柴崎友香が初めて手掛けた探偵小説から、主人公が猫の意欲的な作品まで。三者三様の探偵小説をご紹介。ミステリー小説やドラマ好きならきっと、推している探偵がいるだろうが、はたして本3作品に登場する“探偵”はそのリストに加わるか!? 大人の読書時間をさらに深く広く有意義にする作品を、今月も書評家の石井千湖がレビューする

BY CHIKO ISHII

柴崎友香が描く不思議な世界。
『帰れない探偵』

『帰れない探偵』は、柴崎友香が初めて書いた探偵小説だ。現代の日本で暮らす主人公が〈かつて誰かが生きた場所〉に思いを馳せる『わたしがいなかった街で』、コロナ禍のさなかに別々の場所で暮らしている男女の日常を描いた『続きと始まり』など、柴崎作品といえば重層的な時間と場所。『帰れない探偵』も、時間と場所が鍵になっている。
 語り手の「わたし」は、「世界探偵委員会連盟」に所属する探偵だ。急な坂のある街で停電が起こった日を境に、探偵事務所兼住居にしていた部屋に帰れなくなった。地図を読むのは得意で、いつも道には迷わないのに、どんなに探しても住んでいた建物に通じる路地が見つからないのだ。そのまま「わたし」はいろんな街を転々としながら、さまざまな依頼者と出会っていく。

画像: 『帰れない探偵』柴崎友香 著、出口瀬々 装画・挿絵、川名潤 装幀 ¥2,035/講談社

『帰れない探偵』柴崎友香 著、出口瀬々 装画・挿絵、川名潤 装幀
¥2,035/講談社

 本書は七つのエピソードで構成されているが、冒頭に共通して〈今から十年くらいあとの話〉という言葉が置かれている。昔話の〈むかしむかしあるところに〉という発端句や、魔夜峰央の名作漫画『パタリロ!』の〈常春の国マリネラ〉を彷彿とさせる。寓話的な雰囲気をかもしつつ、特定の時間を想定しているようでもある不思議な書き出しだ。「わたし」が会う人々は常に仮名で、滞在する街の名前もわからない。しかし、読んでいると鮮やかに立ち上がってくる風景がある。
 たとえば、急な坂の街の高台にあるカフェで、テラス席から港を見降ろし、依頼者のひとりが作った曲を聴くくだり。〈その瞬間から、頭の中心に手を突っ込まれてかき回されている感覚になった。低い女性のボーカルがいくつも重なり合って、リズムは速くなり遅くなり、そして聴いたこともない弦の音が響いた〉〈眼下の港、高層ビル、テラスを囲む木々、それからここにある空気が、全部膜が剥がれてクリアになっていった〉という。その風景が渡り廊下でビートルズの「Tomorrow Never Knows」を聴いた高校時代の記憶を呼び起こす。そして、探偵事務所兼住居だけではなく、自分の生まれ育った街にも帰れない「わたし」の事情が少しだけ明らかになる。

 探偵自身が「帰れない」という謎を抱えている上に、「わたし」のもとに舞い込む依頼もユニークだ。数十年前の写真にうつった場所の現在の風景を撮る仕事、未解決連続殺人事件の被害者の恋人探し、移民の子孫向けルーツ調査……。なかでも印象深いのは、40年前に起こった事件にまつわる依頼だ。商社社長の邸宅に、武装集団が立てこもった。犯人は射殺および逮捕され、人質も無事に保護された。事件当時の社会状況を記録したいという政治史研究者の要望で、「わたし」は関係者の聞き取り調査を行う。

 意外な真犯人とか意外な動機とか意外なトリックはない。恐ろしい陰謀や誰かの秘密が暴かれるわけでもない。エンターテインメントとして書かれたミステリー小説のようにサプライズに重きを置いてはいないけれども、街を歩き関係者の話を聞くことによって、いくつもの国に支配されてきた土地の歴史と、かつてそこで生きていた人々の姿が浮かび上がる。戦争や災害、政変、テクノロジーの進化など、いつの時代でもどこの場所でも社会のありようが激変して「帰れなくなる」可能性はある。現実の閉塞感を照射して、なおかつ「今ここ」だけではない世界の広がりを感じられるところが、柴崎ならではの探偵小説になっている。
 帰れない「わたし」が、最後にたどり着く場所もいい。自分が今いるのはどういう場所なのか、昔そこにいたのはどんな人たちか、十年あとの世界はどうなっているのか、「わたし」のように探偵してみたくなる一冊だ。

探偵とは? そのひとつの答え
ポール・オースター『ガラスの街』

 ミステリー作家ではない柴崎友香が探偵小説の執筆を依頼されたとき、思い出したのがポール・オースターのニューヨーク三部作だったらしい。一作目の『ガラスの街』(柴田元幸訳)は、深夜の間違い電話をきっかけに私立探偵になった主人公クインが、依頼者ピーターを9年間幽閉していた父親のスティルマンから守る仕事を請け負う。具体的には、グランドセントラル駅に到着予定のスティルマンを待ち伏せして尾行するという任務だ。スティルマンはニューヨークの街を歩き回るばかりで、ピーターに近づく気配はない。クインはスティルマンがさまようルートを赤いノートに記録するが……。

