代官山ヒルサイドテラスにみる
完成形のない街づくり

A Never Ending History of Daikanyama Hillside Terrace
誕生から50周年を迎えた「代官山ヒルサイドテラス」。半世紀を経ても古めかしさを感じさせないその魅力について、ヒルサイドテラスを中心とした“街を育ててきた”朝倉家の朝倉健吾さんに話を聞いた

BY KANAE HASEGAWA

 昨今の東京では、これまでの街並みをリセットし、その地区ごと一新していくような大規模な都市計画が進むなか、半世紀を経ても変わらない街がある。「代官山ヒルサイドテラス」だ。

 代官山ヒルサイドテラスは住居、レストラン、ブティックといった店舗やオフィスなどが全14棟にわたって旧山手通りを挟む形で入居する複合空間である。これらの店舗やオフィスが一堂に隣り合わせたショッピングモールのような構造ではなく、同じ敷地の中を歩いて行き来する距離に点在しているのが特徴で、建物の集合体というよりは、ひとつの街のようなスケール感がある。

画像: 最初に建設された、代官山ヒルサイドテラスのA棟のエントランス。第1期に計画されたA、B棟は1968(昭和43)年に着工し、翌年に完成 © HILLSIDE TERRACE

最初に建設された、代官山ヒルサイドテラスのA棟のエントランス。第1期に計画されたA、B棟は1968(昭和43)年に着工し、翌年に完成
© HILLSIDE TERRACE

 建築家、槇 文彦氏の設計によって1969(昭和44)年に最初の棟が建設されてから1998(平成10)年まで全6期に分けて段階的に建設されてきたヒルサイドテラスは、全14棟を一気に建ててしまうのではなく、少しずつ横に建物を増やしていくという考えのもと現在のかたちに至る。効率を求め、完成図のゴールに向かって計画的に建てていくという方法を選ばなかった結果、その過程で、そこに暮らす人々の声に耳を傾け、それまでの教訓も取り込むことによって、時代ごとの社会のニーズを受け止め、街ごと育てていくことを可能にした。まるで、一軒家を家族構成の変化やその時々のニーズに応じて増・改築していくように――

画像: 槇 文彦(FUMIHIKO MAKI) 建築家。1928年東京都生まれ。1952年、東京大学工学部建築学科を卒業後、米国クランブルック美術学院及びハーバード大学大学院の修士課程を修了。その後、建築事務所での勤務し、ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授を務める。1965年に帰国、槇総合計画事務所を設立。代表作には、代官山ヒルサイドテラスのほか、スパイラル、幕張メッセ、東京体育館などがある。主な受賞歴は、1962年日本建築学会賞、’90年トーマス・ジェファーソン建築賞、’93年プリツカー賞、2011年AIAゴールドメダルなどを受賞。国内外で高い評価を得る20世紀を代表する建築家のひとり PHOTOGRAPH BY KAORU HIRANO

槇 文彦(FUMIHIKO MAKI)
建築家。1928年東京都生まれ。1952年、東京大学工学部建築学科を卒業後、米国クランブルック美術学院及びハーバード大学大学院の修士課程を修了。その後、建築事務所での勤務し、ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授を務める。1965年に帰国、槇総合計画事務所を設立。代表作には、代官山ヒルサイドテラスのほか、スパイラル、幕張メッセ、東京体育館などがある。主な受賞歴は、1962年日本建築学会賞、’90年トーマス・ジェファーソン建築賞、’93年プリツカー賞、2011年AIAゴールドメダルなどを受賞。国内外で高い評価を得る20世紀を代表する建築家のひとり
PHOTOGRAPH BY KAORU HIRANO

 ヒルサイドテラスの生みの親で代官山一帯の土地を所有する朝倉不動産の朝倉健吾さんによれば、朝倉家がこの地で米屋を始めたのは150年ほど前のこと。敷地内に三田用水が流れていたという驚くべき水利を生かして水車を設け、精米業で財を成した。当時、隣の渋谷村が江戸から明治時代にかけて料亭街として賑わったことから、米屋には多くの需要が寄せられたそうだ。明治になると、それまで市井の民には制限されていた土地の購入が自由にできるようになり、朝倉家は精米業で得た財を元手に代官山地域の土地を購入していったという。

 やがて大正時代に入り、健吾さんの祖父、朝倉虎治郎氏の代になると代官山界隈の町の様相に変化が見られるようになる。当時、東京府の府議員という公職に就いていた虎治郎氏が朝倉家の土地の一部を府に提供したことで、道路を拡幅、現在の「旧山手通り」に整備されていったのだ。

画像: 重要文化財 旧朝倉家住宅の外観。1919(大正8)年、朝倉虎治郎氏によって建てられた朝倉家の住居

重要文化財 旧朝倉家住宅の外観。1919(大正8)年、朝倉虎治郎氏によって建てられた朝倉家の住居

画像: 旧朝倉家住宅の内部 PHOTOGRAPHS:COURTESY OF SHIBUYA GOVERNMENT OFFICE CULTURAL PROMOTION Div.

