プラダとミュウミュウのデザイナー、ミウッチャ・プラダはファッションとアートの関係を刷新し、従来の美の定義を大きく、永遠に変えた。彼女はまた、内に強い信念を秘めたひそやかな反逆者でもある。自らについて多く語ることのないミウッチャだが、ブランドそしてプラダ財団の未来をどのように考えているのか

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY COLLIER SCHORR,FASHION STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

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画像: 2019年春夏コレクションより、ダブルサテンのトップスとショーツ

2019年春夏コレクションより、ダブルサテンのトップスとショーツ

 プラダ財団の〈中枢〉は「ホーンテッドハウス」と名づけられた4階建ての塔だ。この金箔で覆われた建物には彫刻家のルイーズ・ブルジョワとロバート・ゴーバーの作品が収蔵されている。2階にあるブルジョワのインスタレーション《Cell(Clothes)》(1996年)には、木の扉についたリング状の金具に捕らえられたようなボトムやドレスが並んでいる。最上階にはゴーバーの、蝋でできた子どもの片足の彫刻(2010年)が展示されている。壁から突き出た、プラダ風の白いサンダルと白いショートソックスをはいたその足には、重そうな錨がぶら下がっている。このフロアで、服や靴など身につけるものを扱った作品はほかにないが、代わりにゴーバーが手がけた、インパクトのある排水溝のインスタレーションがある。その金属製の格子蓋の下を水が流れ、溜まった岩や瓦礫の中に放置された真っ赤な心臓が鼓動を打っている。
 ミウッチャは、若い頃関わっていた政治運動の話になると胸襟を開いてくれることもあって、ジャーナリストたちはこぞってこの話題に触れたがる。2004年の『ニューヨーカー』誌に載ったミウッチャの記事には「イタリア中流階級の多くの若者にとって、60年代に共産党に入党することは通過儀礼のようなものだった」とある。だがそんな薄っぺらな気持ちで活動していた若者たちと違ってミウッチャは本気だった。だからこそ当時抱いていた理想主義的な使命を、自分の仕事を通じて全うしようとしている。理想と現実のズレに悩んで立ち止まったりせず、その葛藤をバネにここまでやってきたのだ。街頭での抗議活動や集会でのビラ配りから長い年月を経て、彼女は1993年にベルテッリとともにプラダ財団の前身である「ミラノ・プラダ・アルテ」を設立した。そこは増え続けるアート・コレクションの収蔵場所になっただけでなく、ミウッチャの革命的なスピリットと、これまで形成してきた資産を注ぎ込む対象にもなった。「プラダ財団のスタッフにはいつも、私に感謝するようにって言っているんです。美術館を運営するためには、高価なバッグをとにかくたくさん売らなければならないので」(ミウッチャの友人であるイギリス人現代美術家ダミアン・ハーストは、彼女のこんな言葉を覚えている。「ハンドバッグはアートじゃないのに、いろんな人たちがアートだと言って聞かない。バッグは売るための商品だというのに」)。

 ミウッチャは財団設立当時から、展覧会やイベントに関する業務やプロセスを抜かりなく管理し、プログラムの細部にまで目を光らせている。マンハッタンにあるロバート・ゴーバーのアトリエにも、わざわざ自ら顔を出して出品してもらえるよう交渉した。ゴーバーは、玄関先に現れたミウッチャが「何でも自分でやっているので、人を介さずに直接ご挨拶をしたくて」と言ったのを覚えている。また帰り際にゴーバーが何冊かの本と、持ち運ぶためのトートバッグを差し出すと、ミウッチャはバッグを一瞥して「本はこのまま手で持っていきますので」と言って立ち去ったという。1999年、オランダのロッテルダムにあるコールハースのスタジオに、ミウッチャとベルテッリはアポも取らずに立ち寄った。「ふたりはそれまでのブティックのスタイルに飽きていたようで、NY旗艦店のプロジェクトを監督してほしいと頼まれました」。コールハースが回想する。「でもアートと、より広義のカルチャーの分野で仕事をしている友人たちは、ファッションブランドであるプラダとのコラボレーションが望ましいものなのかどうか、かなり懐疑的でした」。その数年後、グッゲンハイム
美術館のソーホー別館跡地にコールハースがデザインした、波打つような形の木の床や電動の吊り下げ式ディスプレイケージが印象的なエピセンター(註:プラダの世界観と前衛建築や文化活動などを融合した特別な旗艦店)がオープンした。2008年にプラダ財団の設計を担当したのも、コールハースが率いる建築事務所OMAである。

