BY T JAPAN
坂本龍一が語る、自身が作りたい音楽について
坂本龍一という名前の隣に、音楽家、という3文字の肩書がついているのを見るにつけ、何かうまく表現できない、ちょっとした違和感を感じてきた。確かに音楽を作る人である。けれど坂本(以下敬称略)がスタジオで録音したり、ライブ演奏をしている以外の時間の活動が、肩書に入らないことにはなんとなく釈然としなかったからだ。けれど仕方がない。肩書とは、きっと最大公約数の人々がもつその人物への認識を表現するものなのだろうから。
2014年7月にがんを患ったことを発表し、1年間の闘病生活を経て仕事に復帰した坂本に、最後に話を聞いたのは、自分の音楽レーベル〈commmons〉の10周年を記念して開催したイベント〈健康音楽〉の前後だった。病気をしたことで、「自分に残された時間」について考えるようになったという坂本は、「40年の活動期間で作れていない『人生の宿題』になっているような、音楽がある。これぞ坂本だというような作品を作りたい」と次作への意欲を示していた。そしてこれからは、なるべく音楽に集中する、とも言った。
原発などをめぐるエネルギー問題、環境問題や政治、時事に関するポストのみならず、人類学、歴史、文化、音楽、ダンスなどの幅広いトピックスについてのソーシャル・メディアのポストを楽しみにしてはいたけれど、一方で、どこにそんな時間があるのだろう?と不思議だったので納得もした。実際、坂本のオンラインの発言は〈健康音楽〉のあとから激減した。
この9月、マンハッタンの音楽スタジオで話をしてくれた坂本は、数カ月前に語ったことを繰り返した。「今年の残る時間は、アルバムの完成目指して、集中してやりたい。計画しているとおり来年の春に発売できたとして、8年ぶりのアルバムになります。ということは10年に1枚くらいのペースになってしまってる。それじゃダメなんですよ」
ダメなんですか?とついオウム返しをしてしまったのは、その8年間がただ漫然と過ごされたものでないことは周知の事実だからだ。前作『アウト・オブ・ノイズ』を2009年に発表してから、ライブ活動はもちろんのこと、ライブアルバムは複数枚出しているし、数えきれないほどの楽曲を他者に提供してきた。闘病からの復帰後だけでも山田洋次監督の『母と暮せば』(’15)、多数の音楽賞にノミネートされた『レヴェナント:蘇えりし者』、この9月中旬に公開された李相日監督の『怒り』と3作の映画音楽を手がけた。中沢新一、竹村真一、鈴木邦男といった人たちとの対話を書籍という形にし、2013年の山口情報芸術センターの10周年記念祭、2014年札幌国際芸術祭ではともにディレクターを務め、〈more trees〉やその他の活動を通じての環境運動にも積極的に参加し、東北地方の子どもたちが参加する〈東北ユースオーケストラ〉(http://tohoku-youth-orchestra.org/)で指揮を執っているのである。「音楽家」ということであれば8年に1枚という頻度は「ダメ」ということになるかもしれない。でも!と思った裏には自分勝手な私情があった。アルバムを制作するために、オンラインでの発信を減らす坂本に対し「もっと発信してほしい」という自分勝手な欲求もあったかもしれない。ネットのとげとげしい雰囲気に、意見を表明することに加速度的に腰がひけてきている自分をふがいなく感じながら、ことあるごとに「音楽家のくせに」と理不尽な批判にあっても、一市民として、不正義と感じることには恐れずに異議を表明する坂本のポストに、溜飲を下げていたのかもしれない。自分にとっての坂本龍一という人は「音楽家」にとどまらない発信者だったのだ。
「マスクして、怪しい感じで、人の波と反対に歩きながらね。行き交う人の会話や足音が通りすぎていく感じがおもしろいんです。こういうことは現代音楽の分野には昔からあって、もちろん知識としては知っていたけれど、なまの欲望としておもしろいと思うようになった」
環境問題に強い関心をもち、また社会のあり方について発言を続けてきた坂本が、氷河の音や雑踏の音を作品に取り入れるようになったことには、つい因果関係を見いだしたくなる。それを追求すると「自分でもよくわからない」という答えが返ってきた。きっかけは2000年頃に始まったドイツ人アーティスト、アルヴァ・ノトとのコラボレーションだった。「僕が録ったピアノの音という素材を、彼が料理するという作業のなかで、ピアノという楽器の音と、そうではない現実音の差がなくなってきた。僕らが音楽の世界で使うS/N(サウンドvs.ノイズ)という言葉があるように、サウンドとノイズは本来なら二項対立なんです。でも僕のなかでだんだん区別がなくなってきた。それどころかもっと原初的なノイズに寄りたいという気持ちが強くなってきてしまったんですよね」
話を聞き進めるうちに、サウンドを発する道具として人間が考案した調律に合わせて作られた楽器よりも「音楽に加工される以前の音」に興味と関心が移ってきた理由が少し見えてきた。「楽器は西洋音楽をより明確に表すために、合理的にデザインされて今の形に進化したわけですが、もともとは木や鉄、動物の革だったりした。たとえばピアノは最も近代的に設計された楽器ですが、木と金属でできていて、放っておくと調律が狂ってくる。調律というものは、人間が勝手に決めた、人間にとってのいい音を出す作業ですよね。物は強制的に引っ張られる状態を嫌って、原初的な状態に戻ろうとするわけです。チェロやヴァイオリンの弦が切れたりするのは、物が元の状態に戻ろうとするあらわれなんです」
