BY LIGAYA MISHAN,PHOTOGRAPHS BY PATRICIA HEAL, STYLED BY LINDA HEISS, FOOD STYLED BY REBECCAJURKEVICH, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
もちろん、ニューヨーカーはやはりニューヨーカーである。彼らが国の政策に唯々諾々と従うだけでおさまるわけがない。ブロンクス生まれで当時IBMのマネジャーだったゲーリー・ワルドロンは、静かに自宅の庭の手入れをする生活などまっぴらだとはねつけ、かわりにグループ・リブイン・エクスペリエンスという非営利団体と協力し合って、荒れ果てた彼の出身地区ブロンクスのイースト・トレモント地域にワンブロック四方の広さの畑を耕した。焼け落ちたビルや、オーナーが手入れを渋ってスラム化したアパートが並ぶ一角に位置するその畑は、恵まれない若者たちに仕事を与える目的で作られた。若者たちが植えたタラゴンやバジルが、高級レストランの「ル・サーク」やホテル「フォーシーズンズ」などから気に入られたのは思わぬ副産物だった。「ラヴィンズ」という名のレストランはその収穫物を「ハーブ・デ・ブロンクス」と名付け、メニューに載せて宣伝した(これは、レーガンの減税と繁栄を讃える風潮に浮かれる人々と、そうではない側の人々という、当時のふたつのニューヨークの側面が思いがけず交わったエピソードだ)。
一方、アッパー・ウエストサイドでは、住民たちは隣人ジョン・レノンの死を悼み続けていた。1980年12月初旬、レノンは自宅であるダコタハウスのアーチ門の下で銃撃された。数ブロック先には、シェリア・ルーキンスが営む小さなテイクアウトの店「シルバー・パレット」があった。ルーキンスもダコタの住人で、レノンの隣人だった。レノンの死後数カ月間、オノ・ヨーコは彼女からピーカンパイを毎日買っていた。ルーキンスも、また違った形で革命を起こそうとしていた。家庭料理の担い手たちに、フランス料理の複雑なテクニックなしでも作れる洗練された料理を教えようというのだ。ルーキンスと店の共同創設者ジュリー・ロッソの共著で1982年に出版された『ザ・シルバー・パレット・クックブック』は、史上最も売れた料理本のひとつとなった。今でもニューヨーカーたちは、ディナーパーティや「セーダ」と呼ばれるユダヤ教の“過ぎ越しの祭り”用にチキン・マルベラを作るときはこの本を開き、しみやしわのついたページをめくる。鶏肉は酢とグリーンオリーブとケッパー、プルーンを混ぜた中にひと晩漬けてからローストする。そうしてできあがったら、地中海の香りを漂わせながら、勝ち誇ったようにテーブルに運ぶのだ。
トリクルダウン(富める者がさらに富めば、貧者にもその冨がしたたり落ちる)といううたい文句のもと、レーガノミクスの経済政策が行われていた年月。その間に人々に親しまれていた味のすべてが、その後も輝きを保ち続けられたわけではなかった。特に、ヌーベル・キュイジーヌと関連した料理は急速に廃れていった。ニューヨーク・マガジンで長年レストラン評を担当していたガエル・グリーネは、2006年に出版した自叙伝の中で、自分がホワイトチョコレートムースをいち早く絶賛したばかりに、その後、「石けんのようなホワイトチョコレートが雪崩のように街にあふれてしまった」ことを悔やみ嘆いた。廃れたもののひとつには、イタリアのトレビソに起源をもつ「ティラミス」もある。酒の風味が強く、カフェインを含んだこのスイーツは、かつてニューヨークじゅうのイタリアン・レストランのメニューに浸透していった。とはいえティラミスは今でもデザートとして生き残っており、その輝きはかなり弱ってはいるが、まだ時折きらめきを放つ力は保っている。また、米を外側に、海苔を内側にして通常とは逆に巻く「裏巻き」と呼ばれる寿司もあった。ロサンゼルス在住の日本人シェフが、1970年代の客たちが海藻を気味悪がっているのを見て考案したといわれる。裏巻きは、正統派からはやや邪道な寿司とされてきた。だが、ミッドタウンの日本食レストラン「初花」にニューヨーク・タイムズ紙が四ツ星をつけた1983年には、裏巻きは場違いなメニューではなかった。四ツ星に輝いた市内の五つのレストランのひとつとなった「初花」は、マンハッタンの寿司を高価で敷居の高い風変わりな存在から、時代を超えたステイタスシンボルへと変容させたのだ。
その後間もなく、ワシントン州を拠点にしたコーヒー豆の販売小売りチェーン、スターバックスが初めてラテを淹れた。10年後、マンハッタンで最初のスターバックスがアッパー・ウエストサイドに店を開く頃には、ニューヨークはすでに多国籍企業の時代に突入していた。特徴があってユニークなものは、もれなく商品化される時代になったのだ。
それでも、80年代初頭の落ち着きのない精神の名残は、いまだ私たちの中に生きている。荒廃の70年代、資産をもった一家は市街から郊外へと逃げ出し、その数は50年代や60年代をさらに上回った。そんなニューヨークの街を救ったのが移民だ。1980年から1989年までのあいだに85万4,000人が新たに移住して、減少した人口を補った(80年代半ばには、ヨーロッパ人を先祖に持つ白人の数は過半数以下になった)。
映画『アメリカン・サイコ』(’00年)の主人公で、ウォール街のエリートであるパトリック・ベイトマンのような人々が「オデオン」や「キルテッド・ジラフ」といった有名レストランの予約をとろうと躍起になっているあいだに、ふと気づけば金持ちでも貧乏人でも、誰であろうと通りを歩いて世界と触れ合うことができるようになっていた。ニューヨーク・タイムズ紙によれば、1979年から1982年のあいだに露店の数は2倍になったという。今では路上のいたるところで、中東風コロッケのファラフェルや、ギリシャ風串焼き肉のスブラキ、ケバブが売られている。その横には「アフガニスタンを解放せよ」という看板があり、ニュージャージー名物のアイスクリーム・クッキーサンド、チップウィッチ(重さはひとつ約113グラム)が1個1ドルで売られている。レーガンが自由貿易の旗ふりをしていた頃、ニューヨーカーは日常生活ですでに自由貿易を謳歌していた。歩道の縁石にも角の食料品店にも、「世界」はすでにやってきており、私たちはそれを平らげる気満々だったのだ。
RETOUCHING: ANONYMOUS RETOUCH; DIGI TECH:CASON LATIMER. PHOTO ASSISTANT: CALEB ANDRIELLA. PROP STYLIST ASSISTANT: MARCILEISETH. FOOD STYLIST ASSISTANT: LAUREN SCHAEFER