旧朝倉家住宅の内部
PHOTOGRAPHS:COURTESY OF SHIBUYA GOVERNMENT OFFICE CULTURAL PROMOTION Div.

 そして1927(昭和2)年には、東急東横線の開通とともに、「同潤会代官山アパート」が近隣に完成。それに刺激を受けた健吾さんの父、朝倉誠一郎氏は、それぞれの居住空間は分かれていながらも、そこに住む“共同体(コミュニティ)”という意識をもって生活する「集合住宅」という考えに、これからの新しい暮らしのあり方を見出だし、代官山、中目黒や恵比寿一帯の朝倉家が所有する土地にアパートを建設、不動産事業に本腰を入れていった。

 一時は部屋数1,000戸に及ぶほどの規模になり、いよいよ、朝倉家の自宅と事務所のある旧山手通りにもアパートを建設しようと計画は進展。その時出会ったのが、建築家の槇 文彦氏だったのだ。これをきっかけに、朝倉家の土地に対するビジョンが現在へと続くものに固まっていった―― 住宅だけでなく、住民の暮らしを豊かにする店舗や美容室といったサービス、オフィス、緑地を包括した“街”を形成するというコンセプトから生まれた「代官山集合住居計画」(代官山ヒルサイドテラス)だ。

 1969年、ヒルサイドテラス最初のA、B棟が完成するとその後、ヒルサイドテラスは徐々に拡張していく。これによって、それまでの旧山手通りの景観は大きく変わっていった。

画像: 1973(昭和48)年当時の代官山ヒルサイドテラス(手前より、A棟、B棟、C棟)。その後、F~H棟が建つことになる対岸にはまだ民家が並ぶなか、低層建築の採用や十分な道幅の確保など、地域に寄り添った都市計画への配慮がうかがえる © HILLSIDE TERRACE

1973(昭和48)年当時の代官山ヒルサイドテラス(手前より、A棟、B棟、C棟)。その後、F~H棟が建つことになる対岸にはまだ民家が並ぶなか、低層建築の採用や十分な道幅の確保など、地域に寄り添った都市計画への配慮がうかがえる
© HILLSIDE TERRACE

「それまで旧山手通りに建っていた豪奢な邸宅は大きな塀で囲まれていたので、要塞のように外の環境から断絶した状況でした。しかしヒルサイドテラスという街は住民と街、そこを訪れる人が繋がりを持ち、ほどよい距離感でお互いが目配りをすることで街の規律を維持することを理想としていましたから、塀や壁を取り払い、住宅と外の環境がゆるやかに繋がるように設計なさったのだと思います」と健吾さんは当時を振り返る。

画像: 第2期に計画されたC棟。1973(昭和48)年に完成 © KANEAKI MONMA

第2期に計画されたC棟。1973(昭和48)年に完成
© KANEAKI MONMA

画像: 中庭を囲むような設計で、そこに暮らす人々と訪れる人々の導線を一体化。オープンな空間が住居と商業施設の境界線を意識させることのないパブリックスペースを創り出した © MAKI AND ASSOCIATES

中庭を囲むような設計で、そこに暮らす人々と訪れる人々の導線を一体化。オープンな空間が住居と商業施設の境界線を意識させることのないパブリックスペースを創り出した
© MAKI AND ASSOCIATES

画像: 第3期に計画されたD、E棟。1977(昭和52)年に完成 © KANEAKI MONMA

第3期に計画されたD、E棟。1977(昭和52)年に完成
© KANEAKI MONMA

 実は、ヒルサイドテラスが代官山でしか誕生しえなかった要素がある。今でこそ代官山付近は都市計画法によって建築物の高さ制限が緩和されているが、ヒルサイドテラスの計画が始まった当初、計画地は高さ最大10メートル以下に制限された第一種住居地域に指定されていた。そうした規制の中で槙氏も低層階の棟を設計してきたため、ヒルサイドテラスはいずれの棟も道路を歩く人が圧迫感を感じないように、3階建てほどの高さに抑えられているのだ。

「旧山手通りの車線幅は約22メートルあります。これだけの道幅であればもっと高層の建築でも道路に十分な日照が確保できるということで、のちに高さ最大10メートル以下という建築の規制が緩和されたんです」。(現在、旧山手通り沿いの建物は高さ最大20メートル以下に制限)にも関わらず、地主の朝倉家や住民から規制を緩和しないで低層のままにしてほしいと嘆願の声が上がったという。「通常であれば不動産業を営む側が高層建築を建てるために規制緩和に向けて働きかけるのでしょうが、ヒルサイドテラスの場合は逆でした。建築規制が緩和されたのに、むしろ高さに関しては、20メートルに制限した方がいいと願ったのですから」と健吾さんは続ける。