その他の活動をトーンダウンして作っている新作は、『アウト・オブ・ノイズ』の延長線上にある、と坂本は語る。「前作ではたとえば北極圏まで出かけていって、グリーンランドの氷河の音を録ったりもしました。体験自体も新鮮でしたけど、録った音もとてもおもしろかった。以来、ますます既存の音楽のかたちから遠ざかりたい、物が発する音をもっと楽しみたい、という方向になってきている。だからドラを買って傷つけて音を出してみたり、通勤時間帯の新宿駅の南口に行って、雑踏の音を録ったりしている。その後、坂本は「強く意識しているわけではないし、新しい文明論を語りたいわけではないんだけど」と前置きしたうえで、津波が起きたあとの宮城県で弾いたピアノの話を教えてくれた。「海水に浸かってボロボロなんです。出ない音もあるし、調子はずれだし、でも僕は自然が調律したんだと思った。人間が無理やり調律した音階を自然が壊して自然の調律に戻したと。いい音だ、とても貴重だと思ったんです。意図的にはできないわけですから」
抽象的でもあり、プリミティブ(原始的)でもある、人間が楽器を使って作り出せない音。新作で追求しているのはそれだ。けれどアウトプットのかたちにはまだ悩んでいる。「けれど僕がいいと思って録音した新宿駅の雑踏の音の、どこからどこまでが坂本の作品なんだという問題が出てくる。どう音楽として楽しんでもらえるかたちに落とし込むか、そのさじ加減に頭を使っているところです。自然の中を自分が歩くなかで録る音は、自分にとってはいい感じですが、音楽なの?という人もいるだろうし、ただ音を楽しめるなら音楽と言えるのかもしれないし……」
坂本はここで言葉を切った。「音楽であるかどうかは、もうどうでもいいことなのかもしれない」
この言葉に、以前からずっと気になっていて、今日は聞こうと思っていた質問をぶつけた。「そもそもなんで音楽だったんですか?」と。父親は編集者で、母親は帽子デザイナーだった。社会科学から人類学、科学にまで広がる坂本の広い見識から、ほかにも選ぶことができたであろう多数の表現方法のなかから、音楽を選びとった理由を知りたかった。「その答えははっきりあって、交通事故のようにYMOが売れちゃったからです。そんなつもりなくYMOに参加したのに、急に有名になっちゃって、自分としてもミュージシャンだと認めざるをえないってことになったんです。それまでは、何にもなりたくないというか、職業を限定されるのが嫌だと思っていた。小学校の低学年の頃から、なりたい職業を聞かれると『ない』って答えてました。何かに所属するのが嫌だったんでしょうね」
何ものにもなりたくなかった坂本は、交通事故のようなきっかけを経て、27歳で「音楽家」になり、海外に頻繁に出るようになった。そして1990年にニューヨークに拠点を移し、以来、ライブや録音のために頻繁に日本との往復を続けてきたとはいえ、20年以上の月日をおもにこの街で暮らしてきた。若い頃は、否定しがちだった日本の古典的な文化に対する態度もシフトしてきた。「僕らの世代にとっては、日本の文化は戦前のナショナリズムの象徴だった。学生時代は尺八や琵琶を採り入れた武満徹さんに反発して、ビラを書いたりもしましたから(笑)。最近は海外に住んでいるからなのか年のせいなのか、古典芸能や工芸といった日本独自の文化にもだんだん関心が強くなってきて……。まったく縁がなかった能や雅楽も聴くようになってきました。能の世界にいる人たちと知り合って、となると恥ずかしいから勉強もするし、おもしろいから興味が尽きない。今年は、奈良県にある能の発祥の地を訪ねたんですが、能ができた過程をたどっていくと、縄文文化、つまり僕らの根源的なルーツまでたどれてしまうし、浄瑠璃や歌舞伎との関係性もわかってきて、長い日本の音楽の歴史が少し見渡せるようになってくるんですね」
興味のシフトといえば、学生時代から好きで、唯一全集を持っている夏目漱石を、今また読み返している。「学生時代は『こころ』『明暗』と暗くて深いものが好きだったけれど、おもしろいと思えるところが今は全然違う。『草枕』なんてそのいい例で、何も起きないし、ドラマも何もない。峠のほうに旅にいって、宿屋に泊まったって話で、一枚の山水画のようで、でもそれがいい」
今年いっぱいで残された時間は新作に費やす、と言いながら、長期的なプロジェクトもいくつか抱えている。そのひとつが〈フォレスト・シンフォニー〉だ。木の生体電位を測定し、そのデータをもとに音を作るというプロジェクトで、2013年の山口情報芸術センターの10周年記念祭、札幌国際芸術祭でも行なった。「スポンサーがいなくて実現していないんですが、建築家の坂茂(ばん
しげる)さんとも計画中のプロジェクトがある。そのほかにもやりたいインスタレーションが山ほどあるけれど、自分ひとりでは実現しないし、とにかく時間が足りない」
もうひとつやり続けているのが震災後に始まった〈東北ユースオーケストラ〉だ。「もう意地みたいなもんですよね。社会がどんどん忘れているみたいじゃないですか、震災があったということを。5年以上たっていまだに仮設に住んでいる人がいる。原発の付近には故郷に帰れない人が何万人もいて、その一方でオリンピックとか言ってる。僕には信じられない。けれどネガティブに批判するんじゃなくて、ポジティブなかたちでこたえたいと思っています」
