BY YUKA OKADA
世の中にパブリックアートは数あれど、街の至る場所でその様々な表情がこれほどまでありありと目に飛び込んでくる作品は、他に存在するだろうか。
サイズは実に、南北約34メートル、東西約30メートル、高さ約20メートル。道後温泉本館を覆ったその巨大なテント膜は、大竹伸朗にとって過去最大の公共作品であり、同時にその存在をよりビビッドに印象付けているのは、大竹が調色した10数種の自家製色紙によるちぎり絵のモチーフだ。原画を約25倍に拡大してターポリン素材に高精密にプリントし、ちぎった部分の繊維までを映し出して生き生きとした表情を見せる。
「道後温泉といえば日本最古といわれる由緒ある温泉ですし、オファーをくれた松山の若いスタッフからもメールの段階から尋常ではない熱意が感じられて、少し面食らいながらも光栄で、二つ返事でお受けしました。でも、よくよく考えるとこんなに大きな規模のものは手がけたことがなくて、展示期間も工事が終わるまで3年間と長い。僕はいつもスケッチも下絵もプランもつくらないので、うまくいけばいいけれど万が一駄作を作ってしまったら…と心配でどんどん寝付けなくなって。漠然とテーマだけは道後に湧き続ける湯と宇宙の摂理の関係から“エネルギー”と決めて、最初は絵の具で描いたりもしていたんですけど、最終的に『今回はちぎり絵だな』と。というのも、いったん貼った後でも剥がせて、その跡がまた味になったりもする。絵を描くにもパソコンを使う人も少なくない時代でもあるし、ハサミやカッターといった道具も極力使わず、『初心に帰って指先だけでいこう』という想いもあって、30〜40cmの紙を用意して様々な色を塗っていくことから始めました」
一枚一枚の自家製の色紙はベタッと貼らず、あえて二カ所くらいを木工用ボンドで留めることで、紙と紙の間が浮いているような感覚にしたかったという。目指したのは色が“貼って”あるというより、そこに色が“置いて”あるような仕上がり。5面を覆うちぎり絵はイメージを変えて、東面には道後の街からもその頂を眺めることができる、西日本最高峰の石鎚山。市街地からやってくるとまず目に飛び込んでくる車道沿いの南面には、最初に道後温泉を発見したとされ、宇和島でもよく見受ける白鷺。さらに北面は湯の波紋やエネルギーが街に流れて繋がっていくようなイメージを。商店街のアーケードと向かい合う西面はそのまま活気あふれる街や地図を表現。そして屋根には神羅万象を覆う宇宙をイメージし、太陽や月、地球を描いた。
「直島の作品(直島銭湯「I♥湯」)もそうですけど、公共のものである以上、孫を連れたおじいちゃんやおばあちゃんでも、みんなが一緒に指をさして話せるような作品にしたいんです。だから、石鎚山と白鷺は具象的にしました。いろいろなアーティストがいていいと思うけれど、僕はもともと小難しかったり主張が強すぎるアートがあんまり好きじゃなくて。音楽もそうですけど、哲学的なことやヒストリーを何も勉強していない人でも入り込めるものであることが、いちばん大事なんじゃないですかね」
一方で大竹自身も、現代美術の範疇で語られることに、若い頃からずっと違和感を抱き続けてきた。今の時代の表現の多くが理屈っぽくて洒落が利いていないと前置きしたうえで、「そういう意味では、アート史に対して無自覚な自分がやっていることがはたしてアートなのかどうか、いまだにわからない」と語る。しかし、業界文脈にとらわれない存在と作品は、むしろ世界にまで轟いており、近年もドクメンタ(2012)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2013)、アジア・パシフィック・トリエンナーレ(2018)など重要な国際美術展に招聘されている。
今年11月からは、東京国立近代美術館を皮切りに国内3館を巡回する大規模展覧会が開催される。遡ること2006年、50歳のときに東京都現代美術館で開催された大回顧展「全景/ZENーKEI」では、宇和島から4トントラックで27台分、2000点以上の作品を運び込んで、美術館の壁という壁にほとんど隙間なく展示。アートファンの間で今なお語り継がれている。
「美術館の言うことを聞いて万が一失敗しても、彼らが人生の責任をとってくれるわけじゃない。だったら、自分のやりたいようにやるだけだと。結婚相手が宇和島出身で東京から移り住んだのが30代前半の頃で、当時アートは絶対的に都会のもので宇和島では誰からも必要とされなくて、まだSNSもない時代で、出会いもガス抜きをする場所もなくて。だから、作品をつくるきっかけをあらためて考えざるを得なかったし、わかってもらうためにつくるしかなかったから、『全景』ではそれまでつくってきたものをできるだけ全部見てもらいたかった。でも、そのあと何度展覧会をしても、次の段階に行けないし、60代半ばになった今も自分のペースで楽しく絵を描けているなんてこともない。もっと規格外のものをつくりませんか、と提案してくれる人がいれば喜んで引き受けるんですけど。そんなことが起きないまま爺さんになっていくのを感じます」。そう苦笑するが、一方でコロナ禍を経て思うこともあったという。
「多くの人が同じようなことを感じたと思うんですけど、実は人生なんて薄氷の上を歩いているようなもので、うまくいこうがいくまいが、やりたいことは即やったほうがいいなと。実現していないことがたくさんあるんです。焼き物や書、童謡なんかもやってみたいし、絵本ももう一冊くらいはつくりたい」
すなわち、アートの文脈に則すことより、それが自分の一部として出てきたものか否かだけを見つめ、人々へ届けるにあたっても、誰よりもまず自分自身が納得するかたちで――。
美術家である以前に一人間として偽りなく生きる。そんな大竹が生み出す作品は、だからこそ愛媛・道後のパブリック作品しかり、同じく日々をサバイブする人々におのずと寄り添い、今日も圧倒的なエネルギーを放ち続ける。
大竹伸朗(SHINRO OHTAKE)
1955年、東京生まれ。1980年代初頭より国内外で作品を発表。1988年に制作拠点を愛媛県宇和島市に移し、絵画を中心に音や写真、映像を取り込んだ立体作品、エッセイ、絵本など多彩な作品を展開。2014年、国内外4カ所で行われた展覧会の功績により芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2022年は5月8日まで開催中のハワイ・トリエンナーレに参加。11月1日〜2023年2月5日まで東京国立近代美術館で国内では16年ぶりの大規模展覧会が開催予定。