 30年間たゆまぬ努力を重ね、アート界で確固たる地位を築き上げたミウッチャは、プラダ財団のディレクターに就任する決意をした。「私の本業はプラダ財団の仕事ということになります。ファッションとプラダ財団を切り離して考えていきたいと思ってもいます。これはまだ誰にも打ち明けていないことなのですが」。ミウッチャが次の言葉を探している間、私は映画監督ウェス・アンダーソンから届いたメールを思い出した(複数の映画やアートプロジェクトでミウッチャとコラボレートしてきたアンダーソンは、プラダ財団併設の50年代スタイルのカフェ「バー・ルーチェ」のデザインも担当した)。「ミウッチャに会えばすぐ彼女の繊細さに気づくはずです。普通あれだけの権威をもつと、デリケートさを失ってしまう人が多いのですが。逆に言えば、彼女にそういう繊細な部分があるからこそ、僕らは通じ合えるのでしょう。彼女は大胆不敵に見えるけれど、本当はそうでは
ない気がします」。ミウッチャが再び口を開いた。「年を重ねたせいかもしれませんが、自分のこれまでの人生に折り合いをつけたくて。胸を張ってプラダ財団を率いていると言いたいのです」
 ダミアン・ハーストはこう語る。「ミウッチャは真の芸術のパトロンだ。彼女は心から純粋に、アートが人々のためになるものだと信じている。それに『今に美術館を建てるから』とうそぶくだけのコレクターたちと違って、彼女は実際に美術館を建ててみせた」。ある晩、ふたりでディナーに行く機会があり、ハースト(労働階級の出身だ)がキャビアを注文すると、ミウッチャが「これを食べるのにはどうも抵抗があって」とため息をもらしたという。ハーストが理由を尋ねると「コミュニストだったから」という答えが返ってきたそうだ。

 3 年前から、ミウッチャはひとりですべての仕事を抱え込む必要がなくなった。新型コロナウイルスの感染が拡大し、イタリアでロックダウンが始まろうとしていた2020年2 月、プラダ・グループはベルギー人デザイナーのラフ・シモンズが「プラダ」の共同クリエイティブ・ディレクターに就任することを発表した。ミウッチャも「今後は私たちふたりでプラダのウィメンズとメンズを手がけていきます」とコメントした(ちなみにミュウミュウは今も彼女ひとりで指揮している。「幸い、ミュウミュウとプラダのアトリエは違うフロアにあるので、いる場所によってマインドも切り替えるようにしています」とミウッチャ)。この発表の翌日、シモンズは当時彼が暮らしていたアントワープに戻った。そのため彼が6月に再びミラノに戻るまで、ふたりは画面越しにコミュニケーションをとるよりほかなかった。
 この野心的な共作は始まりからして容易でなかったが、ふたりにはそれぞれ成功を切望する理由があった。ミウッチャはひとりで仕事をするのにうんざりしていただけでなく、自分の後継者について考える必要もあった。「会社の人たちは、私が引退したがっていると思われないように、後継者に関する話はしてほしくないようですが。もちろん引退するつもりなんて今は毛頭ありません」。シモンズ(55歳)はジル サンダー、ディオール、カルバン・クラインなどのビッグメゾンを統率してきたが、カルバン・クラインで"狂乱" の2年間を過ごしたあと、二度と他人のブランドの舵取り役はしないと心に誓っていた(ちなみにシモンズがプラダ関連の仕事をするのはこれが初めてではない。彼がジル サンダーに着任した2005年当時、同ブランドはまだプラダ・グループの傘下にあったからだ。シモンズはミウッチャやベルテッリとも交流があったが、プラダ・グループは1 年後の2006年に同ブランドを売却してしまう。だがシモンズ自身は2012年までジル サンダーで活躍した)。「僕はバカじゃないから」。現在はミラノに活動の拠点を置くラフ・シモンズがそう切り出した。カルバン・クラインを辞任後、ベルテッリから会って話したいと連絡を受けたとき、その内容がシューズブランド「チャーチ」のことでないのはすぐにわかったという。ベルテッリに会ったとき「ミウッチャも私も年を重ねたという現実を受け入れるべきときがきた」という感じのことを言われたそうだ(今年1 月、ミウッチャとベルテッリはプラダ・グループの共同CEOを退任した。後任にはアイウェアのコングロマリット「ルックスオティカ」の元CEOアンドレア・グエラが就いたが、いずれは夫妻の息子であるロレンツォがその後継者となる予定だ)。ミウッチャは当初、カルト的な人気を誇るメンズのシグネチャーブランドをそれまで24年間率いてきたシモンズが、プラダ・メンズのディレクションなどに興味をもつのだろうかと案じていた(シモンズはその後自身のブランドを閉鎖している)。シモンズにオファーをした日のことを彼女はまだ覚えている。「ラフは一瞬考えたあと『私たちふたりで取り組むのはどうですか』と言ってくれたのです。もちろん即座に同意しました」

