イタリアの町、イヴレーア。かつて、タイプライター製造業のオリベッティの城下町として栄えた。同社は労働者の権利を尊ぶ模範的な企業として、また先進的なデザインでその名を轟かせた。今、この町はひとつの教訓であると同時に、忘れ去られたユートピアの幻影でもある。――そして、人道的な労働を実現しようとした壮大な実験の証しでもあるのだ

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY NICK BALLÓN, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 アメリカのカンパニータウンの起源が、労働者たちの間で先進的な運動が起こるのを私企業が押さえつけるためだったとするならば、イタリアでは、カンパニータウンはファシズムの台頭の影響を受けていた。ローマ近郊の海辺の町、サバウディアは1933年にベニート・ムッソリーニの命令によって作られた。彼はローマ在住の貧しい人々をこの海岸沿いの町に連れてきて、マラリア病が蔓延していた湿地帯を開拓させた。また、スロベニア国境に近いモンファルコーネは、第一次大戦のあとにイタリアの領地になった土地だが、ファシスト政権はここをすぐに造船業の主要拠点にした。これらの町は第二次大戦後には徐々に産業が衰退し始め、人口も減っていった。しかし、オリベッティが望み、実現したイヴレーアという秀逸な町が、戦後の社会現象として現れたこと、そしてそれがムッソリーニ主導の政府のイデオロギーに真っ向から異議申し立てをした証しだったということは偶然ではない。

 ヨーロッパとアメリカのほとんどのカンパニータウンが家父長制の最たるものだったとするならば――実際にいくつかの町では労働者に“企業通貨”で給料を支払い、それは企業が所有する店でしか使えなかった――イヴレーアにはそれはあてはまらなかった。それは、アドリアーノの人柄と、彼の人道主義を重んじる才覚と、起業家としてのこだわり、さらに独学の徒として道徳を重視する姿勢がすべて融合した結果でもある。アドリアーノは、すでに成功していた父の会社を継いだということもあるが、彼には、工場で実際に働いた経験があることが大きかった。

彼より一世代前のアメリカの機械工学エンジニア、フレデリック・ウィンズロー・テイラーは、同じようにエリート層出身で工場の現場に入ったが、乾いた雑巾をさらに絞るような徹底的な合理化を進め、彼の持論である「科学的管理法」を生みだした。アドリアーノはテイラーとは違い、工場で実際に働き、そこで人間性がどれだけ疎外されているかを身をもって体験した。彼はのちに「ドリルやプレスを使い、ひどく単調な同じ作業を永遠に何度も繰り返すことの惨めさ」を味わったと語っている。そんな体験から彼は「自尊心を失わせるような奴隷労働から人間を解放する必要がある」と認識するに至った。1960年代から70年代にコンピュータとエレクトロニクス分野のエンジニアとして働いたガストーネ・ガルツィエラは、アドリアーノ・オリベッティは、労働の苦役を「あらゆる方法で軽くしたいと渇望していた」と語る。

画像: ラ・セッラ複合施設の外壁

ラ・セッラ複合施設の外壁

 アドリアーノは家族が興した会社で働くためにイタリアに帰国し、1938年に社長になった。彼はモダニズム主義にとことんこだわった。――単にモダニズム建築とその美意識の体現に惹かれていただけでなく、政治的な意味でも。彼はムッソリーニ時代のファシスト政党に入党したものの、のちにアメリカ人たちと連絡を取り合い、反政府運動を支援した。そしてそれによって逮捕された。イタリア人小説家のナタリア・ギンズブルグがふたつの大戦中のトリノでの生活を描いた自伝的な傑作『ある家族の会話』(1963年)で、アドリアーノは忘れがたい登場人物として描写されている。

「彼は太っていて青白く、丸くてでっぷりした肩は軍服の下で窮屈そうだった。あの灰緑色の軍服と腰の拳銃が、彼ほど似合わず、軍人らしく見えない人を他に見たことがなかった。彼は鬱々としていた。それは多分、彼が兵士でいることが嫌でたまらなかったからだろう。彼は恥ずかしがり屋で寡黙だったが、いざ話しはじめると、低い声でわけのわからない奇妙な内容をずっと話し続けた。日頃は冷徹で夢見がちな彼の小さな青い目は、そんな時、宙をじっと凝視するのだった」

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