画像: 第6期計画のG棟。F棟ともに、建築規制の緩和条件をあえて取り入れず、対岸にあるA〜D棟の高さ10メートルに合わせた低層設計にこだわった © TOSHIHARU KITAJIMA

第6期計画のG棟。F棟ともに、建築規制の緩和条件をあえて取り入れず、対岸にあるA〜D棟の高さ10メートルに合わせた低層設計にこだわった
© TOSHIHARU KITAJIMA

 土地を持つ側からすれば高層建築にした方が経営面でありがたいと思いがちだが、ヒルサイドテラスは新しい棟の建設でも低層建築にこだわってきた。それは常にそこに暮らす人の幸せを第一に考えてきたからだ。「朝倉家は地主ではありますが、第一にここにずっと暮らす住民です。住民の目線でどんな環境に暮らせることが幸せかを常に考え、それを時代の変化にも目配りをしながら実践していこうとしてきたのがヒルサイドテラスなんです」。

画像: 1998(平成10)年に完成したヒルサイドウエスト。ファサード(正面玄関)が特徴的な事務所・店舗・住居からなる複合施設 © TOSHIHARU KITAJIMA

1998(平成10)年に完成したヒルサイドウエスト。ファサード(正面玄関)が特徴的な事務所・店舗・住居からなる複合施設
© TOSHIHARU KITAJIMA

 こうして半世紀続いてきたヒルサイドテラス。その歴史は、試行錯誤の賜物だ。建築だけではなく、そこで繰り広げられるマーケットやコンサートの開催、アートの設置など、時流に合わせたカルチャーも取り入れてきたというが、景気も大きく変化するなかでこの50年間、同じ考え方を貫き続けるのは大変なこと。続けるうえでもっとも意識してきたことはあるのだろうか? 最後に健吾さんに尋ねると、こんな応えが返ってきた。

画像: 1970年代、「代官山交歓バザール」の様子。ヒルサイドテラスのテナントが出店し、当時日本に上陸しはじめたフリーマーケットのようなスタイルで行われた催しは、そこに暮らす人々のコミュニティ形成と、街に多くの人々を呼び込む一助となった © HILLSIDE TERRACE

1970年代、「代官山交歓バザール」の様子。ヒルサイドテラスのテナントが出店し、当時日本に上陸しはじめたフリーマーケットのようなスタイルで行われた催しは、そこに暮らす人々のコミュニティ形成と、街に多くの人々を呼び込む一助となった
© HILLSIDE TERRACE

画像: 1970年代、日本で本格的なフランス料理を味わうことのできるレストランほとんどなく、その先達でもあった名店、フレンチレストラン「レンガ屋」は、ヒルサイドテラスB棟の1階にあった。写真は、当時A棟にあった洋菓子店とカフェ © HILLSIDE TERRACE

1970年代、日本で本格的なフランス料理を味わうことのできるレストランほとんどなく、その先達でもあった名店、フレンチレストラン「レンガ屋」は、ヒルサイドテラスB棟の1階にあった。写真は、当時A棟にあった洋菓子店とカフェ
© HILLSIDE TERRACE

「続けようと思って何か目標をたてたわけではないんです。目標というのは達成してしまうとそこで終わってしまいます。ヒルサイドテラスは当初からこれといった目標がなく、その時々でヒルサイドテラスに暮らす自分たちの暮らしや社会の世相と照らし合わせながら模索してきた結果が今に至っていると思います。目標がないから、完成もないのがヒルサイドテラスの街のあり方なのかもしれません」。

画像: 『Hillside Terrace 1969-2019』 槇 文彦、北川フラム 他 著、ヒルサイドテラス50周年実行委員会 監修 ¥3,500/現代企画室 「代官山ヒルサイドテラス」50年の歴史を振り返る集大成の一冊 COURTESY OF HILLSIDE TERRACE

『Hillside Terrace 1969-2019』
槇 文彦、北川フラム 他 著、ヒルサイドテラス50周年実行委員会 監修
¥3,500/現代企画室
「代官山ヒルサイドテラス」50年の歴史を振り返る集大成の一冊
COURTESY OF HILLSIDE TERRACE

 人が住み、仕事をし、商いが生まれる。こうした日々の営みの積み重なりが代官山ヒルサイドテラスを成熟した街へと育ててきたようだ。街とは、そこに暮らす人々とともに成熟していくことで、育っていくのかもしれない。

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