日本は育った故郷でもあり、活動の場でもある。同時にアウトサイダーとしての視点でも見ている。「戦後70年以上がたってもいまだにアイデンティティを保持していないように思えるし、戦前と変わっていない面と両方ある。特にね、自己主張をしない、声をあげない、上に逆らわないという国民性は気になる。国民主権ということは、主人は国民ひとりひとりなんだよと、これを自覚できないと民主主義が根づいたことにはならないよね」
こういう話をしながら、やっぱり坂本の音楽家という肩書に感じる違和感をまた思い出した。「音楽活動っていうよりも、人間活動っていうほうが、坂本さんにはしっくりきませんか?」と。「そうかもしれないね。音楽家だけど、余計な口を出してしまうから。音楽家は音楽だけやっていろ、とインターネットで言われているらしいということも知っています。これは言わないと、というときだけ選んでいるつもりですけれど、発言するから偉いとも思ってません。でも音楽だけやればいいとも思わない。普通の人が口出すのが民主主義でしょ。職業に関係なく誰もが声を出せる社会じゃないとダメだと思うんです」
BY YUMIKO SAKUMA, PHOTOGRAPHS BY LISA KATO
OCTOBER 31, 2016
坂本龍一、本の可能性を語る「本はパフォーマンスかもしれない」
本はかつて本だった。本といえば、それは紙の束を片側でバインドした、そのハードウェアの形式であり、同時にその形式のなかに格納された情報体を指していた。中身とそれを格納する器は不可分のものだった。ところが、デジタルデバイスの登場によって、不可分だったはずのものを分離することが可能となった。中身は「コンテンツ」という名のものに置き替わり、紙の束は「フィジカルの本」と呼ばれる、選択可能な「オプション」となった。今「本」と言ったとき、それがいったい何を指しているのかは、実に曖昧だ。コンテンツとしての本の話なのか、ハードウェアとしての本の話なのか。そもそも「本」とはいったい何を指していたのか。そうした混乱のなか、いまだに延々と繰り返されてきたのが「紙の本のよさ」をどう擁護しうるのか、という議論だ。
「手ざわりが大事」「デザイン性が大事」「デバイスに依存しないので保存性がより高い」「透過光より反射光で読んだほうが頭に入る」など、「本のよさ」についての論拠は、さまざまな方面、角度から提出されてきた。どれもそのとおりだなとは思いつつ、いくらそうやって「紙のよさ」を説いたところで、少なくとも新聞や雑誌はデジタル空間に飲み込まれていくのは確実な趨勢(すうせい)なようで、それに歯止めをかけるには、悲しいかな無力にも見える。とはいえ、その一方でフィジカルのプロダクトには、それ自体が放つインパクトがあるのはたしかだ。フィジカル空間の中に投げ出された情報は、デジタル空間の中に投げ出された情報とはまったく異なる伝播性がある。
MITメディアラボ所長の伊藤穰一(じょういち)さんがフィジカルな単行本を出版された際に、いじわる半分で、「なんでフィジカルで本を出すんですか?」と聞いてみたことがある。「出してみてわかったんですが、フィジカルの本には、デジタルにはないイベント性があるんですよね」というのが、その答えだった。それは経験的にも身に覚えがある。デジタル空間の中に投入したものはいくらかの反響は生むにせよ、ただひたすら虚空に吸い込まれていくような感覚を覚えさせる。一方で、フィジカルなプロダクトは、その反響が空気を揺らしながら伝わってくるような気配がある。世界がちょっと揺らめく。気のせいだろ、と言われればそうかもしれない。数字で出せるような根拠があるわけでもない。けれども、フィジカルなものは、フィジカルな空間において、間違いなく、それぞれが特有の振る舞いをする。そして本は、それが単なるハードウェアではないこと、そのコンテンツと不可分の統一体であることによって、ほかのプロダクトとは違った、奇妙な振る舞いをするようにたしかに思える。
「本はパフォーマンスかもしれない」。そう言ったのは音楽家の坂本龍一さんだ。坂本さんに「本の話」をお伺いするという、この取材の中で、80年代に自身が主宰していた出版社について言及されたときのことだった。「本本堂という出版社をやっていたんです。はじめたのが1984年のことで、その年は、ナムジュン・パイクやヨーゼフ・ボイス、ローリー・アンダーソンなんかが日本にやってきて、いわば『メディアパフォーマンス』元年と言ってもいい年でした。そうしたなか自分も何かやりたいなと思ったときに、父親が編集者だったこともあって最もなじみの深いメディアとして本というものがありましたので、それを使って実験的なことができないかと考えたんです」
最初に出版されたものは、ピアニストの高橋悠治(ゆうじ)さんと坂本さんのふたりの対話を収めた『長電話』というタイトルの対談本だった。「これは、ぼくと高橋さんとでわざわざ泊まりがけで石垣島に行って、同じ旅館の別々の部屋から長電話するという企画だったんです(笑)。いわば遊びなんですが、それはそれで一種のパフォーマンスの記録ではあります。また、本を出版すること自体をパフォーマンスにするという趣旨でやりはじめたことなので、同じ仕様の本をページに何も印刷しないでつくってみたり、本の表紙を渋谷のパルコの壁一面に貼るというようなこともやったんです。小さなパフォーマンスですね。出版はメディアパフォーマンスだということをやりたかったんです」
