BY MELENA RYZIK, PHOTOGRAPHS BY CAMILA FALQUEZ, TRANSLATED BY T JAPAN
シンディ・シャーマンとケイト・ブランシェットは、ほんの数回、しかも偶然に会ったことがあるだけだった。シャーマンは、自らの姿を変えてセルフポートレイトを撮影するアーティストであり、ブランシェットはオスカーを受賞したこともある変幻自在の女優である。4月下旬のある日、お互いのファンである彼女たちは、シャーマンの展覧会が開催されるNYマンハッタンのアッパーイーストサイドにあるハウザー&ワース ギャラリーで再会した。
「あなたの大ファンです」とブランシェットは言い、シャーマンの熱烈な支持者らしく、技術的な質問(タイマーを使うのか)や哲学的な質問(写真におけるリズムはどこにあるのか)を彼女に投げかけた。ブランシェットは、リンカーン・センター映画協会のチャップリン賞授賞式のためにニューヨークに来ていて、その後はロンドンに戻り、アルフォンソ・キュアロン監督によるApple TV+シリーズ『Disclaimer』の撮影に入る予定だという。
シャーマンは、その名を知らしめるとともにアート界を震撼させることになった、70年代に撮り始めたモノクロの写真シリーズ『Untitled Film Stills』全70点と、その後の『Rare Screen Projections』(1980)や『Centerfolds』(1981)シリーズ(すべてカラーのセルフポートレート)を展示する個展の準備で忙しくしていた。68歳のシャーマンと、53歳になるブランシェットは、展示を見ながら互いの共通点を見出した。
「彼女はさまざまな人格になりきります」と、シャーマンは感心したように語った。
2015年、ブランシェットはドイツのアーティスト、ユリアン・ローゼフェルトによる13チャンネルのビデオインスタレーション作品『マニフェスト』(後に長編映画として公開された)に出演し、ニュースキャスターからホームレスまで、13人の異なるキャラクターを演じ、さまざまな芸術や政治のマニフェストを朗読した。「あの作品は感動的でした」とシャーマンは語り、自分もそれらのキャラクターの一部を演じた気がすると付け加えた。「私たちは波長が合うように思えました」。
会話というより秩序だった対話といった雰囲気の中で、二人はキャラクターになりきること、子供の頃の遊び、メイクの意味、ピエロの恐怖について話し合った。以下はその抜粋である。
Q: 互いの作品をどのように仕事に活かしていますか?
ケイト・ブランシェット:映画制作というのは、想像力に欠けたものです。ですから、より抽象的な次元へ自分を持っていくことのできるものを絶えず探しています。時には、それが音楽であることもあります。しかし、ほとんどの場合、それは”もの”です。しばしば、私は表現できないような感覚や、今おこなっていることとは意識レベルでは関係ないように思えるイメージを切り取って、一枚の紙にまとめます。例えば「ピエロ」シリーズですが、あの作品(シャーマンの不気味なピエロのシリーズ)を見たときの嫌悪感や恐怖、直感的な感覚は表現しきれないものでした。最近、ギレルモ・デル・トロ監督の映画『ナイトメア・アリー』のために、「ピエロ」で得た感覚を用いました。役者としてやるべきことに、畑違いのものをぶつけると、少し曖昧で多義的なものができたりするんです。いつもうまくいくとは限りませんが。
シンディ・シャーマン:私はキャラクターに入り込むことはしません。私がやっていることと演技には大きな違いがあります。私はただ立っているだけで、しかも一人で作業しているので、いろいろごちゃ混ぜにして、そのキャラクターがすべきと思ったことと全く逆のことをすることもできます。そして、時にはそれがうまくいくこともあるのです。
Q: お二人とも、自分の顔が変幻自在だと思いながら育ったのですか?
シャーマン:いいえ。
ブランシェット:私もそう思ったことはありません。姉が私に服を着せ、鏡の前に立たせ、名前をつけるという遊びをよくやっていました。私はそれがどんな人物かを考えるんです。私のお気に入りは――彼の映画を作ろうとずっと言っているんですが――“ピギー・トラッカー”でした。俳優のウォーレス・ショーンに似た小柄な男で、豚を運ぶトラックの運転手という設定でした。私が7、8歳くらいの頃だったと思います。
シャーマン:着せ替え遊びですね。母が近所の古着屋に行って、40年代か50年代の古いプロムドレスを10セントで買ってきてくれたことがありました。地下室にも曾祖母の服が残っていて、それを見つけた時は「すごい!」と思いましたね。老婦人の服のようでしたが、エプロンドレスのようなものもありました。10歳か12歳のとき、それを着て、ウエストのあたりまで靴下を詰めて、おばあさんのように見えるようにして道を歩いたものです。
ブランシェット:(シャーマンになりきって、笑いながら)「そのとき、私はアーティストになりたいと思ったんです!」。多くの場合、こうしたことは遊びとして始まり、その探求がそのまま移行してゆくのだと思います。意識的ではなく、何も考えずにやっていることもあるのですね。
シャーマン:ええ。大学時代に絵画を勉強していたとき、寝室で化粧をしては仮装していました。そうすることで、人生の様々なフラストレーションを解消しようとしていたんだと思います。すると、当時付き合っていたボーイフレンドが、「君はこういう写真を撮ればいいんじゃない」と言ってくれたのです。それはいいアイデアだと思いました。時々、キャラクターを作りながらポーズを取って鏡を見ると、急に自分が分からなくなることがあります。この人物はどこからやって来たのだろうか? 少し不気味で、クールな感じもします。(ブランシェットに対して)あなたは、どうやってキャラクターを思いつくのですか? 例えば、ユリアン作品の『マニフェスト』のキャラクターは?
