障害のある俳優たちが、ブロードウェイの演劇やハリウッド映画、そして評判の高いテレビ番組にキャスティングされるケースが増えつつある。彼らは、アーティストであると同時にアクティビストとして活躍する新しい土台を創造してきた。エンターテインメント産業とその観客たちがもつ常識に異議申し立てをし、「インクルージョン」という言葉が、真に何を意味するのかを問い直すために

BY MARK HARRIS, PHOTOGRAPH BY STEFAN RUIZ, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 そんなジレンマは、大きな包括的プロジェクトを作り上げるうえでの難しさをことさら強調するものだが、プロジェクトに関わる誰もが気づいているのが、アクティビズムにおいて「団結したほうが強い」というスローガンは、個人の違いを排除するものではない、ということだ。彼らはまた、キャスティングの過程では「ダイバーシティ」という言葉が、あまりにも簡単に「どんな障害でもいい」という意味に取られてしまうことを知っている。モズガラは、障害者の役の俳優を決めるオーディションに参加したことがあるが、そこでは「義足の人もいれば、聴覚障害者も、視覚障害者も、脳性麻痺の人も、その他の障害のある人もいる。とんでもなくいろんな領域にわたっている。製作者側は、何を求めているのかわかっていないし、障害のある俳優たちのコミュニティのことも、何もわかっていないんだ」と彼は言う。

 もしなにかひとつ、共通認識のポリシーがあるとすれば、それは恐らくウェイルズが言うように「私たちなくして、私たちのことは、何も決められない」ということだ。モズガラが10歳か11歳だった頃、彼は母親に連れられて、映画『マイ・レフトフット』(1989年)でダニエル・デイ=ルイスがアイルランド人の作家で画家のクリスティ・ブラウン(ブラウンは、重度の脳性麻痺を患い、話すこともできず、身体を動かすこともほとんどできなかった)を演じるのを見たのを憶えている。彼はこう感じた。「自分が経験してきたことに近いものを見た体験は、それが初めてだった」。デイ=ルイスはその役で、彼の最初のアカデミー賞を受賞したが、モズガラは、障害のある男性の役が、あんなふうにキャスティングされるのは今でも許容範囲だと思っているのだろうか?

「そうは思わないね」と彼は言う。「まあ、今から1000日前だったらよかったのかもしれないけど」。1000日前といえば、エディ・レッドメインが、映画『博士と彼女のセオリー』(2014年)でスティーヴン・ホーキングを演じたときからそう遠くない時期だ。ホーキングは、筋萎縮性側索硬化症を患い、身体を動かしたり、話す力が制限されていた。モズガラは、今年は、米国障害者差別禁止法(ADA)が制定されて30周年だと指摘する。歴史的快挙であるこの公民権法は、雇用、交通、教育、公共・私設空間への平等なアクセスを義務づけるものだ。「もう我慢の限界だよ」とモズガラは言う。「やるべきことをやれよ。人材を探せ。彼らはちゃんとそこにいるんだから」。

 しかし、そこにはまだもうひとつのジレンマがある。障害者の登場人物を題材にした映画には、製作資金が必要だ。出資者はスターを要求する。そして、スターには障害がない。なぜなら障害者はスターになるチャンスを与えられていないから。この堂々巡りの状況は、人権を主張する人々、彼らを支援する同盟、そしてエンターテインメント産業、この三者間の意義あるパートナーシップなくしては変えられない。そしてアクティビストたちの間で最も好まれない言葉のひとつである「段階を踏んで変化する」という方法でいくことだ。それは遅々として進まず、忍耐力が試され、まるで水滴を落として岩に穴をあけるような工程だ。ひとりでも多くのキャスティング担当のディレクターに連絡をとり、ひとりでも多くのプロデューサーに何度も何度も再考してくれるように執拗に頼むことだ。

 それは、モズガラがもう何年も無給でやってきた仕事だ。彼はキャスティング・ディレクターやプロデューサーたちから情報センターがわりに便利に使われてきた。38歳の俳優兼コメディアン兼プロデューサーのニック・ノヴィッキーも同じだ。彼は偽性軟骨無形成症小人症で、HBOの犯罪ドラマ『ボードウォーク・エンパイア欲望の街』に出演したことでよく知られている。7年前にノヴィッキーは「イースターシールズ・ディスアビリティ・フィルム・チャレンジ」を創設した。映画を作ってみたい人々を招き、ボランティアの製作者とともにチームを結成し、3〜5分間の映画を週末に実際に作るというものだ。ルールとして、台詞のある役か、クリエイティブな役割に、最低ひとり以上、身体的、または認知的な障害のある人間を起用しなければならない。短編映画は――昨年は71作品が短編だった――FacebookとYouTubeにアップされて一般公開され、最も優秀な作品に賞が与えられる(今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で、自宅待機生活のドキュメンタリーを製作するコンテストになった)。

「僕はかなりラッキーだったけれど、自分で立ち上げたプロジェクトから多くの機会が生まれたんだ」とノヴィッキーは言う。「ひとつの仕事が次の仕事につながるけど、もし最初の機会がない場合は、大手テレビ局や映画会社は人々にそのチャンスを与えるのを躊躇してしまう」

 闘いにはふたつの側面がある。障害者の役の場合、障害のある俳優が可能な限り演じることはもちろんだが、障害のあるなしが関係ない役柄に関しては、障害のある俳優も常に選択肢として考慮されるべきだ、という二段階だ。最初の闘いは、現在、LGBTQのコミュニティ内で議論されている、異性愛者ではない役柄の場合、異性愛者ではない役者だけが、その役を演じるべきなのか、という問題に通じるところがある。だがこの比較は、厳密には成り立たない。性的な自己認識はやや流動的なものであり、就職の面接で求職者に性的指向について質問したりすれば、倫理的にも法律的にも重大な問題になる。だが、こと障害者の配役については、いまだに固定観念を擁護するような、以下のような反論が口にされてしまう――もし健常者だった人が障害者になるという設定の話だったらどうなのか? 製作側が有名人を起用する必要がある場合は? もしどの障害者の俳優も役にぴったり合わないとしたら? つまり、エンターテインメント業界には「なぜ我々がいちいち考慮しなければいけないんだ?」という本音があり、「そもそも、どんな俳優がどんな役を演じようといいはずじゃないか?」というのが業界の大きな共通認識なのだ。

 これはふたつ目の闘いに直結する。もし本当に、誰が何を演じてもいいのであれば、なぜ、多くの大手テレビ局や、映画会社や、プロデューサーやキャスティング・ディレクターたちは、障害のあるなしが特に定められていない役に、障害者の俳優を起用することを考慮することすら、決してしないのか?

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