さらに同時期に、朝日出版社から本本堂の「未刊行図書」を目録化した『未刊行図書目録』という本も出版している。それは実現不可能な本のアイデアを集めたものだった。「高松次郎さんとか、井上嗣也(つぐや)さんといった方々に、実現不可能でもよいので本のアイデアを出してくださいとお願いしてつくったものだったんです。なかでもいちばん好きだったアイデアはページに菌が塗ってあって、時間がたつにしたがって菌がどんどん増殖してカビだらけになるというものだったんです。あとは、たとえば中上健次さんの小説を毎日更新していくという本というものもありまして、これは当時はインターネットもありませんでしたので実現できなかったんですが、今から見れば、LINE小説の先駆的アイデアと言えなくもないですよね」
「紙の本はやがて別のデバイスに取って代わられていく」ということが言われはじめたのは、奇しくもメディアミックスというものが喧伝されるようになった80年代だったと坂本さんは回想する。そうしたなか古いメディアであった「本」というものを新しいメディアとして再定義しようという目論見が、これらのアイデアの背後には走っている。
「アクセスしやすくて、どこからでも読めて、どこに飛ぶこともできるといった本の面白さを、デジタルメディアが出てきたことによって、より明確に捉えることができるようになったんですね。だから本というものを『メディアパフォーマンス』の対象として扱うことができると思ったし、今でもそう思っています」
坂本さんの最新プロジェクトとして「坂本図書」というアイデアが今、実現を間近に控えている。それは、坂本さんの蔵書を保存し一部の会員に向けて共有すべく設立される「図書空間」には違いない。けれども、ここまでの話の流れから考えると、ただの「図書空間」としてではなく、一種のメディアパフォーマンスとして理解すべきもののように思えてくる。それは、本と、それが置かれた空間を、ひとつの新しいメディアとして体験するためのインスタレーションと言っていいものなのかもしれない。それ自体が「本」を使ったパフォーマティブな空間なのだ。そして、そうした「空間」への興味は、坂本さんの現在の音楽活動とも分かちがたく結びついている。
「音楽にとって空間が重要なファクターだと自分が気づいたのは、2007年に《LIFE-f ii...》というインスタレーションをやったのが大きかったんです。それは天井に9つのスクリーンと水槽、それに付随したスピーカーを吊り下げ、見上げて体験するものだったんですが、同じひとつの音であっても、それを9つの位置の異なるスピーカーから出すと、まったく違って聴こえますし、二次元として聴いていたものが、空間というファクターを入れることによって無限に楽しめるものになることに気づいたんです。10人のリスナーがいたら、10通りの聴き方ができます。また、9個のスピーカーだけでもその使い方の組み合わせは天文学的な数字になりますから、たったひとつの素材でも、こんなに面白いことができるのかって思ったんです。文字どおり二次元を三次元にすることで、やれることが驚くほど広がるんです」
BY KEI WAKABAYASHI, PHOTOGRAPHS BY YUSUKE ABE
JULY 03, 2019
音楽家・坂本龍一が選んだコロナ時代の日常を生きる一冊
『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』福岡伸一 著
生命は機械のようなものではない
『動的平衡』という福岡伸一さんが提唱した考え方は、この15年ぐらい、いろいろな生命、自分たちの生き方を考える上で、基本になっているものです。常に考えているわけではありませんが、このような大きな疫病やテロ、災害が起こると、自分の生とは何か、この惑星に生きている生命とは何か、そういったことについて考える機会が訪れます。すると、この考えに立ち返る。僕にとって『動的平衡』はそういうものです。
『動的平衡』に書かれていますが、デカルト以来、数百年にわたり機械的な生命観が支配的でした。現代においては、ますますそうなっているとも言えます。目に見えないDNAまで商品化され、人間に限らずあらゆる生命のDNAの特許を申請する会社まである。その元となっているのは、デカルトの時代に生まれた機械的な生命観です。僕は子供の頃からその考えに反発を抱いていました。といっても戦後生まれですので、機械的生命観にもとづく栄養学的な考え―自分の中に入った食べ物は車のガソリンと同じエネルギーで、それを消費し、排泄する―に囚われてしまうことがある。しかし、今回のようなことが起きると、生命について改めて考えます。生命は機械のようなものではないことを、科学的に解き明かしてくれるのがこの本です。
私たちが、ここまで生命をパーツの集合体として捉え、パーツが交換可能な一種のコモディティ(所有可能な物品)であると考えるに至った背景には明確な出発点がある。それがルネ・デカルトだった。(福岡伸一『新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』より)
今、求められる新しい都市のグランドデザイン
コロナ禍のせい、というかおかげで、経済、産業、行政、医療、教育、暮らし方、食の供給、安全、すべてのことをもう一度捉え直す必要が生じました。しかも緊急にです。これを一過性のことにして、喉元過ぎたらまた元に戻ってしまうのは絶対に避けたいと僕は思う。
