はじめて手にした鍬で、幼い息子と裏庭の土を耕す日々――。研究者・森田真生は、コロナ禍をきっかけに生き方を編み直す試みを模索している。“その日暮らし”でたくましく生き抜くアフリカの商人たちを見つめてきた文化人類学者の小川さやかとともに、“これからを生きる力”について、今の思いをざっくばらんに語り合う

BY CHIKARA TSUJIMOTO, PHOTOGRAPHS BY YUSUKE ABE

 2020年春。それまで全国を忙しく飛び回り、数学をテーマに独創的なレクチャーやトークを行なってきた森田真生は、京都の山麓にある自宅で、幼稚園に通いだした息子と一緒に裏庭を耕し、菜園を作り始めた。「協生農法」という、自然な環境下でさまざまな種が競合・共生するに任せ、そのなかで最大限の生態系の機能を引き出す方法を学んでいく。野菜やハーブ、多様な植物が育つさまを見守り、カブトムシやクワガタの幼虫の世話に明け暮れる日々。枯葉や生ゴミなどを用いた堆肥づくりにも挑戦する。やがて、自宅にしていた建物を「鹿谷庵(ろくやあん)」と名付け、森田は新たな学びを試みる場を築き始めた。新著『僕たちはどう生きるか─言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)では、さまざまな生命との出会いを通じ、これからの時代をどのように生きるか考えつづけ、模索する日々が実直に綴られている。

画像: 森田真生(MASAO MORITA) 1985年生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点に、「エコロジカルな転回」以後の言葉と生命の可能性を追究している。著書に『数学する身体』(2016年に小林秀雄賞を受賞)、『計算する生命』(ともに新潮社)、絵本『アリになった数学者』(福音館書店)、随筆集『数学の贈り物』(ミシマ社)、編著に岡潔著『数学する人生』(新潮社)がある

森田真生(MASAO MORITA)
1985年生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点に、「エコロジカルな転回」以後の言葉と生命の可能性を追究している。著書に『数学する身体』(2016年に小林秀雄賞を受賞)、『計算する生命』(ともに新潮社)、絵本『アリになった数学者』(福音館書店)、随筆集『数学の贈り物』(ミシマ社)、編著に岡潔著『数学する人生』(新潮社)がある

 一方、文化人類学者の小川さやかは、長年、タンザニアの路上商人たちに密着してフィールドワークを行い、考察を重ねてきた。そのなかで、彼らの、時に「騙し」「騙され」をも受け容れて実践知とし、失敗しても“誰かの稼ぎで食いつなぎ”合いながら、ギリギリの状況をおおらかに生き抜く姿を見つめつづける。近著『チョンキンマンションのボスは知っている─アングラ経済の人類学』(春秋社)では、香港でインフォーマル経済を回すタンザニア人たちを活写する。

 加速化する気候変動、コロナ禍。既存の常識が当てはまらず、先が見えない時代を、私たちは絶望することなく、いかに生きるか。カギとなる視点と思考を、気鋭のふたりの研究者の対話から探る。

画像: 小川さやか(SAYAKA OGAWA) 1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。2001年よりタンザニアで参与観察を行い、路上商人の商慣習や実践知を研究。著書に『都市を生きぬくための狡知─タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社、サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学―もう一つの資本主義経済』(光文社新書)、『チョンキンマンションのボスは知っている─アングラ経済の人類学』(春秋社、大宅壮一ノンフィクション賞と河合隼雄学芸賞を受賞)がある

小川さやか(SAYAKA OGAWA)
1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。2001年よりタンザニアで参与観察を行い、路上商人の商慣習や実践知を研究。著書に『都市を生きぬくための狡知─タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社、サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学―もう一つの資本主義経済』(光文社新書)、『チョンキンマンションのボスは知っている─アングラ経済の人類学』(春秋社、大宅壮一ノンフィクション賞と河合隼雄学芸賞を受賞)がある

―― コロナ禍でおふたりは日常生活にどんな変化がありましたか?

