ジュディス・バーンスタイン。

ニューヨークにある自身のスタジオにて



 2017年夏、ジュディス・バーンスタインは、ロサンゼルスのボイルハイツにあるヴィーナス・ギャラリーの180フィートにも及ぶ外壁に、毛深い男性器のように見えるネジの絵を描いた。2017年10月には、ニューヨークのクイーンズにあるMoMA PS1で、下着姿の男女が生魚をたがいの身体に擦りつける、キャロリー・シュニーマンのビデオ作品が上映された。そしてロンドンのフリーズ・アートフェアでは、レナーテ・ベールトマンの、ピンク色をした双頭の男性器を花のように咲かせたサボテンの彫刻が展示されていた。


 性的な表現を含んだ、いわゆる“X指定”のアートは、もちろん今に始まったものではない。日本における17世紀の春画。ギュスターヴ・クールベが1866年に描いた、クローズップした女性器のポートレイト《世界の起源》。ピカソが1907年に描いた《アビニヨンの娘たち》――。性的描写は歴史を通じて、また文化を超えて人々に受け入れられてきた。1960年代には、乳首が硬く立ち上がり、口を開いて仰向けになった女性を描いたトム・ウェッセルマンのフラットで無表情な絵画がポップアートの先駆けとなった。そして、パフォーマーのヴィヴァとルイス・ウォルドンによる長いセックスシーンを描き、1969年に米国各地の劇場で上映されたアンディ・ウォーホルの《ブルー・ムービー》は、“芸術”と“エロス”の境界をさらにあいまいなものにした。


 これらの作品は、さまざまなレベルで論争を引き起こしてきた。クールベの作品は今なお衝撃的であり、1994年には彼の絵画が表紙になった本をフランス警察が書店のショーウィンドウから撤去するという事態まで起きた。こうした作品によって芸術家たちが共有してきたのは、それぞれの時代や文化において何が卑猥であるかを再定義しようとする意欲的な姿勢だけでなく、ある特有の視点だ。これらセックスを題材にしたアート作品は、いずれもストレートな男性によるものであったり、もしくはストレートの男性が“エロティック”だと感じるものをモチーフにしてきたのである(ゲイであることを公表していたウォーホルの《ブルー・ムービー》でさえ、生産されては消費されていくはかないポルノグラフィーを正当化したにすぎない) 。


だが今日、性的なテーマで最も注目すべき作品のいくつかを生み出しているのは、女性のアーティストたちだ。たとえば絵画シーンでよく知られているのは、バーンスタイン、ベティー・トンプキンズ、ファニタ・マクニーリーやジョーン・センメルなど。多分野で活躍する芸術家としては、シュニーマンやヴァリー・エクスポートもいる。彼女たちは皆、数十年にわたって評論家やキュレーターや観衆たちから――あからさまな迫害とまではいかないまでも――ほとんど認められることなく、作品を作り続けてきた。



《TWO PANEL VERTICAL》のあいだに立つジュディス・バーンスタイン、1973年

COURTESY OF THE ARTIST AND PAUL KASMIN GALLERY



 男性版ともいうべき前述の作品同様、彼女たちの主題もやはり“身体”だ。といっても、フェミニストの先駆者「プロト・フェミニスト」(ジョージア・オキーフ、アグネス・マーティン、リー・クラスナーなど)のように、花で生殖器を象徴したり、美を再定義したりはしない。彼女たちが関心を寄せるのは、もっぱら体液や男性の股間の膨らみ、分泌物といったものだ。アーティスト仲間や評論家は、こうした女性アーティストを「blood and guts club (血と内臓のクラブ)」あるいは「black sheep feminists (フェミニストの厄介者たち)」と呼んだ。そのキャリアを通じて、おおかたの作品が検閲され、敬遠され、日の目を浴びずにきたにもかかわらず、彼女たちは驚くほどコンスタントに創作活動を続けてきた。そして70歳代~90歳代となった今、ようやく彼女たち自身もその作品も、ありのままに受け入れられつつある。


 こうしたアートがじわじわと認知されるようになってきたのは、今の政治状況を映し出した結果であり、また政治に対する反応でもある。セクシュアル・コンセント(性的同意)や職場における男女平等についての議論が再燃し、女性の身体の生殖機能(避妊や中絶などの問題)に対して病的な好奇心を示す大統領に刺激されるかたちで、移民排斥主義の男権活動家が台頭する。そんな時代に、誰かが注目していようとしていなかろうと、アートを通じてセックスやジェンダーといったテーマを恐れず大胆に探求してきた女性たち――バーンスタインやシュニーマンや、ほとんど忘れられかけていたこの世代の女性たちは、かつてないほど今日的な意味を持ちはじめている。