BY MIKA KITAMURA, PHOTOGRAPHS BY MASAHIKO TAKEDA
秋から冬にかけては、いちじくや洋梨。りんごもいい。パティシエの長江桂子さんが焼く“ケーク”には旬のフルーツがのることが多い。ケークはよく焼き込まれ、きめ細かな生地はしっとり。焦がしバターと果物の甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
パリを拠点として、菓子ブランドや店舗の立ち上げ、商品開発、技術指導、監修などで世界を股にかけて活躍している長江さん。「ラデュレ」での経験を経て、ミッシェル・トロワグロ、ピエール・ガニェールら、錚々(そうそう)たる三ツ星シェフのもとで、シェフパティシエを務めた。
物心つく頃、家族と銀座「ロオジエ」の重厚な空間で食べた濃厚なチョコレートケーキにときめいた。小学高学年の頃、両親と訪れたビストロで「ウフ・ア・ラ・ネージュ」に衝撃を受ける。「ふわふわの食感とおいしさに、子ども心にわっ、楽しい!」と。シェフから「家庭でも作れるデザートです」と聞き、父の本棚で辻静雄のレシピ本を見つけて、1週間作り続けた。
学生時代は弁護士を目指したが、ソルボンヌ大学へ留学中に出合ったフランス菓子の世界に引き寄せられた。研修生として入ったのが、当時、脚光を浴びていた「ラデュレ」だ。「ピエール・エルメが改革した直後だったので活気があり、先輩や同僚に触発されました。たとえば、クロワッサン生地を一定時間内に何個パーフェクトに巻けるか、自分の中で競っていました。こういう繰り返し作業でさえ、工夫次第でルーティンが単なるルーティンではなくなります。ルーティンがあるからこそ、自分の成長を確認できるんです」
シェフパティシエを務めた三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のコースの締めは、5皿ものデザートだ。ある日、来店したお客さまの中に糖尿病の方がいることがわかった。その方には“フルーツの盛り合わせ1皿で”ということになった。長江さんはそれに納得がいかず、3時間奮闘して砂糖を使わないデザート5皿を作り上げた。何十人ものお客さまの用意をする合間に、5皿も予定外のものを作るのは並大抵のことではない。「フレンチのコースはデザートで完結します。その方にも一緒に味わっていただきたいという一心でした」。このゲストは食後、厨房に立ち寄って、長江さんにお礼を述べたという。「とてもうれしかった。お菓子はプラスアルファのお楽しみ部分だからこそ、お客さまにとって忘れられないワンシーンをつくりたいんです」
パティシエといっても、パティスリーでの役割とレストランでのそれは異なる。パティスリーでは持続性、レストランでは瞬発力が大切なのだと長江さんは言う。パティスリーでは、持ち帰ってからもおいしく食べられる工夫を凝らす。レストランでは、日々の食材の状態や気候の変化によって、材料や調理法を変えていく。「ガニェール」時代は、その場で突然、料理の内容が変わることも多かった。デザートも同様だ。長江さんは変更をその夜のうちにレシピに打ち込み、すぐに全スタッフが共有できるようにした。長江さんが不在のときでも、スタッフが完璧に作れるように。「ガニェール」を辞めるとき、残された長江レシピは5,000を超えていた。
「レシピを文書化しないシェフも多いのですが、私はレストランでは丁寧なレシピが必要と考えています。9月のりんごと12月のそれは違う。季節や個体差でも異なるし、仕込み量が異なれば、砂糖の量も火入れ状況も変わります。サブレ一枚にしても、厚さが1㎜違ったら仕上がりに差が出ます。どの厚さにするか、すべて焼いてみて決めています。なぜこの分量なのか、なぜこの作業をするのか。それを言葉で説明することは大切です。チームで共有できれば、作業がスムースになります」
パリで仕事をして25年がたつ。最近は日本での活動も視野に入れるようになった。まずはアトリエを設け、食材を研究したいと言う。「レストランでの仕事が多かったので、料理人と同じ感覚でデザートを作ってきました。旬の食材はデザートでもとても大切です。きちんと育てている生産者さんとのご縁を深めたいと思っています」
上の焼き菓子は長江さんが友人に会う前などにさっと焼いて手土産にしたりするケーク。季節のフルーツが素晴らしい脇役となっている。時間があればマルシェへ出向き、熟して甘くなっている洋梨やいちじく、フレッシュなハーブを探したり、甘さが足りないものはキャラメリゼにしたり。それを生地にのせて焼き上げる。「家庭で作るお菓子のレシピの基本は、誰でも手に入れられる材料を使うこと、プロセスもシンプルであること。ケークは、加えるフルーツによって季節を感じてもらえるし、型次第で長方形にも丸い形にも焼き上げられる自在さがいいですね。贈り物やお祝いにも喜んでいただけます」
長江さんには、胸に刻んだ言葉があるという。ミッシェル・トロワグロのロアンヌのお店へ仕事で訪れたときのこと。スーシェフのリオネル・ベカ(現「エスキス」シェフ)がスタッフの賄まかないを作っていた。レストランでの賄いは通常、若手が作る。驚いてシェフのミッシェルに尋ねたところ、「日頃、料理人は見知らぬお客さまに料理を作っている。体調や好みをよく知る家族や身近な人たちのために、心を込めて料理ができなければ、お客さまを感動させるお皿は作れない、というのが父のシェフ・ピエールの持論だったんだよ。だから、うちでは、上の立場の料理人がスタッフの体調などに心配りして賄いを作るんだ」と話してくれた。「ビジネスとして料理をするのではなく、相手を思いやる気遣いを忘れないように。いつもこの言葉を胸に、デザートを作っています」
長江桂子(ながえ・けいこ)
弁護士を志し、学習院大学で法律を学ぶ。1997年フランス・ソルボンヌ大学に留学。1998年ル・コルドン・ブルーでディプロマを取得。「ラデュレ」を経て、ロンドン「スケッチ」のオープニングスタッフに。2003年ヤニック・アレノ率いる「オテル・ル・ムーリス」、2004年「オテル・ランカスター」シェフパティシエ、2008年パリ「ピエール・ガニェール」シェフパティシエを歴任。2012年ガストロノミー界のコンサルティング会社「AROME」をフランスで設立。