森田 最大の変化は、“人間以外のもの”との交流が増えたことでしょうか。これまでは人前で語ることが自分の仕事でしたが、今は庭や菜園で植物や虫の声に耳を傾ける時間が多いです。今まで自分がいかに目の前にあるものを見落としていたかに気づかされる毎日です。自分を取り巻く生命の多様性に目覚め、その一つひとつの発見と交流を楽しんでいます。

画像: 「 鹿谷庵」裏庭の家庭菜園、通称「もりたのーえん」にて。トマトやアスパラガス、ハーブ、紫陽花、雑草などが無造作に繁る

「 鹿谷庵」裏庭の家庭菜園、通称「もりたのーえん」にて。トマトやアスパラガス、ハーブ、紫陽花、雑草などが無造作に繁る

画像: レモンの枝にアゲハ蝶の幼虫。「葉は食われるけれど、構わないんです。多様な生態系が生まれたらうれしい」

レモンの枝にアゲハ蝶の幼虫。「葉は食われるけれど、構わないんです。多様な生態系が生まれたらうれしい」

小川 フィールドワークを研究の礎としている私は、コロナ禍で渡航や行動を制限されたことで時間があるはずなのに、身の回りの自然に耳を澄ますこともなく、目の前の仕事をこなすのに必死な毎日でした。

森田 『チョンキンマンションのボスは知っている』などの小川さんの著書に登場するタンザニアのビジネスマンたちは、今回のパンデミックに、どのように反応しているのでしょうか。

小川 彼らは、不確実な環境を織り込んで生きており、それまでの仕事が立ちゆかなくなっても、あっという間にほかの新しい商売を見つけてくるたくましい人たちです。生業にしていた中国製品の輸出入業がコロナ禍でできなくなっても、「じゃあ、警備会社を始めよう」などと言って、ふだんのジェネラリスト的な行動力で臨機応変にやれてしまうので、頼もしい限りです。

森田 警備会社なんて、突然始められるものなんですか?

小川 いきなり正式にやるわけではなくて、正規の警備員の写真を撮って、近所の仕立て屋さんに持っていき「こういう服を作ってくれ」と頼むわけです。で、それを商店街で仕事にあぶれている若者に着せて、ネット経由でニーズを探しては派遣する。そんな感じで、構想から数日後には仕事を始めています(笑)。これは、タンザニアではある程度インフォーマルな仕事が許容されているからです。日本で起業するとなると、法的に煩雑な手続きをクリアしなくてはならず、ハードルがたくさんあります。彼らの暮らす世界では、道義的に見て悪いことだとならない限り、お目こぼしがなされる。日本にもインフォーマルな領域が認められていたら、危機のときに柔軟に対応できるのではないか、と思いました。学生が“コロナ禍で大学には行けないし、バイトもなくなって大変!”みたいなときに、大学の許可がどうとかいろいろな縛りがあって、試しに何かを始めることができないのは、不自由だな、と。

エビデンスを超えていく知性

森田 今のお話を聞いていて、五箇公一さんという生態学者の方が、『ウイルスVS人類』(文春新書)という本の中で書かれていた面白い話を思い出しました。五箇さんは外来生物の対策を専門に研究されているそうなのですが、毒針を持つことで知られる外来生物の「ヒアリ」が、品川の大井埠頭に巣を作ったそうなんです。でも、土も砂もないコンクリートの中に巣を作るというのは、アメリカや中国でそれまで蓄積されていたデータからはまったく想定されていなかったことで、専門家はすごく驚いたというのです。

小川 ヒアリはエビデンスを超えてしまったわけですね。「仕方ないから、まあやってみるか」という一群が勇気を出してやったら、意外と棲めてしまった、みたいな感じだったのかもしれませんね。

森田 現代の社会では、専門家がエビデンスに基づいて導き出した選択肢の範囲内で未来を構想していくのが基本になっていますよね。もちろん、エビデンスを完全に無視するのが賢明とは思いませんが、「それだけ」になってしまうと、ヒアリのようにコンクリートしかない環境に置かれたら、「もう未来はない!」と絶望するしかない。エビデンスのない状況で大胆に可能性をこじ開ける、そうしたタイプの能力も「知性」のはずなんですが、そういうエビデンスを超えた発想の飛躍や逸脱は、ざっくり「アート」という言葉でまとめられてしまって、どちらかというと曖昧で不確かなものとして、科学的知性よりも低く評価される傾向があるように思います。

