パンクムーブメントやクラブシーンといったニューヨークのサブカルチャーに強い影響を受けてきたデザイナー、アナ・スイ。シグネチャーのベビードールや、無秩序に重ねたファブリック、目がくらむような鮮やかな色使いをメインテーマに、フェミニニティとグランジをミックスした独自の美学を貫きつづけている

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY TINA BARNEY, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 こうした環境の中でスイはひとりの大人として自分の人生を歩み始めた。晴れの日も雨の日もあったが、逆境にぶつかっても毎日は生き生きと輝いていた。彼女は毎晩のように行きつけのクラブ「CBGB」や「マクシズ・カンザス・シティ」に通い、セレブリティやこれから有名になる人、あるいは単に有名人に見える人たち(そう見えるだけでも大したものだが)に囲まれながら多くの時間を過ごした。ハイヒールを履き、ライダースジャケットにボーホー風(註:都会的なボヘミアンテイスト)のペチコートを合わせ、ヴィンテージやイヴ・サンローランの服などをスタイリッシュに着こなしていたスイは、いつの間にか周囲の客と同じオーラを身につけていた。前述のボルトンの著書ではマイゼルが序文を書いているが、彼の記憶によると当時のスイは「ハンドバッグを肘にかけて、腕を高く持ち上げるようにしながら」歩いていたらしい。このときの彼女のワードローブこそが「アナ スイ」のデザインの原点だ。マイゼルは「アナが創る服を見れば、彼女の人生が見えてくる」と綴っている。

 だが華やかな喧騒の中にいても、スイは自分を見失わなかった。グループの内側にいながら、同時に外側にも身を置き“刹那的な瞬間のアーキビスト(註:保存価値のある情報を収集・整理・管理する職業)”として、人々を観察しながら頭の中にさまざまなイメージを蓄えていた。自分の懐具合が許す範囲で、こうした場に身を置いて、必要なすべてのことを吸収していたのだ。

 パーソンズには、オートクチュールを絶対視するような傾向があったが、スイはその流れに逆らっていた。1メートル50ドルもするようなカシミアを課題制作に使うなど彼女には論外だった。「私はむしろギンガムチェック地を選んで“この生地で100万ドルに見える服を創るにはどうすべきか”を考えていたから」。スイが創りたかったのは、友人たちがクラブに着ていくような服だった。そのため彼女は70年代の初めに、ヒッピーテイストの「チャーリーズ・ガールズ」(かぎ針編みのベストやゆったりとしたショートパンツなどを得意としたブランド)に就職し、パーソンズを中退した(親のお金を無駄にしてしまったスイだが、2017年にパーソンズの寛大な計らいで名誉博士号を取得している)。このブランドがなくなると、スイはいかにもアメリカ的なテイストの「ボビー・ブルックス」をはじめ、複数のスポーツウェア企業で経験を積んだ。

 1981年、トレードショーに出展したスイの最初の作品を、米有名デパートのメイシーズとブルーミングデールズが買い付けた。だが当時勤めていた会社の上司がこの“副業”に気づき、スイは解雇されてしまう。その後10年近く彼女は自分のアパートメントで仕事をしていたが(今はマンハッタン南部のダウンタウンに住んでいる)、徐々に友人のスーパーモデルたちが、スイの“コケティッシュでちょっと反抗的でガーリーな服”を着てシャネルのフィッティングに出向くようになった(シャネルのアーティスティック・ディレクターだったカール・ラガーフェルドは「アナ・スイっていったい誰?」と尋ねていたらしい)。そして1990年、パリで催されたジャン=ポール・ゴルチエのショーで彼女はチャンスをつかむ。会場のフロントロウに座っていたマドンナがコートを脱いで、スイがデザインした、メッシュで覆った黒のベビードールを大勢の人の前で披露したのだ(マドンナとは、1984年発売の『ライク・ア・ヴァージン』のカバーを撮影したマイゼルを通じて知り合ったそうだ)。この追い風を受けて彼女は意を決し、翌年、「アナ スイ」初のランウェイショーを開いた。

 スイが服を創るうえで“ガーリッシュ”という要素を重視するのは、そこに希望と信念のようなものを感じるからだ。だがいい面ばかりではない。女の子には常に複雑さもつきまとうものだ。そのややこしい不安定さも投影したスイのショーでは、舞台に現れる女性が女の子の役を演じているのか、女の子が女性を演じているのかわからない。彼女たちは、大きなポンポンのようなヘッドドレスをつけ、パッドロックやキーで飾ったチェーンベルトを巻いたチアリーダーのような服を着る。ときには音楽史に残る野外フェスティバル「ウッドストック」やカルト集団のマンソン・ファミリー殺人事件(1969年の夏、ふたつの出来事は約一週間のうちに起きた)の時代の、ドラッグでイカれた目をしたヒッピー風にもなる。だがそのファジーさを一番よく表しているのは、1994年の春夏コレクションで、ナオミ・キャンベル、リンダ・エヴァンジェリスタ、クリスティ・ターリントンがフィナーレを飾ったルックだろう。3人のスーパーモデルは屈託のない笑顔を浮かべながら、天使の囁きとでも呼べそうなやわらかなオーガンジーのベビードールと、羽毛が噴水のように飛び出たティアラを身につけて舞台に現れたのだ(この3つのルックはメトロポリタン美術館で2019年に催された『《キャンプ》についてのノート』で展示された。ピンクのふんわりしたショールを巻いたルックは、同館で現在開催中の『In America:A Lexicon of Fashion』展でも紹介されている)。

