パンクムーブメントやクラブシーンといったニューヨークのサブカルチャーに強い影響を受けてきたデザイナー、アナ・スイ。シグネチャーのベビードールや、無秩序に重ねたファブリック、目がくらむような鮮やかな色使いをメインテーマに、フェミニニティとグランジをミックスした独自の美学を貫きつづけている

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY TINA BARNEY, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 スイはとても穏やかな人だ。デザイナーにありがちな“これ見よがしでツンとしたイメージ”とはほど遠く、やわらかな謙虚さと、思索に培われた知性を感じさせる。温厚さとやさしさで知られている彼女は、私の家族のことを気にかけ、13歳の娘がインテリアに夢中になっているという私の話も、心の底からうれしそうに聞いてくれた。そんな彼女は、モード界で稀有な存在として、誰からも愛されている。だがもしかするとそのせいで彼女は得るべき評価を得ていないのかもしれない。ランウェイからストリートまで、これほど広範囲に影響を及ぼしてきたというのに。たとえば最近、男性のクチュリエたちが先駆者気取りで取り入れているスクールガール風のテイストやさまざまな表情のコケットリーは、スイのクリエーションに繰り返し現れるテーマだ。現代版ボヘミアンが集うカリフォルニアの音楽フェスティバル「コーチェラ」全盛期の天真爛漫なハッピームードや、ビーズやマクラメ装飾もみんな彼女の定番と呼べる要素である。その影響は世代を超えて広がり、欧米のフリマアプリ「DEPOP」では、若いコレクターたちの間で「アナ スイ」のヴィンテージTシャツが人気を呼んでいる。

 時代が変わっても女性に対する固定観念は変わらず、スイの服もしばしばアートというより、彼女の人生を物語る自伝としてみなされる。だが自伝であるからこそ、彼女の創る服は生き生きと鮮やかで、力強さを感じさせるのだ。

スイは50~60年代にデトロイト(ミシガン州)郊外、ディアボーンの辺地で過ごした少女時代へと、何度もタイムスリップをしながらクリエーションのアイデアを見つけている。ディアボーンの住民の多くは労働者階級だったが、彼女の両親が住み着いた頃、アジア系の住人は彼らしかいなかった(1882年に制定された〔中国人排斥法〕の影響だろう。1943年にこの法律が廃止されるまで、基本的に中国人はアメリカに移住できなかった)。父親のポール・ワイ・コン・スイは中国南東部の深シンチェン圳にルーツを持つ商人の息子としてタヒチで生まれ、中国で教育を受けた。母親のグレース・クァン・チー・ファンは政治家の娘で、先祖には17~18世紀の中国で活躍した文人で儒学者の方苞(ほうほう/唐・宋派の古文を規範として、華やかさや装飾性を排除した、簡潔な文章を提唱した)がいる。両親は学生時代にパリで出会ったが(父のポールは工学を、母のグレースは絵画を専攻していた)、1949年に中国共産党が政権を握るとアメリカへ移住し、そこで3人の子どもを育てた。スイは男兄弟の真ん中の唯一の女の子で、兄のボビーはティーンエイジャーだった頃、彼女と末っ子のエディをデトロイトのロックショーに連れていってくれたそうだ。

画像: スイが育ったミシガン州ディアボーンで兄ボビーと COURTESY OF ANNA SUI

スイが育ったミシガン州ディアボーンで兄ボビーと
COURTESY OF ANNA SUI

 それから数十年後、ミシガン州ではアジア人が増加し、地域からは不安の声も上がっていたが、スイは中国人であることで理不尽な扱いを受けた覚えはないと言う。「そもそも私はレッテルなんて受け入れなかったから」と彼女は補足する。結局のところ、ごく普通のアメリカ人だったスイは、ほかの数百万人の女の子たちと同じように、1959年に発売されたバービー人形の虜になった。バービーの服はほとんどがローズ系で、なかでもマゼンタ88%に相当する「パントン219C」(註:パントンは世界共通の色見本帳の名前)のピンクが頻用されていたが、スイはパープルがお気に入りだった。パープルの曖昧なニュアンスに惹かれたそうだ。以来ずっとこの色に夢中だという。アザのような青とコントラストをなす、コケティッシュな淡いピンクが溶け合う色。どこにでもいる平凡な女の子と、妖艶でちょっと毒のある女性が実は似たもの同士であり、表裏一体かもしれないという緊張感を漂わせる色。この、相反する色を混ぜ合わせて生まれたパープルと同じように、スイの創る服にも両極的な二要素が共存する。彼女のクリエーションは、どんなに幸せなムードに満ちていても、靄(もや)のような、あらぬ方向に進んだプロットのような小さな引っかかりを感じさせる。一方で、暗いトンネルではその先にまばゆい光が見え、暗闇の中でうっすらとネオンサインが瞬(またた)いているのだ。

