フランク・ステラのミニマリズム抽象芸術作品は、彼がまだ駆け出しだった頃、目指すべき絵画の方向性を見直す指標となった。今、キャリアの終盤にあたり、83歳のアーティストが自身の若かりし頃を振り返る

BY MEGAN O’GRADY, PHOTOGRAPHS BY DOUG DUBOIS, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 彼はプリンストン大学に進学してさらに絵画創作にのめり込み、ラクロスとレスリングのチームに入った。専攻は歴史学で、のちにニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターを務めたウィリアム・セイツと画家のステファン・グリーンの指導のもとで美術を学んだ。1958年に大学を卒業すると、ステラはニューヨークに移住した。「大学を出たとき」と彼は言う。「一日じゅう絵を描く生活とは一体どんなものか、味わってみたいと思ったんだ。当時は朝鮮戦争とベトナム戦争の間で、まだ徴兵制度があった。軍の入隊試験が9月にあると知り、それなら試験までの間、ニューヨークに行ってアパートを探し、アルバイトをしながら絵を描こう、3カ月か4カ月の間、絵だけ描いて生活してみよう、と思った。そうしたら、運悪く──いや、運よくと言うべきか──入隊試験に落ちてしまった。父に電話して言ったよ。『ごめんなさい。ニューヨークに戻らないといけなくなりました。試験に落ちたんです』と。すると父はこう言った。『残念だな。せっかく男として一人前になれるチャンスだったのに』。両親にとっては、私が社会のお荷物になることだけは許せなかったんだ」ステラは少し間を置いた。「彼らの言う“社会”が何を意味していたか、わかるよね」

 1959年、MoMAで開催されたグループ展『16人のアメリカ人』展にステラの作品が選ばれたとき、彼は弱冠23歳だった。“ブラック・ペインティング”と呼ばれる彼の作品は、黒いマットなエナメルを帯状に塗り(家庭用のブラシとペンキを使った)、その隙間からキャンバス地の白がピンストライプのようにのぞいているというものだった。批評家たちは、極限までそぎ落とし、あえて平坦な印象を狙い、決して媚びることのないその表現に度肝を抜かれた。ステラの作品は、クールで賢く、それまで主流だった抽象表現主義時代の作品よりも、疑心暗鬼や畏敬の念が希薄だった。彼の作品は、今や現代美術にとって欠かせない進化の担い手として、また、きたるべきミニマリズム運動の触媒として、広く認められるようになったのだ。彼が二次元の面をことさら強調したのは、“絵画は三次元世界への窓”だという考え方を明確に否定する意思表示だった。

画像: 《Fez(2)》(1964年) FRANK STELLA, “FEZ (2),” 1964, FLUORESCENT ALKYD ON CANVAS, GIFT OF LITA HORNICK, DIGITAL IMAGE © THE MUSEUM OF MODERN ART/LICENSED BY SCALA/ART RESOURCE, N.Y. © 2020 FRANK STELLA/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

《Fez(2)》(1964年)
FRANK STELLA, “FEZ (2),” 1964, FLUORESCENT ALKYD ON CANVAS, GIFT OF LITA HORNICK, DIGITAL IMAGE © THE MUSEUM OF MODERN ART/LICENSED BY SCALA/ART RESOURCE, N.Y. © 2020 FRANK STELLA/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 ジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグ、エルズワース・ケリーやルイーズ・ネヴェルソンといった人たちとともにMoMAでの展覧会に参加し、自分の4作品が世に出たことで、彼のキャリアはスタートした。だが翌年、ニューヨークのギャラリー、レオ・カステッリで行われた最初の個展では、作品はほとんど売れなかった。ステラは住宅の塗装をして生活費を稼ぎ、水しか出ないアパートを借りて、スタジオをフィリップス・アカデミー時代の友人であるカール・アンドレとホリス・フランプトンとシェアした。彼の話を聞きながら、郷愁に浸るなというのは無理な話だ。かつては若者がマンハッタンにやってきて、ひたすら創作活動に没頭できる時代があったのだ。現在のマンハッタンは、多くの場所が富裕層御用達の“塀で囲まれた”コミュニティになってしまった。

 時代と、アーティストとしての彼の存在が、絶妙なまでにぴったり合っていたのではと言うと、「運がよかったってことだろうな。でも実際に、システムにはずいぶん助けられたよ」とステラは言う。ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマン、そしてジャクソン・ポロックらに心酔し、彼らの影響を受けていたステラは、ニューヨークでは、絵画においてどんなことをやってもいいのだというお墨付きを得たようなものだった。ステラのキャンバスは次第に大きなサイズになっていき、床に置かなければならないほどの大きさになった。「イーゼルに収まるような絵画ではなくなっていた」と彼は言う。「基本的に、私は、自分の身体よりちょっと大きなサイズの絵画の前に立って、家の壁を塗るように作品を作っていた。それが私にとっては心地よかったんだ」。彼はホフマンの下で学んだ抽象画家のヘレン・フランケンサーラーの名前を挙げた。彼いわく、当時最も不当な評価を下されていたアーティストのひとりが彼女だという。「彼女の作品は、いつも面白くて、いつも素晴らしく、そしてものすごく難解だった。でも、売れることはほとんどなかった」と語った。彼はキャリアの初期に、彼女からお互いの作品を交換しようともちかけられたことがある。だが、ステラは恐縮しすぎてその申し出を受けることができなかった。

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