イタリアの町、イヴレーア。かつて、タイプライター製造業のオリベッティの城下町として栄えた。同社は労働者の権利を尊ぶ模範的な企業として、また先進的なデザインでその名を轟かせた。今、この町はひとつの教訓であると同時に、忘れ去られたユートピアの幻影でもある。――そして、人道的な労働を実現しようとした壮大な実験の証しでもあるのだ

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY NICK BALLÓN, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 イヴレーアは上空から見ると、砂時計のような形をしており、真ん中のくびれ部分にはドラバルテア川が流れ込んでいる。北部は町の歴史の中心部で、どこにでもあるような狭い石畳の小道が、気持ちのいい広場に続いている。南部は建物が広範囲に散らばっており、それらを訪れるには車を使うのが一番だ。建物はときにヴィアジャーヴィス通りから少し引っ込んで建てられており、無用となった飾りアーチが通りとの間を隔てている。それらの建物にこそ、この町の、すでに色あせてしまった産業の歴史とマネジメントの遺産が眠っているのだ。

 ヴィアジャーヴィスはこの町の動脈のような道路だ。イタリア語でその名を言うのは不思議な感じがするが、ファシストに捕らえられ、1944年に兵士たちに射殺された闘士グリエルモ・“ウィリー”・ジャーヴィスにちなんで名付けられている。私が滞在していた隣町のゲストハウスからその通りを歩く道すがら、かつて栄華を極め、今ではもう力を失った思想が、完全に虚無と化してしまったのを実感した。1980年代のオフィスビルはさびれ果て、何の変哲もない建物に見える。かつてはそのビルを中心に活気あるさまざまな催しでにぎわっていただろうに。テニスコートには雑草が生い茂っていた。

 イヴレーアは紀元前5世紀以降に開拓された土地で、ローマ共和国時代は、エポレディアと呼ばれていた。だがその名が広く知られるようになったのはルネサンス期で、トリノを拠点とするサヴォイア家の支配下に置かれたときだった。そんな過去の驚嘆すべき軌跡の一例が、町のサン・ベルナルディーノ教会に静かに眠っている。当時無名だったイタリア人画家のジョヴァンニ・マルティーノ・スパンゾッティが1490年頃までに完成させた、キリストの生涯を描いた一連の荘厳なフレスコ画がその壁に描かれているのだ。このカトリック教会を中心とするコミュニティこそ、カミロ・オリベッティが家族とともに移り住んだ場所だった。カミロは町のどこからでも見えるアルプスに連なる丘で生まれ育ち、この町に今も残る煉瓦造りの建物内で、タイプライター製造会社を立ち上げたのだった。サン・ベルナルディーノ教会の漆喰の壁の前に立ってみると、かつてはモダンだったオリベッティ社の外壁が真向かいに見える。ガラス張りの外観は未来に向かって輝き、過去を反射するという意味を込めて造られた。

画像: 町の保育園の内部

町の保育園の内部

 現在のイヴレーアの町からは、しかし、かつての活気は想像し難い。以前、オリベッティの社員だったエンリコ・カペラロは、1950年代に製造部門からキャリアをスタートし、経営陣に出世した。彼は、当時の日課はかなりのんびりしたものだったと語る。ヴィットリオ・ガスマンのようなイタリアの有名俳優やコメディアンたちがランチタイムになるとやってきた。3万冊の蔵書を有する図書館には新刊本や雑誌が揃えられており、すべてのイヴレーア市民が利用することができた。昼にはプルマン製のバスが町中を走り、ランチのために家に帰る社員を送迎した。ソーシャル・サービスのビルは、砂混じりのコンクリート製で、細い柱と大きな空間からなる六角形が、連なるように配置されていた。そのビルはメインの工場の向かいにあり、そこで社員に医療サービスが提供された。 

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