「アーティストから敬愛されるアーティスト」の典型であるアレックス・カッツ。彼は画家として恐らく史上最長かつ持続的なキャリアを築いてきた。95歳の彼は作品を完璧なものにするために、今も多忙な日々を送っている。2022年10月21日からNYで大回顧展が開かれているカッツの軌跡を全3回にわたってお届けする

BY AMANDA FORTINI, PHOTOGRAPH BY ALEC SOTH, TRANSLATED BY T JAPAN

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 アレックス・カッツは1927年にブルックリンのシープスヘッドベイで生まれた。大恐慌に突入する直前の1928年に、カッツ一家はクイーンズのセントアルバンズに引っ越し、彼はそこで育った。彼が初めに芸術の影響を受けたのは、移民だった両親からだ。両親は第一次世界大戦中のロシアで出会い、その後ニューヨークで再会したのだ。カッツの母のシーマは女優で、ロウアー・イースト・サイドにあったユダヤ系の劇場のスターであり、エラ・マリオンという芸名で活躍していた。彼女は「文学が大好きだった」とカッツは言う。彼女は辞書やエドガー・アラン・ポーの作品集や詩を読んで自力で英語を学び、当時4歳だったカッツにも詩の暗唱をさせた。彼女は、皮肉の利いたユーモアの持ち主でもあった。自叙伝の中で、カッツはホテルのロビーで母親と別れたときの思い出を語っている。カッツが「今日は話せて本当によかった」と母に言うと、彼女は「ありきたりな絵を描かないように」と返したという。

 父親のイサクは、コーヒーの卸売業に携わっていたが、カッツが16歳のときに亡くなった。父が母に出会って結婚する前のことをカッツはこう語る。「彼はビリヤードで遊んで女の子たちを追いかけていた。彼はプレイボーイだった。それが彼の仕事だったんだ」。カッツは父のことを「上流階級の人々の振る舞いを見て真似していた」と言い、そんな父親のセンスのよさは、幼かった息子に強い印象を残した。自叙伝の中で、カッツは自分の家を「近所のほかの家とは違っていた」と回想している。彼の父は家の壁を「趣味のいい色」である薄い黄色に塗り、居間には紫色のパネルを貼っていた。さらにサンルームの壁はピンクで、そこにえんじ色の三角形の模様をちりばめていた。彼の両親は、彼らの友人が描いた表現主義の絵画を家の壁に掛けていた。「ヨーロッパの表現主義の絵画を飾っている家など周囲にはなかった」とカッツは語っている。「そもそも、絵画がある家などほかに一軒もなかった」。両親の教育のやり方も風変わりだった。カッツと、1931年に生まれた弟のバーナードは「のびのび子育て」などという言葉が存在しなかった当時から、自由を与えられて育った。「やりたいことは何でもやっていいと言われた」とカッツは回想する。「もし何かを壊したり、ひどいことをしたら、両親は『大丈夫。同じことを再びしなければいい』と言うんだ」。たとえば、幼かったカッツが階段脇の壁いっぱいにクレヨンで絵を描いたときにも、両親は怒らなかった。「その絵は10年から12年くらいそのままにしてあった」と言ってカッツは笑う。「両親はあの絵を気に入っていたんだ」

 カッツはクイーンズにあるウッドロー・ウィルソン職業高校に進学することを決めた(彼が卒業した小・中学校の校長先生は、マンハッタンの音楽芸術高校をすすめたが、その助言には従わなかった)。近所に住む駆けだしのアーティストの若者が、ウッドロー・ウィルソン高校では「一日の半分の時間を美術に費やせるぞ」とカッツに言ったが、実際それは本当だった。同校で学んだ2年間、カッツは午後の時間を古い石膏像のデッサンをして過ごした。この勉強法は、短く見積もってもルネサンス期にまでさかのぼる古い手法で、美術学生たちが古典の彫刻の石膏レプリカを模写するというものだ。それ自体、悪い訓練ではなかった。だが、同時にこの高校は音楽、ダンス、ファッションの中心地でもあり、同校が真の意味でカッツに教えたのは、スタイルをもつことの大切さだった。自分のスタイルを貫くことは、カッツがこれまで情熱を注いできたことのひとつであり、彼がこれから描く絵画にも共通する定番の特徴だ。ファッショナブルだと思うものへの彼の嗅覚について尋ねると、「それは人によって違うし、誰もが自分の感覚に頼っている」と言う。「それは空気中に漂っていて、流れていくようなものであり、アーティストたちは多かれ少なかれ、それにこだわっている」

画像: カッツのスタジオにある道具用キャビネットの上には、インスピレーションを呼び起こす小道具がいくつも置かれている

カッツのスタジオにある道具用キャビネットの上には、インスピレーションを呼び起こす小道具がいくつも置かれている

 海軍で短期間働いたのち、カッツは1946年にニューヨークにある芸術、建築、工学の大学であるクーパー・ユニオンの入学試験を受けて、授業料免除の待遇で合格した。同校のカリキュラムは現代アートに重きを置いており、キュビズムとバウハウス・デザインに特化していた。カッツは学生時代のほとんどの時間を、街中やレストランや地下鉄で「人々の構図」をスケッチして過ごした。グッゲンハイムの回顧展では、当時の彼がスケッチブックに描いた地下鉄での白黒の素描も展示される。その絵を見れば、彼がその後に描くことになる、余計な部分をとことんそぎ落とした肖像画の原型がどこから来ているのかがわかるだろう。

