ベルギー人デザイナー、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクは、アヴァンギャルドなメンズファッションの守護神だ。彼の生みだす世界は、奇異で独創的な魅力にあふれている

BY THESSALY LA FORCE, PHOTOGRAPHS BY MARK PECKMEZIAN, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 18歳のとき、ドイツの『アヴェニュー』誌でアントワープ王立芸術アカデミーのファッション科の記事を読み、翌1976年に同科に入学。ファッション科は1963年に開設した比較的新しい学科だが、アカデミー自体の創立年は1663年だ。ビジネスよりも創造性を重視するという、伝統的な教育方針で知られている。

 王立芸術アカデミー入学後、ヴァン・ベイレンドンクは創作に必要とされる厳格さやデザインの可能性を学び、同じ志を抱く仲間と出会った。彼のクラスには、鬼才デザイナーのマルタン・マルジェラがいた。マルジェラは卒業後約10年の間に、パリのジャン=ポール・ゴルチエのもとで働き、さらに自身のレーベルを立ち上げた。1977年にはヴァン・ベイレンドンクの1年下のクラスに、ドリス・ヴァン・ノッテン、アン・ドゥムルメステール、ダーク・ヴァン・セーヌ、ダーク・ビッケンバーグ、マリナ・イーが入学する。

 この70年代当時は、人口50万人でしかなかったアントワープに、かなり過激なアヴァンギャルド・ムーブメントが沸き起こっていた。その震源地は、ヨーゼフ・ボイスやマルセル・ブロータスなどコンセプチュアル・アーティストの作品を紹介したギャラリー「ワイド・ホワイト・スペース」。若手の演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェが牽引役となって、実験的な演劇シーンも活気づき始めていた。ベルギーといえば、マグリットの絵に見るような灰色の空と石畳の道が思い浮かび、ドイツやオランダの隣国と同様、冷ややかで鈍重な印象だが、めまぐるしく変化していたのだ。

 そんな時代にヴァン・ベイレンドンクと仲間たちは、美的センスの違いこそあれ、同じ熱意をもってグループを結成した。彼は当時を振り返る。

「アンが何かを作ると、ドリスがさらに優れたものを作り、僕はそれよりもっといいものを作ろうとしていたよ」。めきめきと頭角を現していたジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチ、ティエリー・ミュグレー、クロード・モンタナたちを前に、グループの志気はさらに高まった。時代を反映した広い肩幅のウルトラセクシーでフェミニンな服を生んだ若手デザイナーの成功を見れば、人々が着たがる服を作るのに、もはやクチュールメゾンを作る必要がないのは明白だった。

画像: (左から)2020年春夏コレクション「Witblitz」のシャツを着たヴァン・ベイレンドンク、2014-’15年秋冬コレクション「Crossed Crocodiles Growl」、2015年春夏コレクション「Whambam!」、2017-’18年秋冬コレクション「Zwart and Witblitz」

(左から)2020年春夏コレクション「Witblitz」のシャツを着たヴァン・ベイレンドンク、2014-’15年秋冬コレクション「Crossed Crocodiles Growl」、2015年春夏コレクション「Whambam!」、2017-’18年秋冬コレクション「Zwart and Witblitz」

 当時のベルギーはすでに“眠りから覚めていた”が、ヴァン・ベイレンドンクが目指したのは海の向こうだった。70~80年代中盤までのロンドンは、ファッションに限らず多分野において、型破りで反体制的なデザインの発信源だった。長引く不況の真っ只中にあったイギリスは保守党のマーガレット・サッチャーを首相に選出。パフォーマンスアーティストのリー・バウリーは、アンダーグラウンドなクラブ「タブー」を開き、ポリセクシュアル(訳注:好みのセクシュアリティを複数持つ)の概念やニューロマンティック(訳注:70年代後半に流行した音楽。派手な衣装やヘアメイクも特徴)のムーブメントが広がった。あらゆる若いアーティストにとって反抗心こそが原動力となり、若手デザイナーたちはこの状況に高揚感を味わった。古いルールをはねのけることは、改革のチャンスをもたらすからだ。

