タウン誌『銀座百点』に3年にわたって連載されたエッセイが一冊に。遠い記憶をたどるような文章は、華やかな銀座の街の路地に迷い込み、薄暗がりで声なき声に耳を澄ます…そんな妄想を呼び起こす。この不思議な本について、著者に話を聞いた

BY AKANE WATANUKI, PHOTOGRAPH BY SHINSUKE SATO

 タイトルの“だいちょう”ということばから、歌舞伎について書かれている本かと連想が働くが、その要素はちらりとしか出てこない。

「最初は『銀座百点』の編集長から、歌舞伎の演目の解説兼小話を、とお話をいただいたんですが、勉強不足で連載では難しいのではと相談しました。『銀座百点』は銀座周辺のお店に置かれている短冊型の小冊子で、フリーマガジンの元祖のような存在。あの判型や雑誌の佇まいの気楽さが好きだったので、もう少し日々のことや季節の巡りについても書きたいとお願いをしたところ、歌舞伎については一行でも出てくればいい、となし崩しになってゆきました(笑)。毎回、演目と日々のこと、どちらかを思い浮かべて書き始めると、その間に自然と橋が架かっていって、36回、気がついたら書き終わった感じです」

画像: 『だいちょうことばめぐり』朝吹真理子著 写真・花代 ¥1,980/河出書房新社

『だいちょうことばめぐり』朝吹真理子著 写真・花代 ¥1,980/河出書房新社

 それでもやはり一冊を通して漂っているのは、歌舞伎のような過去から伝わってきた芳しい古物の薫りだ。冒頭の「ことばをめぐるまで」の章には、学生時代に歌舞伎に傾倒し歌舞伎座に通うようになって、「江戸の人々の心ぜんたいに惹かれていった」とある。

「近代以前の人間の内面は、今よりももっと薄ぼんやりしていたのではないかと思っていて、その時代の人たちに会ってみたいという気持ちが強いです。人の心を研究するには民俗学だと考えて、大学に入ったものの、身体が弱くてフィールドワークが満足にできなかったんです。歌舞伎を見始めたのもちょうどそのころです。いろいろな人の心がその時代の娯楽の中に眠っているのではと思いついて。歌舞伎の台本は、人間の肉声を通った言葉が残っているので、声をきいていた人たちに会いに行くような気持ちで読めます。それが私にとってのフィールドワークになりました」

 人間のどこかにある、科学や理性で整えるとこぼれ落ちてしまうもの。現実と夢との関係や、お化け、恐れの対象というような、理屈では説明できない人間の心にあるものが、江戸時代に老若男女が見た歌舞伎の演目で、どう描かれているかに興味を持った。

「人間には寿命があります。でも、歌舞伎では役者が代を替わっても、同じ名前を名乗っていく。一人の背後に、それまで生きてきたたくさんの人の身体を背負っていて、今生きている人が動いているのか、かつて生きていた人の動きがその身体に染み込んで動いているのかがわからなくなる感覚を、今の歌舞伎でもときどき感じます。それが歌舞伎を見ることの喜びの一つです」 

 日常のなかで、かつて生きていた人、あったものの痕跡から何かの気配に触れたとき、朝吹の想像の旅が始まる。このエッセイ集でも、些細なきっかけからほどけた食べ物や子どもの頃の記憶が、演目のセリフやシーンをかすめながら、文字となって立ち現れている。家族旅行のスキーの帰りにもらう筍の煮物、祖父に買ってもらった三色だんご、家に来てくれていた川波さんのつくる鯛飯やちらし寿司。思い出が食べ物と合わさって輪郭がより鮮明になる。

「父が家の話をすることを嫌う人だったので、祖父や大叔母が翻訳をしていたり、父が詩を書いていたりすることが、幸いにも、小説を書くようになるまでほとんど意識せずにいられました。いまも仕事のことはよくわかっていないので、祖父、父、として、エッセイでは書いています。大好きだった川波さんはこの本のゲラチェックをしていた頃に亡くなってしまって。連載時にはなかった最後の一行を書き加えました」

 湯気で頬が濡れるのが好きだから最後の晩餐は点心、という「湯気と点心」の章も、読んでいるだけでふわふわと温かい気持ちになる。
「湯気にほわほわ撫でられると頬が湿って幸せな気持ちになります。せいろで蒸された点心は、食べる前から温かさがやってくる食べ物。点心にはクライマックスがないのがいいんです。円卓をぐるぐる回して食べているうちに新しいせいろが来て、甘いのを食べたり、しょっぱいのに戻ったり。一口、二口で食べられるものが永遠にやってくるのは最高です」

 書いていると、過ぎ去ったことが向こうから「やってくる」という。連載中に面白さを感じたのは、忘れていた記憶に出会う感覚だった。
「昔のことも、つい先日のことでも、書いていると忘れていた細かな出来事を急に思い出すことがあります。人間の記憶は、思い出すたびに少しずつ違っているもの。記憶が書き換えられていくリズムを、文章を書くリズムが呼んでくれる。そうやって書きながら文章の中を散歩していると、歌舞伎の橋や思い出の橋が架けられていくんです」

朝吹真理子(MARIKO ASABUKI)
作家。1984年東京都生まれ。2009年「流跡」でデビュー。2010年に同作品で第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を、2011年「きことわ」で第144回芥川賞を受賞。著書に小説『TIMELESS』(新潮社)、エッセイ集『抽斗のなかの海』(中央公論新社)などがある

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