな施設が誕生した(「レストラン」という言葉は、病人が回復(レストア)するよう身体によいコンソメを食べさせる場所だったことが由来)。そして19世紀はじめに初の料理評論家が登場した。アレクサンドル=バルタザール=ローラン・グリモ=ドゥ=ラ=レニエールという人物だ。料理に関するガイドブック数冊を出版したほか、月刊誌も発行し、友人を集めてパリのシェフの格付けを話し合って掲載していた。その後、美食を好む政治家ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランが1825年に『Physiologie du Goût』(「味覚の生理学」。日本語版は『美味礼讃』〈岩波書店〉)という重厚な本を出版し、食というものを歴史家や哲学者が探究する領域へと昇華させた。この伝統が20世紀の西欧諸国でさらに進み、単なるレシピだけではない、読み物としての料理本が書かれるようになり、人々の、そして国全体の食のあり方を変え、食べ物に対する考え方を変えていった。こうした代表的な料理作家と言えば、イギリスのエリザベス・デイヴィッドやクラウディア・ローデン、アメリカのエドナ・ルイスやマドハール・ジャフリーなどだ。今日では、実にさまざまな形式や媒体で食について書かれ、一貫したひとつのジャンルとして定義しにくいほどになった。
注目したいのは、「料理作家、フードライター」という言葉がアメリカで使われ始めるのは1930年代になってからだったという点だ。しかも、きわめて限定的な職業を指す言葉だった。食品を扱う企業が急増し、消費者の心をつかみたいという狙いから、関心を引くための冊子が出版されるようになったのだ。冊子には、ブリア=サヴァランやイギリスの首相ベンジャミン・ディズレーリなど、19世紀の名士が書いた詩や名言(ディズレーリは1831年、滞在先のカイロから姉に送った手紙に、「世界で最も美味なるものはバナナだ」と書いた)とともに、ワンダーブレッド社のパンをハート形にした「ハネムーン・サンドイッチ」のレシピや、缶詰のカリフォルニア産アスパラガスの新芽とゼリー状にしたトマトをカクテルグラスに満たし「とびきり冷やして」供するレシピなどを掲載した。当時の家事は“女がするのが当たり前”とされていたので、冊子の対象読者は当然女性たちで、書き手も大半が女性だった(1932年の『ナショナル・ビジネス・ウーマン』誌には、「料理作家になるためには、家政学のどのような講座を学べばいいですか」といった読者の質問に答えるコーナーがあった)。ジャーナリズムにおいても、食は家庭のことという認識で、いわゆる「女性向けページ」に載せる程度という扱いだった。
その後、キッチンの光景が様変わりする。1920年のアメリカで電気を使えた世帯は3割を少し超える程度だったが、1930年にはその数がほぼ2倍になり、近代的な家電が広く普及して──1920年代にガスコンロと電気コンロが、1930年代に冷蔵庫が普及した──食事の用意が以前ほどの苦役ではなくなったのだ。料理を趣味とみなしたり、自己顕示の手段とみなしたりすることも可能になったことで、夫たちも腕まくりを始めた。主流メディアもこの流れに着目している。1940年には『Esquire』誌が、男性のほうが味覚は優れていると謳うフードコラム「男の厨房」の連載を始めた(執筆者アイルズ・ブロディが、恋人たちに暴力をふるったり脅迫したりして有名だった点は、ここでは追及しないでおこう)。2年後には『ニューヨーク・タイムズ』紙が、ジェーン・ニッカーソンという編集者を初のフードエディターに任命している。彼女は同紙の紙面で初めて「フードライター」という言葉を使った。ただし1949年の記事では、おどけ半分(おそらく嫌味もこめて)で同業者を「美食マスコミ」と呼びながら、豪華客船で供されるセロリの煮込みとドン・ペリニヨンといった高級メニューを紹介している。料理を披露する男性シェフいわく、「料理のテクニックとは美女のようなもの─言葉では言い表せない」。おそらく読者は、自分はなぜこんな表現を読まされているのだろう、と思っていたのではないか。