今、多くの人々が都市に住んでいます。地球全体がどんどん都市化していて、このままゆくとスターウォーズに出てくるような、惑星全部が都市のようになりかねない。しかし、コロナ禍により都市化にストップがかかり、もう一度考えるべきだと自然からの強制力が働いた。日本ではまだ、新しい都市のあり方を構想し、グランドデザインを進めてゆこうとする気運は感じられませんが、精神的なところではもう始まっていると思います。そうしないと同じことはまた繰り返しますから。今まで蝙蝠という種だけに寄生してきた特定のウィルスが、地球全体を瞬く間に覆ってしまった。これは、人間が進めてきた巨大な都市化、生態系の破壊が引き起こしたことです。根本を変えないと、同じようなことが数年ごとに起きる可能性も十分にあると僕は思います。
新しい暮らし方としてまず考えつくのは、都市に密集して住むのをやめ、分散化することです。郊外に住む人が増えるでしょうね。ニューヨークでもコロナ禍が始まった途端、郊外の物件情報ばかりが目立つようになりました。都市から逃げ出すお金のある人からどんどん外に逃げてゆくのでしょう。見えないかもしれませんが、日本もそうなのだと思います。都市にあるオフィスの規模も小さくなりつつあります。マンハッタンの巨大な高層ビルの中にはたくさんのオフィスが入っていますが、個人も、会社も再びオフィスに戻ってこようとは思っていないでしょう。密集して働けば危険が増します。第二波、三波が起こるコストを考えると、テレワークを続けた方がいい。都会で暮らす人が減るとすれば、飲食業やエンターテインメントは厳しくなります。でもそれも趨勢なので、それでも生き残ってゆく方策を考えなければなりません。
経済的に余裕があれば食糧と安全性の確保ができ、ネットを使えば情報の確保ができます。しかし、国レベルで踏み出さないと、なかなか一般の人々までは行き渡らない。これまで国は必要とは思えない巨大な公共投資をやってきましたけれど、これは非常に有効な、巨大な公共投資になりえるのではないでしょうか。様々な安全性を高めて都市を作り直す。僕は公共投資を進めたい派ではないですし、行政とか政治はわからないので勝手なことを言いますが、早急に考える価値はあると思います。
新しい感覚のもとで生まれた音楽
コロナ禍のもとで、僕たちは独特な時間の過ごし方を経験しました。新しい感覚を味わった人は世界中で多いと思う。世界中の動きが減速しました。マンハッタンの通りには人がおらず車も動いていない、JFK空港にも誰もいない。SF映画を見ているような光景です。人間活動が抑えられ、人間の発する音が非常に静かなので、鳥の声がとてもよく聞こえます。よく聞こえるだけでなくて、鳥が生き生きとしている。9.11、3.11は、原因は異なるけれど大きな力が働いて、身体だけでなく心も硬くしてそれに立ち向かう感じでした。しかし今回は、目に見えないし、どう対処すればよいかわからない。スローダウンして活動を抑えざるをえない。すると、身体が緩くなる。脳科学的に正しいかはわかりませんが、緊張状態の時は感覚が狭まるけれど、このような状況下では感覚が開いて、いろいろな音が聞こえてくる。日々そういったことを経験しながら、僕の中で9.11とも3.11の時とも異なる独自の感覚が生まれました。
僕は言葉の人ではないので言葉では表現できないのですけれど、それを詩人だったら詩にする、文筆家だったらエッセイを書くでしょう。それと同じように記録しておきたくて、「incomplete」のプロジェクトを始めました。一人で日記のようなものを書いてもいいのだけれど、世界のあちこちで状況は違っても同じ大きな変動の中に生きている、僕の信頼するミュージシャンたちの感じ方も聴いてみたかった。彼らに音を送ってもらい、僕も音を足して、という発想でやってみました。
これまで何度も考え、3.11の時も大きなテーマとして直面し、未だに答えはないですが、これは自然対人間の大きな対立から起きたことです。自然に即していない人間の生き方、文明、経済のあり方の問題です。僕自身も繰り返し発言してきましたし、警告を発した先達、具体的に変えようとした人はたくさんいましたが、良い方向には向かっていない。悪い方向に加速していることを改めて強く感じます。何とかしないと先がないような気持ちです。僕は気候変動、気候危機が及ぼす影響は、コロナ禍より遥かに大きいと思っている。コロナ禍でも食糧危機が一部で起きていますが、気候変動がもたらす危機はこれどころではないはずです。
コロナ禍は、人間が起こした気候危機の1エピソードでしかなくて、今後10エピソードぐらいがドカンと一気にやってきた時には、それがどんなものか僕の想像力を超えます。乗り越えるのは難しいのではないかと思います。ただ一つ言えることは、コロナ禍という1エピソードでここまで減速できた。経済のために減速なんかできないよと言っていた人たちもストップせざるをえなかった。やればできることが証明されたのです。
BY JUN ISHIDA
JUNE 19, 2020
時と人をつなぐ音、坂本龍一と東北ユースオーケストラ
まだ発表されていない、真新しい交響曲の楽譜が目の前にある。タイトルは「いま時間が傾いて」。作曲者は坂本龍一。本来なら、2020年3月下旬に東京と福島で開催する演奏会で初演の予定だった。
