フランク・ステラのミニマリズム抽象芸術作品は、彼がまだ駆け出しだった頃、目指すべき絵画の方向性を見直す指標となった。今、キャリアの終盤にあたり、83歳のアーティストが自身の若かりし頃を振り返る

BY MEGAN O’GRADY, PHOTOGRAPHS BY DOUG DUBOIS, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 当時の仲間たちと今も連絡をとっているかと聞くと、彼は頭を横に振った。「ノー。みんな死んでしまったか、死にかけているかのどちらかだ。私はすでに『彼、まだ生きてる?』と言われるカテゴリーのアーティストなんだよ。君、笑っているけどね、手紙を見せようか。ある男が私の作品をすごく気に入って、私がまだ生きているかって問い合わせてきたんだ」

 1960年代末までには、ステラは平面に興味を失っていた。フェルトと紙と木でできた構造体をキャンバスの表面に貼りつけてレリーフを作り始めた。そんなふうにしてできたのが1971年の作品『Chodorow II』だ。ナチスによって破壊された同名のユダヤ教の寺院がモチーフだ。その作品は、ルネサンス以降、西洋芸術を支配していた、観る者を引きこむタイプの絵画とは、ある意味真逆のコンセプトだとも言える。「この作品の背後にある考え方は、絵画を描くのではなく、絵画を構築する、ということなんだ」とステラは言う。「最初に構築してしまえば、それは全部私のものだ。そのあとで、上から絵を描けばいい――それだけのことさ」。乱暴に言えば、ミニマリズムが用ずみになったから捨てて、マキシマリストになったとも言えるだろう。

 多くの場合、新しい素材を実験的に試すと前進への手がかりが見つかるものだ。「必要に迫られてのことだよ。ひとつのことにはまってしまうと、不安になるからね。いつも何かを探しているんだ。俗に言う暗闇からの脱出ってやつさ。物をじっくり観察するのは当たり前のことだ。他人が何をやっているかをよく見て、何が使えそうか見るんだ。何かを探すことはやめられないよ。ほとんどはアート界の中で探すけど、それじゃ視界が狭いような気がするから、外の世界も見ないと。いつかは現実の世界に出ていかないとね」

画像: 《Grajau I》(1975年) FRANK STELLA, “GRAJAU I,” 1975, MIXED MEDIA, ALUMINUM, COURTESY OF THE GLASS HOUSE, A SITE OF THE NATIONAL TRUST FOR HISTORIC PRESERVATION, PHOTO BY ANDY ROMER © 2020 FRANK STELLA/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

《Grajau I》(1975年)
FRANK STELLA, “GRAJAU I,” 1975, MIXED MEDIA, ALUMINUM, COURTESY OF THE GLASS HOUSE, A SITE OF THE NATIONAL TRUST FOR HISTORIC PRESERVATION, PHOTO BY ANDY ROMER © 2020 FRANK STELLA/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 そんな瞬間を体験し、ステラは前進するためには、後ろを振り返らなければならないのだと気づいた。彼は1982年から83年にかけて、ローマのアメリカン・アカデミーで研修をしていた頃、カラヴァッジオやルーベンスの作品の研究に没頭した。そのリサーチがきっかけで、1986年に『ワーキング・スペース──作動する絵画空間』という本が発行された。彼がハーバード大学で80年代初期に行った一連の講義の内容をまとめたものだ。その著作の中で、彼は自分の新しい作品は、抽象絵画が抱える危機への回答だと定義した。ステラは本の出版と同じ時期に《白鯨》シリーズの作品を作り始め、1997年まで制作しつづけた。このシリーズで彼は、波と船を暗示するシルエットを描くことで、抽象画に物語を伝える力があることを実証した。

