プライベートな時間がまだ文字どおりプライベートで、スナップ写真が真の親密さを意味していた、あの頃。メアリー・ラッセルはヨーロッパ上流階級の人々と パーティに興じ、彼らの姿をカメラに収めていた

BY MARIAN MCEVOY, PHOTOGRAPHS BY MARY RUSSEL, TRANSLATED BY ASAHI INTERACTIVE INC.

 メアリー・ラッセルはインサイダー中のインサイダーだ。インターネットでその名前を検索しても情報はほとんど出てこない。しかし彼女は1960年代から70年代にかけて、パリを拠点にファッション記者・写真家として活動し、デザイナーや写真家、音楽家、俳優、芸術家、貴族出身者といったヨーロッパ文化人の世界を文章にしたり、印象的な写真に残したりしていた。

ロマン・ポランスキーからルドルフ・ヌレエフ、ジェーン・フォンダ、グレイス・ジョーンズ、そしてヴェルヴェット・アンダーグラウンドにローリング・ストーンズまで。相手は彼女にとって親しい友人でもあることが多かった。35ミリの白黒フィルムを使い、自然光の下の飾らない姿を好んで撮った。撮影場所によく選んだのは私邸や庭園。庶民にはのぞき見ることのできない、隔絶された世界の内側から撮影する。彼らは有名で裕福で、写真を撮られることも多い人々だったが、ラッセルが撮った作品からは、ほかの写真ではめったに見られないような気取りのない親密さが感じられる。

 ラッセル自身にも、被写体の人物や彼女の上に立つ有名編集者、出版人たちに劣らないカリスマ性があった。ジョン・フェアチャイルド、アレクサンダー・リーバーマン、グレース・ミラベラ、ダイアナ・ヴリーランド、キャリー・ドノヴァンら当時のファッション界を代表する顔ぶれの動向を取材して、『ヴォーグ』や『エル』『ウィメンズ・ウェア・デイリー』『グラマー』『ヘラルド・トリビューン』『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に記事を書く。その一方で、私生活でも仕事と同様の情熱を注いで取材相手たちと交流し、時には生活をともにした。この過程で手に入れた数々のオートクチュールは、のちにニューヨークのメトロポリタン美術館やパリのピエール・ベルジェ、イヴ・サンローラン財団に寄贈している。

 ラッセルは今、彼女自身の言葉を借りれば「70がらみ」の「孫に大甘なおばあちゃん」としてパリとマイアミを行き来しながら、相変わらず写真を撮っている。もともと上流階級の出身というわけではない。マサチューセッツ州マーブルヘッドに住む軍人家庭に生まれた5人兄弟の3番目。父親はアメリカ海軍の大佐で、母親はファッションとアートが大好きな主婦だった。少女時代に家族で父親の駐留先のニースへ引っ越し、国立高等装飾美術学校で2年間、美術とデザインを学んだ。

 ラッセルは50年代の終わり頃、新婚の妻としてニューヨークへ移る。そこで母親の友人が、当時『ハーパーズ・バザー』の編集長だったダイアナ・ヴリーランドに彼女を紹介した。「ずっと洋服やファッションが大好きで、ファッション誌の仕事に就きたいと思っていた」と、ラッセルは振り返る。「細身のドレスときれいに結ったシニョン、それにはったりの自信」をまとって乗り込んだラッセル。ヴリーランドは『グラマー』のファッション編集者に電話をかけ、彼女を雇いなさいと持ち掛けた。「この娘はそれらしく見えてフランス語ができる。何でもやると言っているし、タダ同然で働く気がある」というのが、その理由だった。

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