演奏するのは、岩手、宮城、福島の東北3県出身の小学4年生から大学生までの若き音楽家たち。坂本自身が音楽監督を務める「東北ユースオーケストラ」に向けて書かれた曲である。
2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた東北3県、そこで暮らす子どもたちで編成されたオーケストラ。’13年、坂本がミュージック・ディレクターを務めた国際的音楽祭『Lucerne Festival ARKNOVA 松島 2013』ではじめて演奏を披露し、’16年からは毎年3月に定期演奏会を東京と東北各地で開催している。もっとも若い団員は10歳で、最年長は大学4年生。これだけ年齢層の広い編成は、国内外を通じても稀有な例に違いない。
2019年12月、定期演奏会に向けての練習が行われる福島市のホールを訪ねた。目の当たりにすると、そのユニークさがよくわかる。普段着の子どもたちは、楽器を携えていなければ親戚の集いのようにくつろいで見える。あちこちで明るい談笑の声が弾け、その輪の中に、坂本も自然に溶け込んでいる。
「学校のオーケストラや、地域での演奏活動に加わっている子どもたちもたくさんいますが、彼らに言わせると、こんなに上下関係のない集まりは珍しいそうですよ。編成当初から小学生と大学生が“タメ口”を利いて、休み時間には一緒にごはんを食べていたりする。普段は子どもなりに大人や先輩に気を遣っている彼らが、ここに来ると自由闊達。とてもいいことだと思いますね」
午前中は、英国を拠点に活躍する作曲家・藤倉 大によるワークショップ。「昔の音を出してみよう」「新しい音を」「ブルーな音を」と課題を投げかけると、子どもたちがそれに応えて音を生み出す。闊達なやりとりは、音楽を楽しむ者同士のコミュニケーションそのもの。もともと被災した東北3県の学校への楽器再生支援から始まった東北ユースオーケストラだから、クリエーションに触れる機会を提供するのもひとつの側面であるのだろう。
昼食を挟んで午後になり、定期演奏会と、その前に行われる熊本での演奏会に向けた練習が始まった。定位置につく団員たち。坂本もピアノの前に座る。指揮者・栁澤寿男がタクトを振ると、「Merry Christmas Mr. Lawrence」がゆったりと流れ出した。
音楽ホールの客席ではなく、団員たちと同じ場に立って聴くのは、海流の中に足を浸しているような気分だ。清らかで、心地いい波動が足もとから体全体に伝わる。そして、ふと思い出す。演奏する彼らの故郷を、住まいや学び舎を、かつて冷たい流れが襲ったことを。「音楽は時間芸術。以前から時間についてよく考えている」と坂本。
震災当時はまだ幼かった団員たちにとっても、被災の記憶はいまだ鮮烈だ。宮城県気仙沼市出身で、小学3年生のときに被災したパーカッションの三浦瑞穂は、自宅の隣から海側すべての建物が、津波に流された。「知っている建物が泥水と一緒に流れていくのを見て、これは夢なんじゃないかと思って……。そのときのことを思い出すと、今でも手足に震えが出ます」
原発事故の被害で、生まれ育った自宅を離れた団員もいる。セカンドヴァイオリンを担当する高校2年の三浦千奈は、福島市から母方の実家のある熊本へ母子避難。4年間を過ごしたその場所も、’16年に地震にみまわれた。母の暁子は、それゆえ、この練習のあとに行われる熊本公演を楽しみにしていると語った。「最初の演奏会では『こんな立派なホールで、坂本監督や吉永小百合さん(女優・定期演奏会にたびたび詩の朗読で参加)と同じステージに立っているなんて!』と感動しました。今度も楽しんでくれればいいなと思います」
「Kizuna world」では、坂本がタクトを振り、指導を行った。震災をモチーフに坂本が書いたメロディに、団員たちひとりひとりと息を合わせ、命を吹き込んでいく作業が丁寧に続けられる。その様子を見守る東北ユースオーケストラ事務局の田中宏和は、「音楽でよかったなと皆が言いますね」と語った。
「団員はひとりひとりさまざまな体験をしていますが、それを言葉で述べるのではなく、音のもつ芸術性で知ってもらえたらいいと思いますね。3.11があった、そこから生まれたオーケストラなんだということだけを大事にしていけたらと。偶然の出来事から何を生み出すかが生きている面白さだと思うし、それを失うのは、自由を失うことと同じなので」
練習を終えた坂本に、手応えを問う。すると、「子どもならではの馬鹿力っていうのが、あるんですよね」と笑顔を見せた。「本番直前には毎回、合宿をするんですが、そのときには『これ、本番に止まっちゃうんじゃないか』と思うくらいヒヤヒヤする。それでも、本番になったらすごく立派に演奏するので、驚いたりホッとしたり……。ほとんど毎回、そうなんですよ」
通算5回目となる3月の定期演奏会には、スペシャルな企画が用意されていた。2016年の熊本地震、’17年の九州北部豪雨、’18年の西日本豪雨と北海道胆いぶり振東部地震で甚大な被害を受けた地域から合唱への参加を募り、ベートーヴェンの「第九」を東北ユースオーケストラとともに演奏。被災地を音でつなぐ試みだ。
「災害をきっかけに生まれたオーケストラとして、毎年のように起こる大きな災害の被災地の方々と、何かやれることはないだろうかと……。なぜ、今、第九なのか? その意味は、僕が言葉を費やさなくても、さらに幅広い年齢層の人たちと一緒に音楽をやって、浴びるように音を体験することで、きっと彼ら自身が感じ取ってくれると思います」