ブランシェット:すぐに思いつきました。アメリカの演技文化は、自分が演じるキャラクターの背景にこだわるところがあります。自分とのつながりにこだわる――母親が死んだとか、父親が死んだとか、そうしたことも演技に取り入れる。それは私にとって異質なものです。今度私のセラピストに話してみようかしら。ユリアンの現場で本当に素晴らしかったのは、心理学的アプローチが必要とされなかったこと。ただひたすら行動の積み重ねなのです。大抵の場合において、何が自分を動かしているかなんて考えませんよね。(シャーマンに対して)あなたは男性の役もされていますよね?
シャーマン:難しかったです。ある意味、自分が女性であって女性ではない、ということに自信を持つことが必要でした。でも一度役に入り込むと、この人はとても繊細な人なんだと感じました。
Q:シンディ、あなたは『Untitled Film Stills』シリーズで、ほとんど顔に感情を表さないようにしたと言っていましたが、なぜですか?
シャーマン:明らかに喜んだり悲しんだり、苦しんだり怒ったり、にはしたくはなかったんです。そうした感情を持つ直前、あるいは直後の瞬間に見えるようにしたかった。大げさな表現になると、かえって陳腐に見えてしまいます。その結果、よりニュートラルで謎めいたものへと辿り着きました。鑑賞者に「何が起きているのだろう?」と思わせるような。
ブランシェット:多くの場合、笑顔は防衛手段です。誘っているというより、むしろ閉ざしているのです。目で微笑むと、そこから本物の感情が生まれます。あなたの作品の力強さのひとつは、感情表現を期待させながら、それに応えないことです。だから不気味な空虚さがあるのです。それは、私たちが外に見せるものと実際の私たちとの断絶であり、両者の間の空白です。そこにはしばしば、私たちの恐れが存在しているのです。
あなたがこのプロセスを自分自身でやっていることは、とても面白いと思います。私は一人芝居は苦手なのですが、 以前、ドイツの劇作家ボート・シュトラウスの舞台で、25分間の一人芝居をしたことがありました。とても孤独でした。映画でもしばしばリハーサルがないことや、時にはスタッフとの会話がないこともあります。ただひたすら歩き、演じるのです。その結果がどうなるかを考えると、私には致命的な仕事のやり方に思えます。
衣装デザイナーやヘアメイクの人々との関係はとても深いものです。キャラクターがどのような姿をしているか、そのためにキャラクターはどのように動くか、どのように映るか。そうしたことを知るのは重要です。こうしたいわゆる“女性ギルド”の部門に関しては、男性監督は「何もわからない」と公言することが多いです。「その辺はお任せします」と。何年も前に、エリザベス1世を演じましたが、監督は――大好きで尊敬している人ですが――、いつも「髪を下ろして風になびかせたいんだ」と言っていました。私は「エリザベス1世の肖像を見たことがありますか? 当時そんな人はほとんどいませんでしたよ」と返したものです。でも、それは(一部の男性監督が)魅力的だと感じる必要があるからなのです。性的な意味でなくとも、魅力的に見せる方法は他にもあるということがわからないのでしょう。
観客をあるキャラクターの体験に引き込むには、さまざまな方法があります。私は絶えずピエロのイメージに戻り続けます。とても心をかき乱されるからです。あなたはピエロのイメージを撮るとき、人々に嫌悪感を抱かせようと考えますか?
シャーマン:今まで創作してきた、例えば腐った食べ物を使ったグロテスクな作品に対しても、反発を覚えながらも、魅力的に感じて、同時に笑ってほしいと思っています。あまり深刻に考えないでほしいのです。私は昔からホラー映画に惹かれるのですが、それはジェットコースターに乗っているような感覚と同じです。落ちないとわかっていても、恐怖を感じることがある。昔、おとぎ話はそうやって機能していたのだと思います。
私は自分の作品でもそれを試みてきました。遠くから見ると「ああ、きれいな色!」 と思えて、近づくと「なんだか恐ろしい」と感じる。でも、そのあとで冗談を理解するのです。80年代の半ばに、パリの会社から『Vogue』に載せる広告を作らないかと誘われました。私が偽物の血と鼻を使って創作し始めていた時期でした。もちろん、彼らはそれを嫌がりました。それで、もっとダークな感じにしたいと思うようになったんです。フェイクの瘢痕組織(かさぶた)や体のパーツを手に入れて、最終的にはそれらの人工装具を見つけました。フェイクの(胸や尻の)パーツは、ヌードを演じるには完璧な方法でした。自分自身の身体の一部を見せるという発想は、決して重要ではありませんでした。
ブランシェット:私は運動神経がとても良くて、だから舞台に立つのが好きなんです。動いていた方が心地良い。あなたはとても素晴らしく、たくさんの動きが感じられます。そしてそうした動きの全てが、ゾクゾクするような静止画に切り取られてのです。ダンスを見に行ったときと同じような感じです。ダンサーが着地する前の、あの宙で静止する瞬間がとてもスリリング。そして、写真にタイトルが付けられていないことも素晴らしい。特に意味を持たせることをしない。これらの作品は、リトマス試験紙のようなものですね。今日はありがとうございました。
この記事はThe New York Timesに掲載されました。