アーティスト、エルズワース・ケリーの死から2年。構想に30年以上をかけた記念碑的インスタレーションがテキサスに完成した

BY M. H. MILLER, PHOTOGRAPHS BY VICTORIA SAMBUNARIS, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICE

 作品を見るため11月末にテキサスを訪ねたとき、《オースティン》はいかなる意味においても正式なチャペルではない、とさまざまな人に警告された。実際、ケリーはカトリックの大学に作品を建てるオファーを断ったことがある。ケリーの32年来のパートナーだったジャック・シアーによれば、それは建物を清め、神に捧げるよう要請されたからだという。シアーは、「ケリーは“無信仰者”で“超越論的アナーキスト”だった」と語る。

画像: 石灰岩に覆われた建物の外観

石灰岩に覆われた建物の外観

「誰が何と言おうと、この建物はチャペルと呼ばれることになるでしょう」とシアー。「しかしこれは、創造性に捧げられたチャペルです。僕はそう考えています。これは“非宗教的な”チャペルなのだと」。彼は、ケリーの作品を《ロスコ・チャペル》と比較して語った。《オースティン》が《ロスコ・チャペル》に類したものとして語られるのは避けがたいことだろう。建築家フィリップ・ジョンソンが中心となって設計されたレンガ造りの八角形の建築物《ロスコ・チャペル》は、テキサス州ヒューストンに建てられた。その中には、完成の1年前に自殺した抽象主義の画家マーク・ロスコによる14点の陰鬱な絵画が展示されている。1971年以来、このチャペルはすべての宗教に開かれた祈りと瞑想の場であり、訪れる人々は、世界のほとんどの主要な宗教の経典をここで読むことができる。

《オースティン》のルーツは、20代の頃にヨーロッパ各地を巡ったケリーの旅路にたどることができる。ケリーは第二次世界大戦中、おとり作戦でドイツ軍を攪乱するためにアメリカ陸軍が編成した特殊部隊、ゴースト・アーミーの一員としてヨーロッパに渡った。終戦後に帰国したケリーは、1948年から1954年までフランスで暮らした。この時期に、彼は尊敬する彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシを訪ねたり、現代美術家のアレクサンダー・カルダー(彼はケリーに家賃を貸したことがある)やコンテンポラリーダンサーのマース・カニングハム、音楽家ジョン・ケージ(彼は一時期、パリでケリーと同じ建物に住んでいた)らと親交を結んだ。彫刻から余分な要素を取り除き、シンプルな幾何学的フォルムを抽出したブランクーシの作品は、ケリーの後年の作品の手本となった。

ケリーはまた、純粋なフォルムと色に重点を置くアートのコンセプトをここで発展させていったが、この時期の作品は、当時彼が見ていた中世建築にも大きな影響を受けている。1949年に描かれた初期の一枚の絵は――ピカソを模倣したキュービスム画家の肖像画のようにも見えるが――中世のロマネスク建築、特にノートルダム・ラ・グランド教会で知られる、フランスのポワチエという村の名前が題につけられている。ケリーはこの教会のファサードの一部をモチーフにして、肖像画の頭の部分を描いた。

画像: 建物の奥、一般的な教会であれば十字架のあるべき場所に置かれた、高さ約5.5メートルのケリーのトーテムポール風彫刻

建物の奥、一般的な教会であれば十字架のあるべき場所に置かれた、高さ約5.5メートルのケリーのトーテムポール風彫刻

 ケリーが影響を受けたものの多くはフランスに滞在した時代にたどることができるが、彼はあくまでニューヨークのアーティストだった。ニューヨーク市内から1時間ほどの郊外で育ったケリーは、ビジョンを完全に形成したアーティストとしてヨーロッパからニューヨークへと戻ってきた。そこで彼は、抽象表現主義の最後を見届け、ポップアートの登場を目撃することになった(ケリーは双方の流派を参考にしたが、どちらにも属さなかった)。1970年から死を迎えるまでニューヨーク州北部で暮らし、自然光が利用できるよう天窓をとりつけたスタジオで仕事をした。こんなふうにニューヨークとその周辺で人生を送ったケリーが、なぜ最も重要な作品を、とくにゆかりもない町に設置しようと決めたのだろうか?

 理由のひとつは、テキサスという場所そのものだ。ここには、ケリーの世代のアーティストを魅了する何かがある。ブラントン美術館館長のウィチャは、それは「光」だという。テキサスではあらゆるものが強烈であり、光もまた、ほかの場所よりも少し強い。「ここで見る大空や巨大な雲は、よそとは違うんです」とウィチャは語る。ドナルド・ジャッドがテキサスに惹きつけられたのは、ニューヨークの美術界のうわべだけのおしゃべりに飽き飽きしたためでもあるという。彼はその憂さを晴らすためにテキサス州マーファの郊外に土地を買い続け、その面積はやがてマンハッタンの3倍近くにまでなった。マーク・ロスコもまた、ニューヨークで名声が高まるほどに孤独感を募らせていた。テキサスにあるチャペルは、彼の避難所のようなものだったのかもしれない。

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