パンクムーブメントやクラブシーンといったニューヨークのサブカルチャーに強い影響を受けてきたデザイナー、アナ・スイ。シグネチャーのベビードールや、無秩序に重ねたファブリック、目がくらむような鮮やかな色使いをメインテーマに、フェミニニティとグランジをミックスした独自の美学を貫きつづけている

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY TINA BARNEY, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

画像: モデルのテレサ・スチュワートとスイ(1991年) KYLE ERICKSEN/COURTESY OF FAIRCHILD ARCHIVE

モデルのテレサ・スチュワートとスイ(1991年)
KYLE ERICKSEN/COURTESY OF FAIRCHILD ARCHIVE

 90年代後半、ニューヨークは活気を失って、新自由主義(註:政府の規制緩和や民営化によって自由競争や市場活性化を促す経済思想)の勝ち組のための、退屈で面白みのない遊び場に変わってしまった。「昔みたいなアンダーグラウンドシーンはもう二度と見られないでしょうね」とスイは残念がる。彼女は、2008年のリーマン・ショック後、景気が回復して過熱状態になったときニューヨークががらりと変わってしまった、と言う。「あらゆるものが企業化して、家族経営の店はみんななくなってしまった」。

だが彼女自身のチームは結束が固いままだ。サンプル部門のヘッドであるアキコ・マミツカと、プロダクション部門のディレクター、ハイディ・プーンは「アナ スイ」に入社して32年になる。著名なメイクアップアーティストのパット・マクグラスと、ヘアスタイリストのガーレンは20年以上にわたってスイのショーに携わってきた。なかでもガーレンは1991年のデビューショー以来のレギュラーメンバーだ。スイの兄ボビーはCFOを務め、20代の姪のチェイスとジャニー・スイ=ワンダーズ姉妹、そのいとこのイザベル・スイの3人は、動画製作、フォト、モデル、イラスト、アクセサリーデザインなど、それぞれのスキルを活かした役割を担っている。

 かつてスイをインスパイアしたサブカルチャーはもちろん今も存在する。だがこの手の文化はもう都市の中では発展しなくなってしまった。これまで“クールなこと”とは、何か特別なものに偶然出くわすこと、未知の、誰も知りようのない暗い路地や名もない小道に入り込んで、知識やアクセス権を得ることだった。だが、今やそういったものまで加速化し拡張する資本主義にのみこまれ、カルトとメインストリームの境界すらあやふやになっている。この状況はファッション界にとってなおのこと問題だ。ファッショナブルでハイセンスであるということは、つまりメインストリームに逆らうこと。人より一歩先を行き、後ろにいる人に向かって得意気にウインクをし、ついてこようとする人たちを追い払うことだ。

それなのに、カルト的でクールなものが大衆化してしまった今、どうやって人と違うファッションを生み出せばいいのだろう。また、時の流れが加速したこともこの業界における大きな問題だ。昔はコレクションが店頭に並ぶまで何カ月もかかっていた。デザイナーはあれこれアイデアを練り、細かな流れの変化にも対応し、さまざまな形で情報を提供し、買い手の欲しいという気持ちを盛り上げる余裕があった。「最初見たときは“こんな服着たくない”と思っても、少し時間がたつと“あれちょっと待って、試してみようかな”って変わるもの」とスイは言う。だが今やインターネットによりすべてはリアルタイムで行われ、何かを待ち焦がれる時間はなくなり、早ければ早いほど喜ばれ、誰もがせっかちになっている。人々が求めるのは常に次の新しい何かであり、彼女は「“新しさ”が、誰もが従うべきルールのようになってしまった」と嘆く。

 インタビューの翌日、スイのお気に入りの場所だというマンハッタンの「ノイエ・ギャラリー」に誘ってくれたが、パンデミックのせいでまだ閉館中だった。そのため私たちはホイットニー美術館の『Making Knowing: Craft in Art, 1950-2019』展を観に行くことにした。

 スイは長い間、組織に属さずに仕事をする職人、なかでもニューヨークのガーメントディストリクトで働く職人たちを擁護してきた。100年以上の歴史を誇るこの地区で働く彼らは、急速な機械化と、高騰する家賃のせいで生計を脅かされ、過密状態の仕事場で新型コロナウイルス感染の高いリスクにさらされている。50年代はアメリカに流通するほとんどの衣料が米国産で、その大半がミッドタウンとチェルシーの間にある、特に魅力もない殺風景なこの地区で製造されていた。当時は約1.5㎢のブロックに日夜、何十万人もの労働者が押し込まれていたが現在は5,000人ほどにまで減少し、流通する衣料のほとんどは輸入に頼っている。

 彼女がこの美術展を選んだのは、ロサンゼルスを拠点に活動するアーティスト、ライザ・ルーの《キッチン》(1991-1996年)を観るためだった。ベニヤ板やパピエマシェ(註:張り子などに用いる混凝紙)を使って、典型的なアメリカのキッチンを模したこのインスタレーションは、実物大でありながら機能性はまったくない。荒れた海のように波立ったシンクの水に沈んだ食器も、オーブンから半分飛びだしたチェリーを飾ったパイも、すべての表面がキラキラした何百万個ものビーズで覆われているからだ。小さなビーズをひとつずつピンセットで載せていったため、完成までに5年も要したそうだ。ゴテゴテとして派手なのにどこか厳かさが漂うのは、教会の緻密なモザイク画のように、一心不乱に美を追求する姿勢が感じられるからだろう。このキッチンは、家事労働を賛美しつつ、家事の大変さを匂わせない。私たちに「きらめくものの裏には、骨の折れる作業があること」を思い起こさせるのだ。

 しばらくの間スイはそこにたたずんで、あらゆる角度からこの作品を眺めていた。その後、私たちは階段を下り、美術館の外に出て座った。彼女は好奇心あふれるまなざしで、街中で繰り広げられる“ランウェイ”に見入っている。マンハッタンの街並みは一歩ずつゆっくりと、失われた日常を取り戻している。彼女はいきなり話を中断して「ちょっと見て、あの靴」と小声でささやいた。ふくらはぎをきゅっと締めた、驚くほど高いヒールのプラットフォームブーツを履き、全身をブラックでまとめたアンドロジナスな人が、滑るような足取りでそばを通りすぎていった。空中公園「ハイライン」につながる階段を上がっていったその人が視界から完全に消えるまで、私たちはずっとそのブーツに見とれていた。

 ニューヨークのロックダウン中、スイの心を支えたもののひとつが、友人の著名なスタイリスト、ビル・ミューレンのインスタグラムだった。彼は『Places I’d Rather Be』(註:『私が居たかった場所』)」というテーマで、ノスタルジックなニューヨークの風景や人々を描いた一連の空想画を投稿していた。たとえば真っ赤なベレー帽をかぶったビアンカ・ジャガーがたたずむ「スタジオ54」。あるいはイースト・ヴィレッジの今はなき食料雑貨店「ジェム・スパ」(エッグクリーム〔註:ミルクセーキ風ドリンク〕で有名だった)と、その前でポーズを決めたロックバンド「ニューヨーク・ドールズ」。そしてアップタウンのカフェ「セレンディピティ3」の絵にはスイが描かれている。ティファニーランプの下にいる彼女は、アクアマリン色のファーコートを着て、そばには同じ色のオウム(ミューレンのペットで名前はモーティシア)がいる。スイは「どのスケッチも本当に素敵よね」と言った。「でも……」

 彼女は一瞬口をつぐみ、そのあと静かに言った。「“私が居たかった場所”は、やはりあの時代よ」

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