「ウォルターはロンドンに夢中だったよ」。そう回想するヴァン・ノッテン自身、ロンドンのむき出しのエネルギーと奔放なナイトライフ、反体制的なパンクグループ、流行のスタイルに心酔していたらしい。「ウォルターが大好きだったのは『i-D』『THE FACE』などの雑誌、キャサリン・ハムネットやヴィヴィアン・ウエストウッドのパンクファッション、アダム&ジ・アンツ(訳注:ニューロマンティックの流れを広めたバンド)だ。彼はこの手の情報を常に細かく把握していて、たとえばコンサートがあるってわかると、みんなで寸分の隙なくドレスアップして出かけていたよ。アン・ドゥムルメステールはダークな印象の服を着ていたね。トラディショナルな家庭で育った僕は、クチュールシルクのような上質の素材を好んで着ていた。こうやって各メンバーが異なる要素を持ち込んで、良いシナジーを生みだしていたのさ」。ロンドンやパリを訪れた彼らは、偽のインビテーションを携えてこっそりとファッションショーの会場に潜り込んだりもしていた。

 1980年に王立芸術アカデミーを卒業したヴァン・ベイレンドンクは、ベルギーのレインコートメーカー「バーストン」でスタイリングとデザインの仕事に就く。クラスメイトたちも企業に就職したが、稼いだお金はそのまま彼ら自身のコレクション制作につぎ込んでいた。ヴァン・ベイレンドンクは1982年に「サド」という名のファースト・コレクションを発表する(彼は全コレクションにタイトルをつけている)。「誰もが海外の雑誌に載りたい、マスコミに取り上げられたいって必死だったよ。ベルギーを離れたのもそのせいさ。面白いものを作っても、ベルギー以外の国には何も届かなかったから」

 1986年、ヴァン・ベイレンドンク、ドリス・ヴァン・ノッテン、ダーク・ヴァン・セーヌ、ダーク・ビッケンバーグ、マリナ・イーのメンバー(妊娠9カ月目だったドゥムルメステールはベルギーに残った)は、ロンドンに向かった。アントワープでブティックを経営していたヒェールト・ブリュロートが同行し、6人の作品を共同コレクションとしてロンドンのファッションフェアに出展。作品はニューヨークやパリのバイヤーから好評を博したが、フラマン人の名前は発音が難しいために、“アントワープ・シックス(あるいはベルギー・シックス)”とグループ名がつけられた。

 当時、パリとロンドンは依然モードの主舞台だったが、ほかにも発信地が現れた。ニューヨーク、ミラノ、東京、さらにはアントワープが、新しいスタイルのデザイナーと新しいファッションの発祥地とみなされるようになったのだ。1981年には、川久保玲がパリでファースト・コレクションを発表。色彩を否定した、実験的で奇妙なデザインはモード界を震撼させた。その1年後には山本耀司もパリ・コレクションでデビューする。“デザインやフォルムには、フェミニンかマスキュリンのどちらかしかない”という既成概念は排され、男女の境界線があいまいな新しいモードが芽を吹き始めていた。

 つまり当時のモード界には、アイデアの面でも、発表の場についても、若手デザイナーが思いきって挑戦できるスペースがあったのだ。ヴァン・ベイレンドンクの世代を突き動かしたのは破天荒なエネルギーであり、それは裏を返せば、長年彼らを押し込めてきた抑圧に対する反動でもあった。彼らは当たりさわりのないクリエーションより、解放された恍惚感にあふれる服作りを目指した。未来は予想もしていなかった形で開かれていく。80年代初期、ベルギーの経済大臣がかつて盛んだったリネン産業の再活性化を狙って、折よく資金援助プログラムを制定したのだ。またベルギー人デザイナーの活躍を支援するため「Fashion:It’s Belgian」というキャンペーンを実施。「ゴールデン・スピンドル」というファッションコンテストも開かれるようになった。このコンテストが始まって10年のうちに「アントワープ・シックス」のメンバーの大半が受賞したのは、ある意味当然かもしれない。

 この頃、彼は恋をしていた。アカデミー時代に、デザイナーでアーティストであるヴァン・セーヌとつき合い始めたのだ。ヴァン・ベイレンドンクは「それ以来、僕らが離れたことはない」と言う。ふたりは昨年結婚し、隣り合ったアトリエで仕事をしている。アーティスト同士が協力し合い、お互いの創作風景にも立ち会うというのはなかなか珍しいことだ。ヴァン・ベイレンドンクは言う。「ヴァン・セーヌは僕の強みも弱みも知っている。彼にはアイデアも話せるし、彼も僕に対して率直にはっきりと意見を言ってくれるんだ」

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