 2017年、ロンドンの「ファッション&テキスタイル・ミュージアム」では『The World of Anna Sui』という初の大規模な回顧展が催され、同名の書籍も出版された。著者であるファッションエディターのティム・ブランクスは、なぜスイの世界に“対立する要素”がつきものなのか、その理由をこう考えている。「世の中のルールや慣習に縛られたくない、従いたくないという意思表示だ」。スイ自身はこう語っている。「私はどんな暗闇の中からも、ポジティブな面を引き出せる。究極の楽天家だから」

 どこまでも楽観主義を貫きながら、アーティスティックな才能を無限に開花させているスイ。メトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートのチーフキュレーター、アンドリュー・ボルトンは2010年に出版した著書『ANNA SUI』で、ファブリック、モチーフ、プリント、あらゆるアクセサリーを重ねた彼女のスタイルを「騒々しい不協和音」と形容している。一方スイは「自分は知的な中国人というより“キャンプ”的なアメリカ人」と称する(文化批評家のスーザン・ソンタグは1964年出版のエッセイ『《キャンプ》についてのノート』で「キャンプとは、誇張されたもの、《外れた》もの、ありのままでないものを好むこと」と説明している)。そうは言っても彼女は機知に富んだものづくりをしているし、“キャンプ”という表現は大げさかもしれない。だが実のところ、人目には大げさに見える“キャンプ”という美意識は、表現する人の真剣さから生まれる。形式的で人工的なものの陰に、ときに純粋な創意が隠れているのだ。

 スイのビジョンには説得力がある。クリエーションにおいて彼女は常に「ファンタジーとは未知の世界への憧れと期待から生まれるものである」ということを念頭に置いているからだ。たとえばレースやグラマラスなシルクとハードなレザーのライダースジャケットのレイヤリング。網タイツとローファーの組み合わせ。毛糸の三つ編みが揺れるニット帽。ベーシックなギンガムやワークマン風のコーデュロイから、きらびやかで贅沢なファブリックにいたる素材のバリエーション。このような「アナ スイ」のワードローブは、思春期のマキシマリズム(註:多様な理想を妥協せずすべて実現しようとする姿勢)、つまり「“平凡な人生”という最も恐ろしい運命を押しのけて、未知の世界のどこかにきっとある、自分らしく輝ける人生を見つけたい」という願望を象徴している。

 スイは郊外で過ごした子ども時代を「一番夢見ていた時期」だと言う。彼女にとって、未知の世界へと開かれた扉は『ライフ』誌だった。ツイッギーやベイビー・ジェーン・ホルツァーのようなモデルや、異世界から来たような人々の写真を飽きることなく眺めていたそうだ(スイのアイドルだったホルツァーは美しいだけでなく、憧れのアンディ・ウォーホルのミューズでもあった)。

 スイは、雑誌で見た憧れの女の子や女性たちに着てもらえる服を創りたいと思っていた。どうやってこの夢を実現しようかと思案していたとき、たまたま、マンハッタンの「パーソンズ・スクール・オブ・デザイン」のふたりの卒業生がデザイナーとして活躍しているという記事を読んだ。彼らは学校卒業後パリに移住し、女優エリザベス・テイラーと夫のリチャード・バートンを説得し、夫妻のサポートを得てブティックをオープンしたという内容だった。