小川 人類史に目を向けると、人間は思うようにならない事態を、より突発的で自由な知性を駆使して乗り切ってきたように思います。たとえば、狩猟・採集を主な手段として糧を得ていた人間が、定住して農業を始めたのは大きな転換だったと思います。今から見ると大胆な行動は、エビデンスや所与の合理性に基づいた知性だけでなく、ある種の狡知、おおらかな知性によっても実現されてきたはずです。

森田 今回のパンデミックのようなイレギュラーな事態が起きたとき、従来の価値観やルールに縛られすぎていると、それより先に行けなくなります。既存のルールが通用しなくなってしまった世界では、それまでのルールを順守するよりもむしろ、既存のルールを柔軟に逸脱できる力が必要になってきます。同じゲームを違うルールでプレイし始めるのは「遊び」の醍醐味ですが、そういう遊戯的な知性がこれからはすごく大事になってくるのではないでしょうか。ゲームオーバーに見えるところで「いや、これは新しいゲームが始まったのだ」と感じるたくましさというか。

小川 コンクリートに活路を見いだしたヒアリのようにたくましく!

不確実な世界とともに生きる、ネガティブ・ケイパビリティを育む

森田 「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念が最近注目されていますね。学校などでは基本的に“与えられた問題を速やかに解く”という「ポジティブ」な能力が求められますが、人生の重要な問題の多くにはそもそも明確な解決の方法がありません。となると、問題を迅速に解くことよりも、問題が解けない宙吊り状態に持ちこたえる力のほうが大切になってくる。このように、答えの出ない曖昧さの中にいつづける力を、詩人のジョン・キーツ(註:1795~1821年)が「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだそうです。著書でこの言葉を紹介している精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんは、主治医として多くの人の身の上相談を受けるなかで、どうにも解決しようのない問題に何度も直面したそうです。そのとき、キーツの言葉を思い出すことで「間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐えつづけていく」ことを前向きにとらえることができたといいます。

小川 これは本当に大事なことです。あらゆる教育の現場では、ネガティブ・ケイパビリティこそ教えていくべきだと思います。そうしないと、世の中の問題には必ず回答があり、自分はそれを知らないだけだという間違った理解の仕方をしてしまい、ともすると「解けない自分がダメなんだ」という袋小路にハマり込んでしまう。解けない問題の中で試行錯誤して“ひらめき”を得たり、“やっぱりダメだった”という失敗を繰り返し、そこから想定外の新たな問いが立ち上がってくる。それが学びの本来の楽しさだと思うんです。とりあえず今すぐ成果を出す、拙速に解答を出さねばならないとなると、そうしたプロセスは無駄とされてしまう。それは根本的に違うんじゃないかと思います。

森田 「わからない」という時間を過ごすこともまた「学び」だということが認められれば、学校での学びももっと解放的になっていくのではないでしょうか。これから地球環境が急激に変動していくなかで、どのように考え、どのように生きていけばいいのか、誰にもはっきりとした答えはありません。「わからない」という宙吊り状態の中で、それでも考えつづけていくしかない。

小川 「偶然」や「不確実性」を前提として、それを生きていく力に換えていくことが大切ですよね。このふたつのキーワードを、私の研究においてはポジティブに論じることが多いのですが、それに対する批判もあるんです。人間は努力によって「偶然」や「不確実性」を乗り越えていくべきである、と。もちろん、努力することは楽しいし、大事なこと。でも、努力したって、失敗するときは失敗します。「失敗=終わり」ではないし、努力してもままならないことがあるのを知ることは、他者や自分自身に対する寛容さや、世界の複雑さに対する想像力へとつながり、能動的な働きかけの原動力にもなると私は思っています。ままならないから、豊かであることもあると。