そして、もうひとつの企画は、坂本龍一作の新曲が初演されること。この日は耳にすることができなかったが、震災から9年の年にあらためて慰霊の祈りを込めて作曲される新曲は「ある種の風景を共有している、東北ユースオーケストラの子どもたちだから演奏できる音色になると思う」と語った。
「その音色が何色なのか……はっきりと見えるわけではないけれど、やっぱり、今のような季節の東北の冬の空の色、というか。少し曇った、グレーのとてもきれいな色調の空のようなものを、僕はイメージしていますが」
それから3カ月後、東京都心のホテルの一室で、再び坂本に会った。
年明けから世界をじわじわと侵食した新型コロナウイルスの被害は、2月、3月と時を経て日本国内に広がり、多くのコンサートやステージが公演中止を余儀なくされた。東北ユースオーケストラの定期演奏会も、東京、福島の両公演が中止。東京の空には、練習の日とは対照的な快晴が広がっていた。
「こうしてガラス窓で遮断されているけれど、昔の人は石を積み上げて城壁を築いて都市を形作ったわけですよね。それは、人間がコントロールできない自然や、他者に対する恐怖からくるもの。でも、どんなに守りを厚くしても、自然の力は圧倒的に強い。津波もそうだし、ウイルスも、平気で壁を飛び越えて、国や人種も関係なく人に襲いかかる」
新曲につけられた「いま時間が傾いて」という謎めいたタイトルは、ドイツの詩人・リルケの『時祷詩集』に収められた詩の一節から採ったという。時間が傾いて私に触れる、私の感覚が震える――詩に綴られた状況は、まさに今、日本で、世界中で、生きている誰もが感じていることのように思える。そしてきっと、あの震災の直後も。
「震災にしろ、今回のような感染症の蔓延にしろ、人間の歴史を見れば、常にそういうことが起こっていますよね。だからこのことは、3.11同様、自然というものを考えるひとつのきっかけになるんじゃないかと、僕は思っています。人間だけは違うんだという錯覚に陥っているかもしれませんが、自分も含めて誰もが自然の一部であるということを」
しかし、リルケの詩は、こんなふうに続く。私は感じる、私にはできると――。未曾有の大震災を乗り越え、志をもった大人たちと子どもたちが東北ユースオーケストラに集ったように、子どもたちもまた、この事態を受け、おのおのが確かに心を動かし始めている。
震災で福島と熊本というふたつのルーツをもった三浦千奈は、LINEグループのメッセージで演奏会の中止を知った。「ほかの被災地の方と一緒に演奏ができる機会だったので、残念です。でも、昨年の12月の熊本公演では、向こうのユースの方と一緒に演奏ができてうれしかった」。得られた縁は大切にしていきたい、と語った彼女は、進学する先に熊本の大学も考え始めているという。
パーカッションを担当していた高校3年生の塘 英純(つつみ えいじゅん)は、この春から東京藝術大学音楽学部作曲科へ進学する。坂本の後輩となる彼は「現代音楽の魅力を伝えられるような曲を書きたい」と語り、来期以降も東北ユースオーケストラへの参加の意思を示した。
東北ユースオーケストラ第5期のキャプテンを務める、ホルンの田嶋詩織。音楽大学に在学中の彼女は、「普通にできていた演奏会に出られなくなった今、自分に何ができるんだろう? と考えさせられています」と、複雑な胸の内を明かした。
「でも、今は練習するしかない。そして、本もたくさん読みたいです。そうして来年、震災から10年目になる節目の年に、今自分たちはここまで来れたよ、という成果を、それぞれが見せられたらいいのかな、と」
時間は単に刻々と過ぎ去ってしまうのか? 常々、坂本はそんな疑問を抱いていたという。しかし、人にとって、とくに若い日々を過ごす人々にとって、時は傾き、また離れることを繰り返しながら、確実に彼らを前へ前へと運んでいるようにも思える。そしてまた音楽も、芸術も、きっと同じままではいられない。
「3.11のあとにも感じましたが、水や食料、医療を得られたあと、非常に抑圧された状況でいる人間にとっては、砂漠のひとしずくの水のように、音楽や文学が潤いをもたらすんだろうと。だから人類は、一度も途切れずにアートを生み出しつづけてきたんでしょう。
震災から10年がすぎて、東北ユースオーケストラがなぜあるのか? とこの先問われたとき、『東北だから』『災害があったから』ということは、もう通用しない。何が通用するかというと、やはり音楽性でしょう。このオーケストラの音、演奏する音楽に存在意義があるものになるよう、毎年のように少しずつ新しい曲に挑戦して、より強く高めていくことが、僕の役割だと思っています」
BY MICHIKO OTANI, PHOTOGRAPHS BY YUSUKE ABE
MAY 13, 2020
坂本龍一が、一夜限りのトーク&ライブ会場で語ったこと
『デヴィッド・ボウイ スペシャルナイト』 での“坂本龍一”体験
