フェンディのメンズおよびアクセサリー部門のアーティスティックディレクターを務めるシルヴィア・フェンディ。彼女にとって、家族とファッションとは切っても切り離せない関係だ。フェンディ家に生まれ、ブランドを牽引し続けてきた彼女の軌跡と、その胸に去来するものに迫る

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY ROBBIE LAWRENCE, STYLED BY HISATO TASAKA, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

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 ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港では、フェンディのウェアをまとったリンダ・エヴァンジェリスタのポスターがあちこちに貼られていた。フェンディ旗艦店とラグジュアリーホテルを併設した5階建ての「パラッツォ・フェンディ」は、ローマ歴史地区の中心部に鎮座し、その前では「バゲット」バッグを積み上げた、発光性のメタルツリーが輝きを放っている。店内には「FF」ロゴ(サンセリフ書体の上下逆さまのふたつのFを並べたもの)をプリント、刻印、刺しゅうなどでを施したシルクスカーフ、ハイヒール、磁器のティーポット、キャンドルスタンド、犬用コート、ポラロイドカメラ、ベビーカーなどが並んでいる。「初めて訪れる街で『フェンディ』の巨大な看板を目にすると、思わず胸が熱くなる」というシルヴィア。「叔母や祖父母たちが見たらきっと喜んだだろうと思って」

画像: シルヴィア・フェンディ。ローマのフェンディ本社の回廊にて

シルヴィア・フェンディ。ローマのフェンディ本社の回廊にて

 多くのイタリアンブランドと同様に、フェンディも創業当初はファッションを扱うブランドではなかった。ローマのプレビシート通りに、シルヴィアの母方の祖父母、アデーレ・フェンディとエドアルド・フェンディが1926年に開いたのは、毛皮工房を併設した小さな革製品の店。1954年にエドアルドが亡くなると、アデーレは5人娘(パオラ、フランカ、カルラ、アルダ、そして現在89歳のシルヴィアの母アンナ)の手を借りて事業を続けた。5人姉妹が子どもだったころは、店の中で遊んだり昼寝をしたりしていたそうだ。

 それから数十年のうちに、フェンディは世界的な大企業へと変貌を遂げ、グッチやフェラガモとともに〈イタリアのラグジュアリーファッション全盛期〉を築いた 。フェンディのクラフトマンシップあふれるこだわりが光る、モダンなバッグやコートに、ハリウッド女優やヨーロッパの王室の顧客たちはすっかり夢中になった。1965年からは、フェンディ5姉妹がドイツ人デザイナー、カール・ラガーフェルドとのコラボレーションをスタートし、この関係は彼が世を去るまで続いた。ラガーフェルドと言えば、シャネルのツイードスーツを現代ふうにアレンジし、低迷していたメゾンを復活させた立役者としてのイメージが強いかもしれない。だが彼はフェンディにおいても、トレードマークのファーコートを鮮やかに刷新し、100万ユーロのブラックセーブルのトレンチ(2015-16年秋冬 オートクチュールコレクション)や、制作に1200時間以上要したフラワー柄のマルチカラーミンクコート(2016-17年秋冬 オートクチュールコレクション)など画期的なファーアイテムを提案した。就任当初はファーコレクションの、続いてレディス・プレタポルテのクリエイティブ ディレクターを務めたラガーフェルドは、2019年に亡くなるまで54年もの間フェンディに貢献した。デザイナーとファッションブランドのコラボレーションとしては最長記録を誇るものだ。ラガーフェルドは毎回様変わりする トレンド(あるシーズンは70年代に活躍した米デザイナーのホルストン、別のシーズンはパンクといった具合に。これらの要素を彼は独自に解釈した)を織り込み、控えめな華やかさを添えながら、フェンディ姉妹が追求していた〈実用的なエレガンス〉をさらなる高みへと導いた。

 ラガーフェルドとは対照的に、シルヴィアは〈反骨精神はあるが、覇気に欠け、影に隠れたデザイナー〉と見られてしまうことが多い。1999年の『ニューヨーク・タイムズ』紙でダナ・トーマスが書いたように「フェンディ家のバッドガール」と評されることもある。だが彼女は20代のわずかな休止期間以外、生涯のすべてをフェンディに捧げてきた。ビーバーの毛皮のボンバージャケットとおそろいの帽子を身につけて、フェンディの広告キャンペーンを飾ったのは彼女がまだ6歳のときのこと。シルヴィアが子ども時代を振り返って思い出すのは、ファッションにまつわる出来事しかない。議論が白熱し、ほぼ毎度、長時間のビジネスミーティングにすり替わっていた家族のディナー、ランウェイショー、ラガーフェルドの膝に乗って彼のスケッチを眺めていた時間。「ファッションはのびのびと自由な世界だと思われているけれど、我が家のルールは厳しく、『人生には勉強か仕事のどちらかしかない』と言われて育ちました」。フェンディのために途方もない時間を割いてきた母親を見ていたからこそ、ティーンエイジャー時代のシルヴィアは、普通の子と同じように、友だちとローラースケートをしに出かけていた。「一度仕事をし始めたら、プライベートはもうないも同然だってわかっていたんです」