 卒業後は、1949年の夏から1950年の夏にかけて、メイン州のスコウヘーガン絵画彫刻学校から奨学金を支給されて学んだ。その間に、彼のそれまでの創作技法を根本から覆し、永久に変えてしまうほどの天啓とも呼べる体験をした。スコウヘーガンでは、学生は風景画を屋外で制作する(クーパー・ユニオンではまずデッサンから行うのが普通だ)。彼はこの「直塗り」の手法を使うと、絵が素早く描け、仕上がりがより自然なことに気づいた。「それはまるで、生まれて初めて性欲を感じたときのような感覚だった」と彼は語っている。

 メイン州の陽光も、彼にとっては驚くべき発見だったと自叙伝に綴られている。「印象派の絵画の中で描かれていた光よりも、もっと豊かで暗い……それは、ヨーロッパの絵画と自分を切り離し、自分なりのものの見方を見つけるのに役立った」。その数年後、カッツと画家のロイス・ドッドと、カッツが在学中に出会って1950年に結婚した当時の妻で抽象画家のジーン・コーエンの3人は、メイン州のカムデンに近い海辺の小さな町、リンカーンビルの家と土地を1,200ドルで購入した(彼がその後描く絵に頻繁に出てくる黄色い農家だ)。カッツ夫妻は1956年に離婚したが、彼はその家を売らなかった。陽光、特にメイン州の日の光は、草と木の葉の上にまだらな影をつくり、湖面に映る太陽の照り返しがまるで目を射るように眩しい。光こそがその後の彼の風景画の真の題材になるわけだが、その点には異論を唱える人もいるかもしれない。

画像: 《Lake Light(湖の光)》(1992年)はメイン州の風景を描いた作品。1949年以来、カッツは夏の間、同州で絵を描いている ALEX KATZ, “LAKE LIGHT,” 1992, OIL ON LINEN, ART AND NATURE FOUNDATION, BAD HEILBRUNN, GERMANY © 2022 ALEX KATZ / LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK, COURTESY OF THE COLLECTION OF THE ART AND NATURE FOUNDATION, BAD HEILBRUNN, GERMANY

《Lake Light(湖の光)》(1992年)はメイン州の風景を描いた作品。1949年以来、カッツは夏の間、同州で絵を描いている
ALEX KATZ, “LAKE LIGHT,” 1992, OIL ON LINEN, ART AND NATURE FOUNDATION, BAD HEILBRUNN, GERMANY © 2022 ALEX KATZ / LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK, COURTESY OF THE COLLECTION OF THE ART AND NATURE FOUNDATION, BAD HEILBRUNN, GERMANY

 新しい肖像画の描き方を模索する中で、カッツは1950年代末に画家としての新境地を開いたが、そこに到達するまでに10年近くの間もがき続けた。1954年にニューヨークのロコ・ギャラリーで開催した初の個展を、彼は失敗だったと言明している。その後1959年までの数年間、彼は夜になると、色とりどりの紙を使い、10×15㎝の小さく美しい、あざといほど郷愁を誘うコラージュを制作した。誰もいない海岸や自然をシンプルに描き、時には風景の中に人々を配置した。そこには1954年に死去したマティスの晩年の切り絵作品からの影響が表れていた。「サイズは小さいけれど、スケールは壮大だ」とカッツの友人であり詩人のフランク・オハラは、この小さな魅力ある作品について記している。だが、そんな日々でもカッツは、昔からずっと情熱を抱き続けてきた、絵を描くことに真剣に向き合い、修業をしていた。「僕は1000枚の絵を破壊した。何か描いてみて、うまく描けないと捨ててしまった」とカッツは言う。「でも、それを7~8年間繰り返しているうちに、素晴らしい技術をものにした。1958年の年末か1959年の僕の絵を見てみれば、熟練した技術に裏打ちされているのがわかるよ」

 会話をする中で、カッツは大言壮語と自己卑下の両極端を行ったり来たりしていた。最近描いた2枚の風景画作品を見ながら、彼は「絶好調だ」と言う。それは《Black Brook(黒い小川)》と題したシリーズ作品の最後の二つの絵画で、濃い茶色に塗られ、大胆な青い筆のアクセントが効いている。ブラック・ブルックというメイン州に実際にある川を表題にしたこの一連の作品には、抽象画にかなり近いさまざまな手法が用いられている(カッツはこのシリーズを1988年の作品《Ada in Front of Black Brook(ブラック・ブルックの前のエイダ)》からスタートさせた。彼は、泥の色をした水の前でエイダがもの思いにふける様子を、彼女の後頭部を描くことで表現した)。その会話の二日後、今描いている新しいシリーズ作品について話している最中に、彼はこう言うのだ。「僕には自信がまったくない。いや、何言ってるんだ、単なるアイデアじゃないか。全力を尽くして描いているけれど、果たして意味があるものに仕上がっているのかわからないんだ」。彼が豪語するときは、冗談交じりなのだということは理解できる。だが、彼と接し、観察してわかったことは、彼は筋金入りの負けず嫌いでもあるということだ。

「僕は誰よりもうまいと思う」と、あるとき彼は私に言った。彼の活力と芸術的欲望は、彼の年齢を鑑みれば、ほとんどコミカルなほど感動的だ。恐らく、そのエネルギーの源は朝の日課にしているキャリステニクス(註:自分の体重を利用した筋トレ)だろう。トレーニングの一環として、彼はいつも懸垂を何セットかこなしているという。「彼の頭脳の鋭さと、絞られた体つきは信じられないレベルだ」と彼のアート・ディーラーのブラウンは言う。「彼が今描いている作品は、95歳が手がけるにしてはとてつもなく巨大なサイズだよ」

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