さまざまな素材やテクノロジーを駆使した実験的な試みで広く知られ、特許や賞も多く受賞した新井淳一。その功績に光を当てる

BY ELAINE LOUIE, TRANSLATED BY T JAPAN

画像: 新井淳一。1990年、自らデザインしたテキスタイルとともに撮影。2004年、あるデザイナーが彼を「今日の世界のテキスタイルデザインに最も大きな影響を与えた人物」と評した。 PHOTOGRAPHBY ANGEL FRANCO

新井淳一。1990年、自らデザインしたテキスタイルとともに撮影。2004年、あるデザイナーが彼を「今日の世界のテキスタイルデザインに最も大きな影響を与えた人物」と評した。
PHOTOGRAPHBY ANGEL FRANCO

 新井淳一は、優美な絹の帯を作る織物職人の家に生まれた。伝統に則って13歳から帯作りを始めた新井が、頭角を現すのにそう時間はかからなかった。

 1945年、第二次世界大戦末期のことである。新井家の鉄製の織機は戦争のために没収され、工場は帝国陸軍に倉庫として貸与していた。祖父は木製の織機を見つけると、孫に絹やレーヨンの再生糸をあてがった。新井は、裂織(さきおり・布を裂いて糸状にし織り込んだ布)を織ることから始めたという。
「農家の人が使うような、実用的なものでした」

画像: (左)“Korean Carrot” (1986年)Smithsonian Institution (右)“Scarf” (1993年)Matt Flynn via Smithsonian Institution

(左)“Korean Carrot” (1986年)Smithsonian Institution
(右)“Scarf” (1993年)Matt Flynn via Smithsonian Institution

 戦後、日本が復興し始めると、新しい鉄の織機を使えるようになった。17歳になった新井は、金糸や銀糸を裂織に織り込むようになり、そうすると「もっと高く売れることがわかった」そうだ。1950年までには、日本でもアメリカのテレビ番組が放映されるようになった。「私はテレビの電波をデザインした帯を作り、帯の世界ではアンファンテリブル(恐るべき子供)と呼ばれました」と新井は振り返る。その後、彼は革新的な素材を使って、蜘蛛の巣のような布地や、きらめく氷の割れ目のような布地、あるいは繊細な髪の毛の束のように垂れ下がる布地を作り出していった。

 新井は2017年に85歳で亡くなったが、蝶の羽のようなナイロンコーティングを施したポリエステル素材の試作をしていて、それを使えば4オンス(約112g)以下のレインコートを作ることができると話していた。片面が正方形、もう片面が三角形になった4層のジャカードをデザインし、絞り染めのような手仕事と、コンピューターなどのハイテクを融合させる術を習得した。

 1998年にニューヨーク近代美術館で開催された「Structure and Surface: Contemporary Japanese Textiles(構造と表面:現代日本スタイル)」展の共同キュレーターであるマチルダ・マクエイドは、「彼はテキスタイルデザインにおける最も重要な思想家の一人であり、そう考える理由はいくつかあります」と述べる。
「そのひとつが、実験への尽きない情熱です。布の表面を傷つけたり、収縮させたりすることから、ステンレスのような新素材を伝統的な手法で織る試みまで、彼はさまざまな実験を行いました」

 1970年代の初めには、三宅一生、山本耀司、川久保玲といったファッションデザイナーが新井のウェアラブルで独創的な生地を自身の作品に使用し、その名はファッションとテキスタイルの分野で世界的に知られるようになった。

 2004年にニューヨークのファッション工科大学で行われた講演会で、アメリカのテキスタイルデザイナー、ジャック・レノア・ラーセンは、新井を「今日のテキスタイルデザインに最も大きな影響を与えた人物」として紹介している。

 新井のテキスタイルは、ニューヨーク近代美術館、クーパー・ヒューイット・スミソニアン・デザイン博物館、ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(RISD)美術館、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館など、多くの美術館・博物館に永久所蔵されている。

 新井淳一は1932年3月13日、新井金三・ナカ夫妻の6人兄弟の長男として 群馬県の桐生に生まれた。1920年代、金蔵は家族経営の織物会社を立ち上げ、帯を製造していた。淳一は1966年に父の会社を解体し、テキスタイルプランナーとして独立、「アルス」という会社を立ち上げたが、1978年に倒産した。同年、「アントロジー」を設立するが、これも1987年に倒産。しかし、新井の創意工夫は尽きることがなかった。1984年、新井はテキスタイルデザイナーの須藤玲子と共同で「布」社を設立する。新井が会社を去った後は、須藤がデザインディレクターに就任した。「新井さんは、ハイテクと手技を融合させ、布に『自然な表情』を与えていたように思えます」と須藤はいう。「布」は東京に店を構え、1984年から1987年まで新井の作品を販売した。

 新井は、伝統的な織物の製法に新しい風を吹き込んだことで知られる。「彼は産業界とも積極的に協業し、テキスタイルに応用できる斬新な技術を学ぼうとしました」とマクエイドは語る。

画像: 新井淳一、1995年撮影 PHOTOGRAPH BY JOSE LOPEZ

新井淳一、1995年撮影
PHOTOGRAPH BY JOSE LOPEZ

 しかし、新井は何よりもまず織物職人であった。繊維の特性をよく理解していたため、織物とは何かという概念に挑戦することができたのである。ブリヂストンとの仕事で、彼はステンレス糸の開発を学んだ。日本、中国、米国でテキスタイルデザインを教え、須藤らテキスタイルデザイナーの指導者でもあった。

 1983年に毎日ファッション大賞特別賞を受賞し、1987年にはロンドンの王立芸術協会より「オノラリー・ロイヤル・デザイナー・フォー・インダストリー」の称号を授与される。新井は繊維製造に関する36の特許や知的財産権も保有していた。

 彼の最も有名なデザインの一つである蜘蛛の巣は、妻であるリコのアイデアから生まれた。1984年のことである。「彼は、漁師の網のようなネット生地を持って帰ってきました」とリコは、2004年にニューヨークのGallery Gen(新井の作品を展示し、初日の夜に1万ドル相当の作品を販売した)にて行われたインタビューで答えている。

ネットの生地はシルクだったが、リコは「ただのネットではダメで、パターンが必要だと考えました」と言う。「そして、蜘蛛の巣、蜘蛛の巣の朝露にたどり着いたのです」と。新井は地元の織物職人を雇って蜘蛛の巣を作り、主にショールとして販売した。

 2017年9月25日、新井は桐生厚生総合病院で亡くなったが、その死が大きく報道されることはなかった。2002年から肺がんや胃がんの治療も行っていたが、原因は心筋梗塞だった。

 2004年の講演会に現れた新井の姿は弱々しかったが、それでも十分に芝居がかっていた。ステンレス糸でできたグレーの長袖のチュニックを着ていたが、彼はそれを実用的な服としてではなく(講演会の最中、10分ほど着ると脱いだ)、アルミやステンレス、チタンが、シルクやカシミアのような素晴らしいテキスタイルになることを証明するためにデザインした。

 新井は述べている。
「私は、存在しない糸を作るように産業界にお願いした唯一のデザイナーです」

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