実際のところ、そのひとりは著名なファッションフォトグラファー、アーヴィング・ペンの連れ子だったので、この話は自力で築いたサクセスストーリーというわけではない。そもそもスイは、両親から医者になってほしいと言われていた。だが記事の内容を自分のいいように解釈した彼女は、ほかの女の子が持っていた『セブンティーン』誌の最終ページでパーソンズの連絡先を見つけ、カタログ請求の手紙を送った。受け取った資料の入学条件を見てすぐにアートクラスに登録し、内申点を上げようとそれまで以上に熱心に勉強した。そしていよいよパーソンズへの入学が決まると、『ヴォーグ』を小脇に抱えて、スイはちょっと得意顔でハイスクール内を歩いた。

 だがパーソンズに入学後、学校が掲げていたエリート主義に彼女は違和感を覚えた。ファッションデザイン科の学生は、ほかの学科(イラストレーション、グラフィックデザイン、環境デザイン)の学生と交流しないように忠告されていたのだ。「カフェテリアに行くのも禁止されていたのよ」と彼女は当時を振り返る。「もちろん私は耳も貸さなかったけれど」。ルールを破ったことが幸いして、その後モード界屈指のフォトグラファーとして崇拝されるようになったスティーブン・マイゼルという知己を得る(註:彼はイラストレーション科に所属していた)。カフェテリアに行ったとき、マイゼルがスイに手を振ってきたのだ。スイの記憶によるとマイゼルに「君って遊びに出かけたりするの?」と聞かれて、彼女が「機会があれば喜んで行くけど」と答えたらしい。クラブで会う約束をして、彼女がボーイフレンドを連れて行ったところ、マイゼルはひと目で彼女に似合わないと思ったらしく、小声で「この男とは別れろよ」と言ってきたそうだ。

画像: 1983年、19歳の頃のアナ・スイ © AMY ARBUS

1983年、19歳の頃のアナ・スイ
© AMY ARBUS

 この日からスイとマイゼルは毎晩のように顔を合わせた。当初、マイゼルと彼の友人たち(今は彼女の仲間でもある)は、ニューヨークの東53丁目と3番街の交差点にあったスイのアパートメントによく集まっていた。この界隈はもともと、若い娼婦たちが何時間も階段に座って客待ちをすることで有名だったが、1976年に米パンクバンド、ラモーンズが「53rd&3rd」(註:同地区の男娼をテーマにした歌)を発表するとそのイメージは永遠不滅のものになった(ラモーンズのメンバーもスイの仲間だった。1981年にボーカルのジョーイ・ラモーンは、スイのデザインしたシックなパイレーツ風のセットアップを着て、屋上でスナップ写真を撮っている)。スイはキッチンにレオパード柄の壁紙を貼り、リビングルームを赤に、ベッドルームを黒に塗って、床と窓枠も同じ色で統一していた。「あの頃は誰もお金がなくて。クラブにはカバーチャージが取られない夜9時前に行って、トイレにたむろしたりしながら、人がたくさんやってくる11時を待っていたのよ」

画像: スイと友人のハル・リュダサー(1978年) © MARIPOL

スイと友人のハル・リュダサー(1978年)
© MARIPOL

 スイは彼女の人生を好転させたセレンディピティ(註:偶然の出会い、発見)の効力や、アートやロックの世界に引き込まれた出会いについて、まるで不思議なことのように話す。だがこんなふうに語るのは彼女が謙虚だからだ。逆の見方をすれば、人々を引き寄せたのはスイのほうかもしれないのだ。彼女の経験は、ウディ・アレンの『カメレオンマン』(1984年)の奇妙な主人公ゼリグのような(註:ゼリグは周囲の人や環境に同化して次々と姿や精神を変えていく)、当時のNYダウンタウン特有の“共生現象”(註:異種の生物が緊密な関係を保って一緒に生活する)をはっきりと示している。たとえばマイゼルの親友は、パティ・スミスが率いるバンドに合流し、パラシュートシルク(註:戦前までパラシュート製作に使われていたシルク地。現在はポリエステルで代用)のジャンプスーツで有名なデザイナーのノーマ・カマリは、スイの家に近い東53丁目のアパートメントを、パンクロックバンドの元祖と呼ばれる「ニューヨーク・ドールズ」に又貸ししていた。スイは「ニューヨーク・ドールズ」から彼らのリハーサルに招かれて、そこでまずデヴィッド・ボウイのレコードをすすめられた。次に「ニューヨーク・ドールズ」のコンサートでボウイ本人を見つけて、紹介してもらう機会を得たという。

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