 彼女が「アナ スイ」で提案しているのは、「グッドガールなのかバッドガールなのかはっきりしない」ルックだと言う。これはスイの創作上のスローガンとも呼べそうだ。この“イノセンスと退廃の共存”を最もよく象徴しているのが、シグネチャーのベビードールだろう。このドレスの原型は、20世紀初頭に女性解放運動が広がり、女性たちがウエストを締めつけたスタイルとコルセットを放棄してから生まれた。だが「ベビードール」の名前でこのドレスが知られるようになったのは、第二次世界大戦以降のことらしい。アメリカの軍需生産委員会が国民に布地の使用を制限したため(軍服の製造を優先した)、最小限の布地を使った服を創ろうとニューヨークのランジェリーデザイナー、シルビア・ペドラーが、ヒップがぎりぎり隠れる丈のネグリジェをデザインしたのが始まりだと言われている。50年代後半にはクリストバル・バレンシアガやユベール・ド・ジバンシィがベビードールを土台に、クレープデシンやサテン、シャンタンを使った、ゆったりしたトラペーズラインの上品なドレスを提案した。

一方、現代版ベビードールはストリートファッションのカテゴリーに分類される。90年代初頭に、グランジロッカーやライオットガール(註:パンクロックを通じて男性主体の社会に抗議した女性)と呼ばれた女の子たちの間に広がったキンダーホア(註:ロリータテイストに、パンクやグランジの要素をミックスしたスタイル)を代表するアイテムのひとつだったからだ。彼女たちはベビードールが“オブジェ化されたフェミニニティの象徴”であることを嘲りながら、同時に自らの強さを見せつける武器としてこのドレスを身につけた。

 同じ90年代にスイが発表したベビードールはもっと繊細で軽やかだったが、慣習を壊そうとする意志はライオットガールたちと同じだった。その反骨精神で彼女は人より一歩先を進んできた。スイの「グッドガールでバッドガール」というコンセプトを体現したベビードールは、その後、さまざまなメゾンのランウェイに登場している。2013年にはサンローランのエディ・スリマンが6万8,000ドルのベビードールを発表し、昨年のロックダウン前に行われたアレッサンドロ・ミケーレによるグッチのショーでは、フラットカラーをつけたグッチ版ベビードールをまとったメンズモデルが現れた。

 世間では一般的に「真のアーティストは市場のニーズに振り回されない」という考えがまかり通っている。モード界では、巨大企業の支配者からほぼ無限の自由と資金を与えられ、高価すぎて誰も着られないような服を創るクチュリエこそが、真の作り手とみなされている。こうしたクチュリエにとっては着心地のよさなど二の次である。かたやプレタポルテだけに専心し、独立した立場を守ってきたスイには、大きな資金援助の後ろ盾もなく、彼女のビジョンを支えてくれるのは市場だけだ。だが多くの点でクチュリエたちと同じくらいスイは自由で、感性の赴くままに創作している。毎シーズン、独自の世界観を表現するために、スイは時間をかけて徹底的にリサーチし(彼女にとって最もエキサイティングなことらしい)、気になった事柄については細部にいたるまで掘り下げる。映画『ワンダーウォール』について調べたときは、科学者のアパートメントの壁に書かれた、哀愁漂う詩の一節(ヴィクトリア朝の詩人クリスティーナ・ロセッティの作品)にまで着目したそうだ。

 スイが独立した経営形態のもとで、自由に独自のクリエイティビティを発揮できるのは、ビジネスにおいて正しい判断をしてきたからだ。90年代には日本やドイツとライセンス契約のほか、前例のない販売提携を結び、一夜にしてフレグランス、ファッション、コスメティックの世界的な帝国を築き上げた。だが正しかったのはビジネスの手法だけではない。スイはデザインの面でも自分らしい視点とテーマを貫いてきた。ティーンエイジャーの女の子の心の機微を汲みとり、それをクリエーションの根幹としてきたのだ。無鉄砲で恥知らずなほど自信過剰になったり、暗くふさぎ込んだりしていた女の子が、やっと自分のよいところに気づいて世界に飛び立とうとする、あの高揚した、記憶に残る心の躍動を、スイはよく知っている。彼女の話によると、シーズンにかかわらずランウェイで披露されたワードローブの85%はよく売れるそうだ。