 90年代と2000年代初期には、ステラのごちゃごちゃした作風はさんざん酷評されたが、この時期の多くの作品――たとえば、『白鯨』の影響を受けて生まれた壁画サイズの版画《The Fountain(泉)》(1992年)。また、あまり注目されなかったが、頑丈な金属に塗装を施した作品の数々。なかでも特筆すべきは2004年の《Ngebat》で、ステンレス・スチールとカーボン・ファイバーをひねってつなげた構造体だ――は今改めて見ると、新鮮でワクワクする。今のヨーロッパやアメリカのアーティストはみな、ある程度、無意識のうちにステラの影響を受けているといえるかもしれない。異質の素材をコラージュするアセンブリッジ・アーティストのジェシカ・ジャクソン・ハッチンズや抽象画家のサラ・モリスなど、ステラから影響を受けたとはっきり名指しする人々もいる。

 私が帰る前に、ステラはスタジオの裏側にあるカーテンの奥へと私を案内して、最近の作品を見せてくれた。「この先は女人禁制なんだけど、特別に入れてあげよう」とジョークを言いながら。そしてなんと、私はそこで、ステラの工業用の研磨機や塗装スプレーを見ることができ、さらに個人コレクターのために手がけている新作もちょっとのぞかせてもらった。

 もし、無秩序がすべての物質の行き着く先だとしても――物理学の法則においてもそうだし、現代芸術でもそうだ――この宇宙の中で、いくつかの物質は、実際に不変であり続けるのだ。ステラの“星”は、空間、光、スピードの原則に従って構築され、おそらくは永遠に拡大していき、美術史の中で決して輝きを失うことはないだろう。少なくとも、当分の間は。「基本的に、ひとりのアーティストであるということがすべてだよ」と別れ際に彼は言った。私がお礼を言ってコートと傘を手にすると、彼は葉巻を取り出し、「どういたしまして」と微笑んだ。「喫煙のことは書かないでくれよ」

画像: 《Hercules and Achelous (ヘラクレスとアケローオス)》 (2017年、中央)など、ステラのスタジオ内にある作品の数々 CENTER: FRANK STELLA, “HERCULES AND ACHELOUS,” 2017, ALUMINUM © 2020 FRANK STELLA/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

《Hercules and Achelous (ヘラクレスとアケローオス)》 (2017年、中央)など、ステラのスタジオ内にある作品の数々
CENTER: FRANK STELLA, “HERCULES AND ACHELOUS,” 2017, ALUMINUM © 2020 FRANK STELLA/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 時代を超えて、ステラの精神がどんな高みに到達したかは、答えの出ない問いだ。かつてはヒリヒリするほど過激だったミニマリズム絵画が、時の流れの中で、必然的にそのパワーを失っていった。アートがしばしば社会的、政治的な問いにとらわれてしまう現代において、色や形や構図という構成要素を重視して、絵画的な表現や象徴的な意味づけを避けることは、不思議と安全な感じがするし、誰もがそれに同意するだろう。たとえば、IKEAの羽布団にプリントされた色鮮やかな幾何学模様を見ればわかる。だが、ステラの初期の作品に見られるスケールの壮大さや堂々たる自信は否定のしようがない。シカゴ美術館の現代絵画のセクションで、私は、観光客が《Hatra I》の前でじっと止まって動けなくなるのを何度も見た。これは、ステラが1967年に描いた、《Protractor(分度器)》シリーズの最初の作品のひとつだ。大きくカーブする弧や、交差する弧によって構成されており、キャンバスの形もその弧に沿っている。横6メートル、縦3メートルの大きさの、アクリル塗料の鮮やかな色彩が輝くようなその作品は、いまだに人々に強く訴えかけてくる。

 ステラの隣に座って、彼の作品を一緒に見ていくうちに、ミニマリズムを、魂がない、学問的だ、単なる口直し的なビジュアルだと考えるのは、あまりにも大きな誤解だと思った。むしろミニマリズムは、簡単に名づけ得ない気持ち、つまり、ほとんど身体的反応と言ってもいいような、全身の覚醒を模索しているのだ。目の前に“見えているもの”がすべてだ。しかし、“感じるもの”も、常に重要なのだ。

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