画像: 『ガラスの街』ポール・オースター 著、柴田元幸 訳、タダジュン 装画、新潮装幀室 装幀 ¥649/新潮文庫

『ガラスの街』ポール・オースター 著、柴田元幸 訳、タダジュン 装画、新潮装幀室 装幀
¥649/新潮文庫

 はじめのほうに、探偵とは何かを語るくだりがある。
〈探偵とは、すべてを見て、すべてを聞き、事物や出来事がつくり出す混沌のなかを動き回って、これらいっさいをひとつにまとめ意味を与える原理を探し出す存在にほかならない。実際、作者と探偵は入れ替え可能である。読者は探偵の目を通して世界を見る。探偵の目を通して、数々の細部の増殖を、あたかも初めて味わうかのように味わう。探偵は自分の周囲にある物たちに対し、つねに覚醒している。あたかもそれらが、彼に語りかけようとしているかのように。あたかもそれらに対して彼が向けている注意深さゆえ、物として存在しているという単純な事実以上の意味をそれらが有しはじめようとしているかのように。〉

 柴崎の『帰れない探偵』とオースターの『ガラスの街』の共通点は、探偵が〈事物や出来事がつくり出す混沌〉のなかを動き回ることだ。ただしこの探偵の定義は既存のミステリーにまつわるもので、「わたし」もクインも〈いっさいをひとつにまとめ意味を与える原理〉を見つけられない。混迷を深め続けてすべてをひとつにまとめる原理があるとは信じられない現代世界のリアルな状況を反映しているのだろう。それぞれの探偵の迷い方に独自性がある。グローバル化された世界で生きる「わたし」はいくつもの街を流浪するが、まだインターネットが普及していない時代のニューヨークで暮らすクインはひとつの街を彷徨する。
 クインの目を通して見るニューヨークの街は魅惑的だ。たとえば、紆余曲折を経て路地で暮らすようになったクインが雲を観察するシーンなど、唯一無二の味わいがある。

猫ゆえの視点と行動。
奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』 

 純文学作家による風変わりな探偵小説といえば、奥泉光の『「吾輩は猫である」殺人事件』。夏目漱石が名無しの猫を語り手にした名作『吾輩は猫である』のパロディだ。
 漱石の小説の最後で死んだはずの「吾輩」が実は生きていて、気がついたら1906年の上海の共同租界にいた、という場面で物語の幕は開く。租界とは外国人居留地のことだ。そこで「吾輩」は自分の飼い主だった苦沙弥先生が殺害されたことを知る。遠く離れた日本で何があったのか。記憶力に優れた「吾輩」と、イギリス猫の名探偵ホームズ、その相棒のワトソンなど、租界の公園に住む国際色豊かな猫たちが事件の謎解きに挑む。

画像: 「『吾輩は猫である』殺人事件」奥泉 光 著、川名潤 カバーデザイン 、長崎訓子 カバー装画 、佐々木暁カバーフォーマット ¥1,210/河出文庫

「『吾輩は猫である』殺人事件」奥泉 光 著、川名潤 カバーデザイン 、長崎訓子 カバー装画 、佐々木暁カバーフォーマット
¥1,210/河出文庫

 ミステリーとして引き込まれるのはもちろん、『吾輩は猫である』の続編としても面白いのだが、漱石の文体を模写して描かれる風景がいい。たとえば、世間の荒波にもまれた「吾輩」が、初めて上海の街を美しいと思うシーン。
〈その日もまた飽きもせず一晩狗と追い駆けっこをして、やがて朝になって見れば吾輩は黄浦江に面した木立と芝生の庭園に居た。いましも若い太陽が東の空に低く昇って、黒い船影の遊弋する河面は光を貯めた天然の鏡に変り、香露を集めたかの如くに燦いている。芝も間も未だ冬枯れているが、葉を落とさぬ低木が黒く密生する辺りには草木萌動の気が凝って、振り向けば陽を浴びた外灘のビルディングが赭く燃えて淡い水色の空に映えている。潮を孕んで海から吹き寄せる冷風が芳しい。〉
 漢文の素養があった漱石の文章には今の読者には馴染みが薄い言葉が出てくる。それが古めかしい感じではなく、かえって新鮮なのだ。
 SFの要素が入ってくるところにも驚いた。『吾輩は猫である』にある謎を精緻に読み解いて、新しい世界を創造している。

 前述した『ガラスの街』のなかに、private eye(私立探偵)という言葉について記述したくだりがある。プライベート・アイの「アイ」はinvestigator(調査者)の頭文字「i」であるだけではなく〈「私」を表わす大文字のIたる、息をする自己の身体に埋もれた小さな生の芽。と同時に、それはまた、作者の物理的な眼でもある〉という。
 探偵小説を読む楽しさは、このなかでも「眼」を意味する「アイ」にあるのではないかと思う。探偵の眼は不可解で混沌とした世界を読者の自分に代わって観察し、異なる見方を付け加えてくれるのだ。
 

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画像: 石井千湖 最新作『積読の本』も話題の書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経たのち、現在は新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿のほか、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。最近では『漂着物、または見捨てられたものたち』(東京創元社)の解説も手掛けている。

石井千湖
最新作『積読の本』も話題の書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経たのち、現在は新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿のほか、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。最近では『漂着物、または見捨てられたものたち』(東京創元社)の解説も手掛けている。

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