 実際にふたりで仕事を始めてみると、互いの性格が正反対であることがわかった。〈抑制の美学〉を表現するのが得意なシモンズは、きちんと期限を守るタイプだ。かたやミウッチャは「明日ランウェイで見せる服を今日デザインするのが好き」だとシモンズは言う。だがふたりは共通して、型にはまった保守的なファッションを嫌う。マーク・ジェイコブスはこう評している。「プラダがラフを選んだと知ったとき『え、まさか』とは思わなかった。僕が選ぶ立場にいたとしたら、やはりラフを起用しただろうから」
 これまで何年もずっと、ひとりであらゆる決断を下してきたミウッチャ。今、彼女はクロアチア出身の映画監督アントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチが手がけるミュウミュウのショートフィルムシリーズ『Women’s Tales』(女性たちの物語)の最新作と、プラダ財団で次に開催するふたつのアート展のことを考えている。だが次のウィメンズ・コレクションについては、シモンズとふたりで取り組めるので少しだけ気が楽だ。今年6月に行われたメンズ・コレクションの翌朝、オフィスでショーの記事(よいレビューだ)に目を通していたミウッチャがぼやいた。「つねに考えることだらけで頭がパンクしそう」。最近、ミウッチャとシモンズは─少なくとも当面の間─コレクションの下敷きとなるアイデアソースや人物像を明かすのはやめることにした。「物語を語るのはもうやめようと思って。この気持ちがいつまで続くかわからないけれど」

 遠い未来、ミウッチャの物語はどんなふうに綴られ、語り継がれることになるのだろう。彼女は「無益なことをして人生を棒に振った」とだけは書かれたくないと言う。今の目標は1968年の頃と変わらず、世の役に立つ、意義のあることをすること。「本心を言えば政治的なことがしたい」。帰り際ミウッチャに「もしデザイナーにならなかったら、どんな人生を送っていたかと想像したことはありますか」と尋ねた。すかさず彼女が「ずっと考えていますよ」と言った。だが、エレベーターのドアが閉まりかかるとやさしく微笑んで、言い直した。「そんなことは想像したこともありません、ただの一度も」

画像: 2014年春夏コレクションより、ラインストーン、スパンコール、刺しゅうをあしらったジャージドレス、ビスコースのソックス。2023-’24年秋冬コレクションより、靴¥151,800(予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)

2014年春夏コレクションより、ラインストーン、スパンコール、刺しゅうをあしらったジャージドレス、ビスコースのソックス。2023-’24年秋冬コレクションより、靴¥151,800(予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)

Models: Elio Berenett at Next Management,Saunders at Oui Management, Awar Odhiang at Ford Models, Jonas Glöer at Lumien Creative, Chloe Nguyen at Select Model Management Paris, Estrella Gomez at IMG Models and America Gonzalez at Supreme. Hair by Cim Mahony at LGA. Makeup by Marie Duhart at Bryant Artists. Set design by Rafael Medeiros. Casting by DM Casting

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