BY KANAE HASEGAWA
昨今の東京では、これまでの街並みをリセットし、その地区ごと一新していくような大規模な都市計画が進むなか、半世紀を経ても変わらない街がある。「代官山ヒルサイドテラス」だ。
代官山ヒルサイドテラスは住居、レストラン、ブティックといった店舗やオフィスなどが全14棟にわたって旧山手通りを挟む形で入居する複合空間である。これらの店舗やオフィスが一堂に隣り合わせたショッピングモールのような構造ではなく、同じ敷地の中を歩いて行き来する距離に点在しているのが特徴で、建物の集合体というよりは、ひとつの街のようなスケール感がある。
建築家、槇 文彦氏の設計によって1969(昭和44)年に最初の棟が建設されてから1998(平成10)年まで全6期に分けて段階的に建設されてきたヒルサイドテラスは、全14棟を一気に建ててしまうのではなく、少しずつ横に建物を増やしていくという考えのもと現在のかたちに至る。効率を求め、完成図のゴールに向かって計画的に建てていくという方法を選ばなかった結果、その過程で、そこに暮らす人々の声に耳を傾け、それまでの教訓も取り込むことによって、時代ごとの社会のニーズを受け止め、街ごと育てていくことを可能にした。まるで、一軒家を家族構成の変化やその時々のニーズに応じて増・改築していくように――
ヒルサイドテラスの生みの親で代官山一帯の土地を所有する朝倉不動産の朝倉健吾さんによれば、朝倉家がこの地で米屋を始めたのは150年ほど前のこと。敷地内に三田用水が流れていたという驚くべき水利を生かして水車を設け、精米業で財を成した。当時、隣の渋谷村が江戸から明治時代にかけて料亭街として賑わったことから、米屋には多くの需要が寄せられたそうだ。明治になると、それまで市井の民には制限されていた土地の購入が自由にできるようになり、朝倉家は精米業で得た財を元手に代官山地域の土地を購入していったという。
やがて大正時代に入り、健吾さんの祖父、朝倉虎治郎氏の代になると代官山界隈の町の様相に変化が見られるようになる。当時、東京府の府議員という公職に就いていた虎治郎氏が朝倉家の土地の一部を府に提供したことで、道路を拡幅、現在の「旧山手通り」に整備されていったのだ。
そして1927(昭和2)年には、東急東横線の開通とともに、「同潤会代官山アパート」が近隣に完成。それに刺激を受けた健吾さんの父、朝倉誠一郎氏は、それぞれの居住空間は分かれていながらも、そこに住む“共同体(コミュニティ)”という意識をもって生活する「集合住宅」という考えに、これからの新しい暮らしのあり方を見出だし、代官山、中目黒や恵比寿一帯の朝倉家が所有する土地にアパートを建設、不動産事業に本腰を入れていった。
一時は部屋数1,000戸に及ぶほどの規模になり、いよいよ、朝倉家の自宅と事務所のある旧山手通りにもアパートを建設しようと計画は進展。その時出会ったのが、建築家の槇 文彦氏だったのだ。これをきっかけに、朝倉家の土地に対するビジョンが現在へと続くものに固まっていった―― 住宅だけでなく、住民の暮らしを豊かにする店舗や美容室といったサービス、オフィス、緑地を包括した“街”を形成するというコンセプトから生まれた「代官山集合住居計画」(代官山ヒルサイドテラス)だ。
1969年、ヒルサイドテラス最初のA、B棟が完成するとその後、ヒルサイドテラスは徐々に拡張していく。これによって、それまでの旧山手通りの景観は大きく変わっていった。
「それまで旧山手通りに建っていた豪奢な邸宅は大きな塀で囲まれていたので、要塞のように外の環境から断絶した状況でした。しかしヒルサイドテラスという街は住民と街、そこを訪れる人が繋がりを持ち、ほどよい距離感でお互いが目配りをすることで街の規律を維持することを理想としていましたから、塀や壁を取り払い、住宅と外の環境がゆるやかに繋がるように設計なさったのだと思います」と健吾さんは当時を振り返る。
実は、ヒルサイドテラスが代官山でしか誕生しえなかった要素がある。今でこそ代官山付近は都市計画法によって建築物の高さ制限が緩和されているが、ヒルサイドテラスの計画が始まった当初、計画地は高さ最大10メートル以下に制限された第一種住居地域に指定されていた。そうした規制の中で槙氏も低層階の棟を設計してきたため、ヒルサイドテラスはいずれの棟も道路を歩く人が圧迫感を感じないように、3階建てほどの高さに抑えられているのだ。
「旧山手通りの車線幅は約22メートルあります。これだけの道幅であればもっと高層の建築でも道路に十分な日照が確保できるということで、のちに高さ最大10メートル以下という建築の規制が緩和されたんです」。(現在、旧山手通り沿いの建物は高さ最大20メートル以下に制限)にも関わらず、地主の朝倉家や住民から規制を緩和しないで低層のままにしてほしいと嘆願の声が上がったという。「通常であれば不動産業を営む側が高層建築を建てるために規制緩和に向けて働きかけるのでしょうが、ヒルサイドテラスの場合は逆でした。建築規制が緩和されたのに、むしろ高さに関しては、20メートルに制限した方がいいと願ったのですから」と健吾さんは続ける。
土地を持つ側からすれば高層建築にした方が経営面でありがたいと思いがちだが、ヒルサイドテラスは新しい棟の建設でも低層建築にこだわってきた。それは常にそこに暮らす人の幸せを第一に考えてきたからだ。「朝倉家は地主ではありますが、第一にここにずっと暮らす住民です。住民の目線でどんな環境に暮らせることが幸せかを常に考え、それを時代の変化にも目配りをしながら実践していこうとしてきたのがヒルサイドテラスなんです」。
こうして半世紀続いてきたヒルサイドテラス。その歴史は、試行錯誤の賜物だ。建築だけではなく、そこで繰り広げられるマーケットやコンサートの開催、アートの設置など、時流に合わせたカルチャーも取り入れてきたというが、景気も大きく変化するなかでこの50年間、同じ考え方を貫き続けるのは大変なこと。続けるうえでもっとも意識してきたことはあるのだろうか? 最後に健吾さんに尋ねると、こんな応えが返ってきた。
「続けようと思って何か目標をたてたわけではないんです。目標というのは達成してしまうとそこで終わってしまいます。ヒルサイドテラスは当初からこれといった目標がなく、その時々でヒルサイドテラスに暮らす自分たちの暮らしや社会の世相と照らし合わせながら模索してきた結果が今に至っていると思います。目標がないから、完成もないのがヒルサイドテラスの街のあり方なのかもしれません」。
人が住み、仕事をし、商いが生まれる。こうした日々の営みの積み重なりが代官山ヒルサイドテラスを成熟した街へと育ててきたようだ。街とは、そこに暮らす人々とともに成熟していくことで、育っていくのかもしれない。