 1980年、当時20歳だったシルヴィアは誘拐未遂の憂き目に遭い、危機一髪で難を免れた。その頃のイタリアは暗殺や政治的テロが頻発した〈鉛の時代〉で、マフィアたちは富豪や権力者の相続人を誘拐し、身代金を要求した。なかでも有名なのは、石油王J・ポール・ゲティの孫ジョン・ポール・ゲティ3世の誘拐事件だろう。シルヴィアは防弾車に乗るのが当たり前という環境で育ったそうだ。「幸い私が機転を利かせたおかげで、この誘拐事件は未遂で済んだのです」。事件のことをシルヴィアは思い出したくもないという。「あの恐怖は一生消えることがないでしょう」

 母親のアンナは、シルヴィアを危険から守るために、アメリカのロサンゼルスに移住させた(シルヴィアは10代のとき、父親のジュリオ・チェーザレ・ヴェントゥリーニを亡くしている)。ロサンゼルスでもフェンディとのつながりは断たれず、彼女は会社のプレス活動をしたりフェンディのブティックで働いたりした。この滞米中に彼女はフランス人のジュエリーデザイナー、ベルナール・デレトレズと恋に落ちた。デレトレズは彼女に〈名高いフェンディ家〉では味わうことのできなかった、安らぎをもたらしてくれたという。

 シルヴィアとデレトレズのふたりは、ブラジルのリオデジャネイロへ逃避した。彼女は当時の〈ワイルドな大自然のなかでの奔放な暮らし〉を懐かしく思い出す。こうしたノスタルジーをポルトガル語では〈サウダージ 〉と呼ぶそうだ。「ファッションとは何もかもが違う未知の世界でした」。シルヴィアはその後も何度かリオを訪れたが「戻るたびに自分の人生について考えこんでしまうので、ここ最近はあまり行かないようにしている」と言う。23歳でローマに戻ったとき、彼女は長男ジュリオを妊娠していた(ジュリオは今、ローマ郊外で彼の叔母イラリアが営むオーガニックファームの手伝いをしている)。その年齢で出産すると、キャリアが中断されてしまう可能性もあったが、シルヴィアは恐れずに前へ突き進んだ(もともと入籍はしていなかったが、彼女とデストレズは今から数年前に別れている)。「『自分の家族ができた今、しっかり一本立ちしなければ』と必死でした」

 フェンディ本社にはアトリエのほかにファー工房があり、数十名の毛皮職人が、手の込んだディテールが印象的な、チンチラやボブキャットのファーコートを制作している。このメゾンでは依然ファーアイテムが主力だが、ファーの代替素材を作るため、毛髪の主要成分であるタンパク質〈ケラチン〉を用いた研究も進めている。昨年4月、LVMH環境部門マネージャーのアレクサンドル・カペリは、オンラインマガジン『ヴォーグ・ビジネス』の取材にこう答えている。「ここ一年でフェイクファーの質はかなり改良されましたが、リアルファーのレベルには至っていません。でもこの(ケラチンを用いた)技術革新によって、リアルファーに非常に近いクオリティが得られるはずです」。廊下の先にはアーカイブがあり、山積みになった「バゲット」や「ピーカブー」(シルヴィアが2008年に発表した2室構造のバッグ。バッグの前後両面からターンロックで開閉できる)、レザートランク(ソフィア・ローレンの本名、ソフィア・ポンティのイニシャル 〔S.P.〕が入ったものもある)などが並んでいる。壁のあちこちに掛けられているのが、さまざまな額入りのフォト。そのひとつが、毛皮の服をまとったシルヴィアの母親と叔母たちが「FF」ロゴ(Fendi familyでなくFun furを意味する)のロゴ入りショッピングバッグに囲まれているモノクロ写真だ。ラガーフェルドが〈l'abominable femme des neiges〉(註:忌まわしき雪女)と名づけたファーのパンツスーツをはじめ、彼がフェンディ向けに描いた何万ものスケッチも保管されている。 

 ラガーフェルドほどシルヴィアに大きな影響を与えた人はほかにいない。ローマに戻ってから、シルヴィアは「フェンディッシム」(当時フェンディが展開していたセカンドライン)のデザインを任されていたが、1992年にラガーフェルドに勧められて、「フェンディ」で彼のアシスタントを務めることになった。「誘ってくれたのがカールでとても嬉しかった。母親から声をかけてもらうのとはわけが違うので」。ラガーフェルドには予知不能なところがあって「3時からスタートしようと決めておきながら、7時にやって来るような人だった」らしいが、彼はシルヴィアのメンターとなり良き友人にもなった。デッサンも縫製もしないシルヴィアだが、ラガーフェルドからデザイナーのあるべき姿というものを学んだ。彼にはずば抜けたユーモアのセンスもあったそうだ。「カールのアシスタントになって以来、私がフェンディで仕事をしてきた年月は、思わず笑ってしまうくらい長いんですよ」 

