BY ALEXANDER FURY, PHOTOGRAPHS BY MARTON PERLAKI, STYLED BY MALINA JOSEPH GILCHRIST, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
ファッションがポストナショナリズムを目指すもうひとつの理由は、最近激しい物議を醸している“文化の盗用問題(他者の文化をわが物顔で扱うこと)”にある。マーク・ジェイコブスは2017年春夏のショーで、モデルのヘアをドレッド風にしたため、黒人女性独自の髪型を“盗用”したと批判され、政治的問題に発展してしまったのだ。今やヘアスタイルの問題ひとつで人びとは怒りの声を上げる。思えば2000年初頭までは、コレクションにはおなじみのテーマがつけられ、何のためらいもなく単純に“アフリカン” “アジアン” “フレンチ”とテーマ分けされていた。
けれど今のファッションにこういった区切りのテーマはほとんど見られない。ジェイコブスは2018年の春夏ショーで、さまざまな時代と民族文化を寄せ集め、何のカテゴリーにも属さないグローバルなスタイルを提案した。ターバンを巻き、過去と現代を織り交ぜた、風変わりな“部族”のようなスタイルは、生まれた地や国といった概念を取り去った世界を象徴する。そこにあるのは、さまざまな土地からの漂着物を寄せ集めたひとつの文化だ。今の時代、いくつかの着想源を“X×Y方式”(たとえばエリザベス女王×デューク・エリントンという感じ)にはめ込むやり方は古すぎるのだろう。次に考えたいのがポストヒストリーだ。ファッションは確かに、“過去にしがみつかず、もっと未来に向かうべき”と繰り返し非難されてきた。だが未来が見えないときには、どうしたらいいのか。今、ファッションはためらいを感じている。未来のことなど深く考えたくもないのだ。
真実と噓、正しいことと間違ったことの違いが、訳がわからないほど曖昧になりつつある今、デザイナーたちはあらゆるルールや常識に疑問を抱いている。服自体がもつ意味にさえも。そんな状況のなか、突然変異を起こしたようなハイブリッドなスタイルが多く現れた。もっとも特徴的な例が、バレンシアガで見たふたつの服をジョイントしたシリーズだ。デニムジャケットとトレンチが、またはオペラコート(ゆったりした上質素材のコート)と中綿入りのセーフティベストがネックラインでつながっていて、前後やサイドに好きなように垂らして着ることができる。またセリーヌのフィービー・ファイロも、コートとトレンチコートを合体させたデザインを発表している。ふたつのコートをつないだヘムラインが描くU字型の曲線が印象的だ。メゾン・マルジェラのジョン・ガリアーノは、“デコルティケ”(皮をむく、はぎ取るの意味)と彼自身が名づけた方法で、服を分解する。こうして表面の大半をそぎ落とすと、残るのは縫い代だけだ。彼の意図は、ジャケットとはいったい何かを再考すること。外的要因から体を守ることが衣服の大事な役割といわれてきたが、ガリアーノの枠組みだけの服にその機能はない。気候変動に伴う気温上昇のせいで、衣服の保護機能はもう不要になるということだろうか。
一方で、リック・オウエンスは春夏のショーでボディのさまざまな部分を膨張させたデザインを披露した。彼は「見慣れた人体のシルエットをあれこれ改造してみたくなってね」と言う。ファスナーつきのミニバッグがついたオウエンスの服は単なる服というより、世紀末の流浪者に似合う服だ。所有物を保管する家を持たずに、すべてを自分で持ち運ぶための服。国や定住地という概念が薄れゆく時代にふさわしい服なのだ。