画像: 1992年、ニューヨークに初のブティックをオープンした際に撮ったスナップ。左から、当時の店長エリカ・ヒル、PRエージェントKCDで当時ファッション広告のディレクターを務めていたジル・ニコルソン・サミュエル、スイの弟エディ、スタイリストのビル・ミューレン、PR部門主任エド・フィリポウスキー、イラストレーターのティム・シェーファー、スタイリストのポール・カヴァコ、ファッションエディターのハミッシュ・ボウルズ COURTESY OF ANNA SUI

1992年、ニューヨークに初のブティックをオープンした際に撮ったスナップ。左から、当時の店長エリカ・ヒル、PRエージェントKCDで当時ファッション広告のディレクターを務めていたジル・ニコルソン・サミュエル、スイの弟エディ、スタイリストのビル・ミューレン、PR部門主任エド・フィリポウスキー、イラストレーターのティム・シェーファー、スタイリストのポール・カヴァコ、ファッションエディターのハミッシュ・ボウルズ
COURTESY OF ANNA SUI

 一方で、自身のブランドの人気の高さに戸惑うこともあった。「何かが大ヒットすると“売ることを優先して、私が万人受けを狙いすぎたのかも。次は方向を変えないと”って思うのよ」とスイは打ち明ける。こうして1992-’93年の秋冬コレクションでは、片頰に蝶のテンポラリータトゥを入れたナオミ・キャンベルに、ヒップが露わになった、スタッズを施したスエードチャップス(註:乗馬で使用するズボンカバー)をはかせた。その5年後には「ジェーンズ・アディクション」と「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のギタリスト、デイヴ・ナヴァロにランウェイへの出演を依頼した。サタンのようなあごひげと、アイライナーでくっきりと囲んだ目もとが目を引く、凄みのある彼は「ランジェリーが出てくるショーならいいよ」と答えた。茶目っ気のあるスイはその言葉を受けて、ダークパープルのキャミソールとレザーパンツを彼のために用意した。ショー当日、ナヴァロはランウェイの途中でレザーパンツを少し下げ、中にはいていたレースのパンティを観客にちらりと見せた。

 スイは定番のテーマを繰り返し使う傾向があるが、彼女の頭の中には無限のアイデアが広がっている。すでにあふれかえるほどだが、それでも彼女は新たなひらめきを蓄えつづけている。今年6月に披露した2022年のリゾート・コレクションのテーマは、オーストリアの職人組合「ウィーン工房」の美学(20世紀初頭にデザインの力で日常を豊かにすることを目指したもの)だった。インスタグラムで見つけた複数の若手アーティストとコラボレーションをしたこともある。スイは、シアトルのイラストレーター兼壁画アーティストであるスティービー・シャオや、ブルックリンのジュエリーブランド「デイジーチェーンズ」のデザイナー、ボニー・ロビンズと、インスタグラムのダイレクトメッセージでコンタクトを取った。先述のティム・ブランクスは著書の中で、スイを「カルチャーの考古学者」と呼んでいる。さまざまな歴史の断片を織り交ぜながら、今らしいワードローブを編み出している彼女にぴったりの名前だ。

だが私はもう一歩踏み込んで、スイを「人類学者」か「ポップカルチャーにおける多様な種族の研究者」と呼びたい。時代や国境を超えて、あるいは仲間同士でアイデアを交換することに長けた彼女の作品は、もっと広い意味での世界――彼女の周りを渦巻く人間社会やストリート――との継続的なコラボレーションといえるだろう。

 ニューヨーカーというのは縄張り意識が強く、自分たちは誰よりもこの街に詳しいのだと主張したがる。そして世代にかかわらず誰もが、個人的な“記憶の地図”にとらわれて永遠に過去を惜しみつづけている。70~80年代にかけてスイが暮らしたニューヨークはこのうえなく夢想的な、美化された記憶の景色に覆われている。そこは、でこぼこした道が多く、絶望的で、熱狂的で、突発的で、壮大で、汚くて、危険で、幸いにしていろんなものが安かった。

スイは「結構みじめな時期だったけれど」とつぶやいたあと、当時ゴーストタウンだったトライベッカで友人が借りていた巨大なロフトについて話し始めた。「部屋のど真ん中にトイレがあって、エレベーターもなければお湯も出ないアパートメントだったけれど、家賃はたった200ドルだったの」。音楽シーンのめまぐるしい変化も目のあたりにした。享楽的で芝居がかったグラムロックやディスコが、反体制的なパンクに取って代わり、人気を得たパンクは反権力の姿勢を貫いて、自らの権威を捨ててアヴァンギャルドへと姿を変えた。だが80年代にエイズの脅威が広がると、途端にすべてが静まり返った。夜の街をきらめかせていた美しい人々や知識人、アーティストやプロデューサーが次々とクラブから姿を消し、スイにとってニューヨークの定義だった“華麗さ”は消え去った。彼女はファッションを通じて明らかな政治的メッセージを発信したことはないが、「アナ スイ」の世界にあふれる陽気さは、もしかすると多くのものを失ったことを認めたくないという拒否反応の表れかもしれない。時に人は、幻想を支えに生きていくものなのだ。

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