ポーーーン。ピアノの音がしてふと見ると、坂本龍一がグランドピアノの鍵盤をたたいていた。予定時刻より15分早い。ライブ会場でのリハーサルに、彼は、まさにすーっと現れた。チャコールグレーのタートルニット、ダークインデイゴのジーンズ、シンプルな黒のレザースニーカー。楽譜が入っていたのは淡いブルーカラーのごくシンプルなコットントートバッグ。グランドピアノは坂本の私物だ。照明が反射しないよう塗装をマットに仕上げてある。弾き始めてほどなく、サウンドスタッフのところへ行き何事かを話し合ったのち、ピアノの前に戻り、あとは淡々と黙々と曲を弾いていく。1曲終わると、自らピアノの上の楽譜をめくり、次の曲へ。まわりのスタッフが照明を調整する中、薄暗い会場にただただ坂本のピアノの音が静かに響く。リハーサル半ば過ぎ、坂本が曲の途中で急に弾くのをやめた。スタッフを振り返り「何か書くものある?」。差し出されたペンを受け取り、楽譜に何事かを書き込んだあと、ふたたび曲を弾き続ける。最後に何枚もの楽譜をしばし再確認し、1時間ほどでリハーサルは終了。その後、スタッフが坂本の周りに集まり、坂本自身がなにかを伝えている。全員真剣な表情。が、張り詰めた空気感というものはなく、坂本もときどき笑顔を見せている。やや意外だった。
坂本が控え室へ戻ったあと、なんとピアノの分解が始まった。調律だ。鍵盤がはずされ、内部の部品を調律師が丁寧に調整している。坂本からなにか指摘があった上での作業ではなく、毎回演奏前と演奏後には必ず行うとのこと。ふと見ると、ピアノ脇のミニテーブルに湯たんぽらしきものが。坂本のものだろうか。
まろやかな人。それが実際に会ってみての坂本龍一の印象だ。初対面の相手を緊張させることがなく、誰に対してもおだやかで丁寧でフラット。インタビューのためリハーサル終了後の控え室へ入ると、立ちあがって「坂本です」と握手の手を差し出された。
「僕はピアノは全然うまくないんだけど、自分の音楽の表現手段のひとつとしてピアノが一番身近。なので、ピアノを弾くことが多いんですけれど、いつもなるべく嘘偽りなくできればいいなと思ってます。それをどう受け取るかは聴く人ひとりひとりの自由な選択。音楽が言葉にならないメッセージであるからこそ音楽をやっているので、言葉で表して伝えるべきことっていうのは特にはないんです。ただ、今日のライブは、『DAVID BOWIE is』という展示の一環でやるので、選曲も含め、僕としては個人的なデヴィッド・ボウイとの思い出とか、大げさに言えば鎮魂という気持ちを込めてます」
映画『戦場のメリークリスマス』の撮影で約2ケ月、デヴィッド・ボウイと過ごした坂本。そんな坂本のボウイに対する印象は、「20の人格を持つ人間」
「20というのは大げさかも知れませんけど、悪い意味ではなく、たくさんのいろいろな個性が彼の中にはあるなと。どれが本当でどれが嘘というのではなく、どれもたぶん本当なんですね。僕たちが『戦メリ』を撮影したときは、小さい島で、メディアがまったくシャットアウトされていて。想像するに、わりと長い期間メディアにさらされることなく自由に時を過ごしたというのは、デヴィッド・ボウイの人生の中では極めてまれな時間だったんではないかと思うんです」。現在と違ってインターネットもない時代だ。「そうですね。そんな普段の素直な姿のデヴィッド・ボウイと2ケ月近く過ごして、僕はすっかり、これが本当のデヴィッド・ボウイだと思っていたんです。が、次にカンヌで会ったら、当然スーパースターなんです。それは別に嘘の彼ではなくて、それもデヴィッド・ボウイなんですよね。スーパースターであることも彼の中には入っている。この人にはたくさんの人格があって、すべて芝居しているようにも見えるし、本当のようにも見える。人の心の深いところはわからないけれど、複雑な人だなと思いましたね」
リハーサル後にスタッフに何を指示していたのかをたずねると、意外な答えが返ってきた。
「曲順を事前に決めるのが好きじゃないんです。普段は本番中に、その場の思いつきで、『えーと、これやろうかな』って感じで弾きます。始まってから考える」。まるで落語。実際、その日のお客の様子やその場の空気感で決めたりすると言い、「立川談志みたいな」と笑う。が、今回のライブはデヴィッド・ボウイ展というテーマがはっきりあるため、事前にある程度選曲をし、それをリハーサル後に照明スタッフへ伝えていたのだった。なにもかもすべての指示を細かく出しているのかと思ったら、むしろ逆。「照明スタッフは、次に何が来るかわからないと、イントロクイズみたいに最初の音が『ピュッ』と来たら、『あっ!』となって、みんなかわいそうなので(笑)。ただ、普段から、あまり照明は変えるなと言ってます。リズムに合わせて変えたりしたら、その場で帰っちゃう」。
リハーサル中に楽譜に書き込んでいたのも、あの場で思いついたハーモニーだと言う。「ふと和音を思いついて『あ、こっちのほうがいいな』と思ったので。本番で楽譜に書くと、お客さんがびっくりしちゃうんでやりませんが、本番中に変えちゃうことはしょっちゅうあります。ずっと同じように弾いていると飽きちゃうんですよ。よりベターなものを思いつけば、そっちを弾きますね」。談志が「ダメだな」と噺の途中で演目を変えるのを、「あの精神、最高ですよね」と言う坂本らしい。じつはリハーサル時に、ライブ中のトーク部分に関しては「本番でいいじゃない」と、内容打ち合わせは一切なく、マイクテストのみで終わったのだが、それにも納得した。
いまいちばん大切に思うことは、「おいしい食事ですかね。新鮮なミョウガとかね」。リハーサル時にピアノの脇に置かれていた湯たんぽで指をあたためながら、まろやかに坂本は答えてくれた。
BY YUMIKO FUKUI
APRIL 06, 2017
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