 2019年にラガーフェルドが逝去し、一時期はシルヴィアがウィメンズのアーティスティック・ディレクターを務めていた。だが翌2020年にフェンディ社が、かつて「ルイ・ヴィトン」のメンズ部門を率いていたイギリス人デザイナー、キム・ジョーンズ(43歳)を後任者として指名する。ジョーンズは現在、「フェンディ」のウィメンズと同時に、2019年から舵を取る「ディオール」のメンズのディレクションを兼任している。ラガーフェルドを〈唯一無二の独創的デザイナー〉と呼ぶなら、ジョーンズはよりシルヴィアに近いタイプのデザイナーと言えるだろう。シルヴィアとともに新生フェンディを献身的に支える彼は、独自のスタイルを貫くというより、エレメントの融合や衝突という創作のアプローチを得意としている。

 フェンディ着任後まもなくジョーンズは、シルヴィアを説得して、彼女の娘(3人兄弟の真ん中)であるデルフィナ・デレトレズ・フェンディ(35歳)をメゾンに迎えた。すでに自身のジュエリーブランドをもち、ルビーのリップ型ピアスや、〈握りしめた手〉を模ったカララ大理石(註:イタリアで採石される大理石)のカフなどを展開していたデルフィナは、ジュエリー部門のアーティスティック ディレクター就任後、フェンディの世界に独特のシュルレアリスムをもち込んだ。シルヴィアはジョーンズに感謝している。「デルフィナには抜きんでた才能があるけれど、まさか親である私から『娘と一緒に仕事をさせてほしい』なんて言えないので」。デルフィナが加わるということは、つまりフェンディ家の次世代がメゾンに参画するということ。この展開にシルヴィアは二重の喜びを感じたはずだ。一般的にラグジュアリーファッションの世界では、忠誠や帰属という意識は薄く、ヘリテージという言葉もマーケティングの代名詞にすぎないことが多いものだ。シルヴィア自身は、ファミリーカンパニーにおける自らの人生のあり方について疑問を感じるときもある。だが娘デルフィナが加わったことで、現在だけでなく、未来と過去をもつないでいるフェンディ家の絆というものを、シルヴィアは再認識したにちがいない。

画像: (左)ジャケット、シャツ(ともに参考商品) (中央)ジャケット¥335,500、シャツ(参考商品) (右)ジャケット(参考商品)、シャツ¥247,500/フェンディ フェンディ TEL. 03-6748-6233 MODELS:BAEK AT PREMIUM MODELS, KUBA AT CREWMODEL MANAGEMENT AND TAHIROU KA AT MAJOR MODELS, HAIR BY KOTA SUIZU AT CLM.GROOMING BY VANESSA FORLINIAT MAKING BEAUTY MANAGEMENT.CASTING BY GABRIELLE LAWRENCE AT PEOPLE-FILE

(左)ジャケット、シャツ(ともに参考商品) (中央)ジャケット¥335,500、シャツ(参考商品) (右)ジャケット(参考商品)、シャツ¥247,500/フェンディ

フェンディ
TEL. 03-6748-6233

MODELS:BAEK AT PREMIUM MODELS, KUBA AT CREWMODEL MANAGEMENT AND TAHIROU KA AT MAJOR MODELS, HAIR BY KOTA SUIZU AT CLM.GROOMING BY VANESSA FORLINIAT MAKING BEAUTY MANAGEMENT.CASTING BY GABRIELLE LAWRENCE AT PEOPLE-FILE

 それから一カ月後、「フェンディ」2023-24年秋冬 メンズコレクションが披露された。フロントロウにいたデルフィナは、母親がデザインした〈髪の毛のようなフリンジが付いたキャップ〉をかぶっていた。ランウェイのモデルが身に付けていた、5つの「F」のモチーフをつなげたイヤリングやネックレスはデルフィナがデザインしたものだ。5という数は、彼女の祖母と4人の大叔母を象徴している。ショーの最後には、ピンボールマシンの中にいるような錯覚を起こす、精巧に造られた舞台にシルヴィアが現れた。その後すぐ彼女はジャーナリストの群れが待つ舞台裏に向かったが、そこでの対応がシルヴィアは何より一番苦手だと言う。賛辞を受けたくないわけではなく、彼らの誉め言葉が信じられないのだそうだ。オフィスに戻ってから、彼女はこう語った。「舞台裏では誰ひとりとして『良くなかった』とか 『期待外れだった』とは言わない。でも記事を執筆する段階になると彼らは本音を吐くんです」

 ショーのBGMは、ディスコミュージックの巨匠ジョルジオ・モロダーのサウンドトラックだった。ダンサブルなビートが響き渡るなか、シルヴィアが現れて挨拶をした。その瞬間、彼女の心は80年代にタイムスリップしたにちがいない。あの頃、まだ若く、NYのトレードショーに出展するフェンディの運営責任を任されていた彼女は、夜になると〈ローラースケート版スタジオ54〉と呼ばれたローラーディスコ「ロキシー」に行き、踊ったり、ローラースケートをしたりして遊び明かしていた。「魔法みたいな時代でした。無限の可能性を秘めた未来が目の前に広がっていて」。今晩、シルヴィアは早めに眠りにつくのだろう。次のショーが、またすぐにやってくるのだから。

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