TEXT BY YUKIHIRO NOTSU, ILLUSTRAION BY YOKO MATSUMOTO

「開運」というめでたい名前の酒がある。新年を祝って飲むのにまことにふさわしい名を冠した銘酒だ。静岡県掛川市の土井酒造場を代表するこの酒を1968年から40年以上にわたって醸していたのは、杜氏・波瀬正吉である。
波瀬が生まれた奥能登は、日本四大杜氏の一つとされる能登杜氏のふるさと。なぜ能登の杜氏が静岡で酒造りをしていたのかと不思議に思う方もいるだろうから簡単に解説すると、杜氏とは酒造りを行うプロフェッショナルな職人(集団)のことで、普段は農業に従事し、農閑期の冬場になると、出稼ぎで酒造りを行いに全国各地へ赴いたのだ。もっとも現在では、蔵元が杜氏を兼ねたり、通年雇用の杜氏が増えるなど、その形態は変化しているが、酒造りにおける杜氏の担う役割が大きいことには変わりない。
能登杜氏のなかでも三盃幸一、農口尚彦、波瀬正吉、中三郎の4人は名杜氏として名高く、能登杜氏四天王と呼ばれている(三盃と波瀬は亡くなり、中は昨年引退し、現役は農口だけとなった)。菊姫(石川県白山市)は、農口が28歳から65歳で定年を迎えるまで杜氏を務めた酒蔵で、縁あって僕も愛飲している。定年後に杜氏となった鹿野酒造(加賀市)の「常きげん」、その後携わった農口酒造、そして現在の農口尚彦研究所の酒も飲んでいる。中三郎が昨年まで杜氏を務めていた車多酒造(白山市)の「天狗舞」も金沢に行くとよく飲む(行きつけの店限定の「天狗舞純米生蔵出しミニタンク」が甘酸っぱくフレッシュで、一杯目に飲む酒として実にうまい)。ちなみにこの二人が若い頃に修行した中山正吉商店は、今は富士高砂酒造(静岡県富士宮市)という名前になっているが、つい先日、ここの酒を飲んだばかり。冒頭に挙げた「開運」も静岡の大学で教えていることもあり、よく飲む酒だ。特に能登杜氏の酒を追っているわけではないのに、思いつくまま書いてみると、これだけの酒を飲んでいる。それほど能登杜氏の活躍が多方面にわたっているということもあるだろうが、能登流の酒が自分には合っているからかもしれない。

農口は能登流の酒の原点は「昔の宗玄(註:石川県珠洲市の酒蔵)の酒」「米を溶かして、濃くて米の味がする酒」と語っている。キレイでわかりやすい酒ではないかもしれないが、うま味のある酒はじっくりと付き合うと、その幅や奥行きがだんだんわかってくる。ひと口ごとに味わい深くなっていき、その世界の広がりの虜になる。
これは僕の音楽の好みとも似ているといえるだろう。たとえば、一般に吹奏楽の曲は派手で親しみやすいと思われがちだが、そうでない作品もたくさんある。保科洋(1936~)の作品はその代表といってもよく、何度も演奏したり聴いたりするうちに、知らずと音楽が沁み入ってきて、奥深さにハマっていく。1987年の全日本吹奏楽コンクール課題曲として作曲されのちに原典版として改訂された《風紋》は、35年以上経っていまだに演奏し続けられている課題曲のひとつだ(課題曲の多くは再演される機会が極めて少ない)。
ヤマハ吹奏楽団創立50周年委嘱作品として作曲された《復興》も、人々に愛されている作品。同曲は、昨年11月に行われた2024いしかわ秋の芸術祭「吹奏楽の祭典」で、能登半島地震の復興への願いも込めて保科洋の指揮のもと石川県高等学校スペシャルバンドによって演奏された。能登半島の吹奏楽部は近年の人口減少に加えて、震災と豪雨で極めて厳しい活動を強いられている。子どもたちの音楽の灯が消えないように祈りたい。
昨夏、被災した能登の酒蔵の復興応援(「能登の酒を止めるな!」プロジェクト)により、共同醸造された酒を飲む機会があった。車多酒造で醸造された櫻田酒造(珠洲市)の「大慶」と、「手取川」で知られる吉田酒造(白山市)で醸造された数馬酒造(鳳珠郡能登町)の「竹葉」だ。「能登はやさしさ土までも」という言葉があるという。作り手たちの思い、そして助け合って酒を醸す蔵人の志も宿るこの酒には、飲む人の心にそっと寄り添うような優しさが感じられた。

2024年夏、鶴来にある「和田屋」にて筆者撮影。「大慶」はスッキリとした味わいでほどよい酸味も心地よく、供された手取川の天然鮎と相性抜群だった。「竹葉」はオレンジのラベルの方を頂いたが、微発砲でほのかに甘くやさしい味わいが今も記憶のなかで鮮やかに立ちのぼる
PHOTOGRAPH BY YOSHIHIRO NOTSU

能登杜氏のもと酒造りを学んだ9代目蔵元夫婦が高品質の酒造りを丁寧に行う、輪島の白藤酒造店。生産規模は小さいが、繊細で奥深い味わいには定評があり、「奥能登の白菊」は全日空の国際線ファーストクラスで提供されたことも。地震、水害で大きな困難に直面するが、協力蔵を得て酒造りを続けてきた。今年3月、いよいよ自身の蔵で生産を再開するという。その味に出会うことは今から大きな楽しみである
PHOTOGRAPH BY NORIO KIDERA
<参考文献>
「広報のと」No. 58 2009年12月号

野津如弘(のつ・ゆきひろ)●1977年宮城県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、東京藝術大学楽理科を経てフィンランド国立シベリウス音楽院指揮科修士課程を最高位で修了。フィンランド放送交響楽団ほか国内外の楽団で客演。現在、常葉大学短期大学部で吹奏楽と指揮法を教える。明快で的確な指導に定評があるとともに、ユニークな選曲と豊かな表現が話題に。
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マツモトヨーコ●画家・イラストレーター 京都市立芸術大学大学院版画専攻修了。「好きなものは各駅停車の旅、海外ドラマ、スパイ小説、動物全般。ときどき客船にっぽん丸のアート教室講師を担当。
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