“弱さ”を自覚し、多様な“相互依存先”を増やしていく

―― おふたりの著書には、“弱さ”ゆえに他者に依存して生きる人間のあり方を肯定する視点が共通しているように読み取れました。

小川 森田さんが『僕たちはどう生きるか』の中で提唱されていた、自分の生命が何に依存し、支えられているのかを自覚するための「地図」を作成する授業のお話が面白く、可能性を感じました。

森田 生命の相互依存性をどこまで緻密に把握していけるかは、子どもたちにとって、とても重要な問題だと思います。この力を育むことを学びの主眼として、たとえば小学校低学年の段階では、身近で小さな「おかげさま」を見つけるところから始める。学年が上がれば、呼吸のための酸素は植物からもらっているとか、土中の菌根菌のおかげでおいしい野菜が食べられるとか、科学の知識で依存関係の地図を更新していく。自分が何に依存して生きているかを緻密に描写していく過程で、子どもたちは自分の存在が、毛細血管のように地球生命圏全体にしみわたっていることを発見していくでしょう。そのような拡張された身体感覚がなければ、地球環境の変化を我がこととして感じることは難しいと思います。

画像: 法然院の境内にある落ち葉の集積場を活用し、堆肥を作る。森田が作る新たな学びの場の拠点のひとつであるこの場所では、「堆肥づくり」や「菌探し」のワークショップ、昆虫観察会なども行う

法然院の境内にある落ち葉の集積場を活用し、堆肥を作る。森田が作る新たな学びの場の拠点のひとつであるこの場所では、「堆肥づくり」や「菌探し」のワークショップ、昆虫観察会なども行う

画像: シートをかけておいた堆肥からは、独特の発酵臭が。冬場は驚くほど温かくなるそう

シートをかけておいた堆肥からは、独特の発酵臭が。冬場は驚くほど温かくなるそう

小川 とても面白いですね。人間以外の自然を含めた、マルチスピーシーズ的な関係の網の目の中で、自らの“弱さ”を発見していくことは世界の見方を変えるヒントになりますね。

森田 多様な依存先を持ち、その依存先を正確に把握できていればいるほど、不確実な未来にもしなやかに応答できるのではないでしょうか。現代はあらゆる局面で生産性と効率性の尺度ばかりで最適化を進めてきた結果、依存先の多様性が失われてきているように思います。これでは、いざというときに身動きがとれなくなってしまいます。

小川 実際、コロナ禍という未曾有の出来事を経験して、私たちは己の脆弱さを十分に実感させられましたものね。私は、少し前から「瀬戸際の人類学」を構想しているのです。人間は追い詰められると、突発的な行動をとったりするじゃないですか。急に土下座したり、硬直して愛想笑いしたりとか。それは時に、他人の目には面白おかしく映ったりする。日本人は、ある意味“弱さ”が極まったその滑稽な姿を恥じたり怖がったりする。一方、タンザニアの人たちは、瀬戸際に表れるその追い詰められた姿を「窮地を切り抜けるための変身」というふうに肯定的に面白がる。たとえば、“社会的にちゃんとした人が浮気がバレて泣いて詫びる”みたいな姿を見て、ああこの人の本性は情けない人だと評定するのではなく、この場でこの手の豹変を発揮するか! というかたちで、窮地の切り抜け方のバリエーションのひとつとして共有する。丸出しになった弱さを受け容れ、それをポジティブなものへと変換してしまうところに、私はおおいなる魅力を感じているんです。

画像: 森田真生(左)と小川さやか

森田真生(左)と小川さやか

森田 僕は最近はもっぱら“人間以外のもの”と触れ合う時間が増えていますが、小川さんの著書を読んでいると、人間の中にもびっくりするくらい多様性があると気づかされます。僕たちが生きている時代は「瀬戸際」の連続かもしれない。そんななかでも心を壊さず、しかも感じることをやめないで生きていくためのヒントは、多様な人間の文化の中にも眠っているのかもしれない。人間と、人間でないものたちから学びながら、ただ生き延びるだけでなく、生き生きと生きていくための道を探しつづけていきたいですね。

SET DESIGNER’S ASSISTANT: HARRY SMITH

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.