BY TOSHIE TANAKA, PHOTOGRAPHS BY TAISHI HIROKAWA
機体が山肌すれすれをスラロームするかのように降下する。このエキサイティングな着陸が“幸せの国”ブータンの旅のはじまりとなる。日本からタイ国際航空で飛びたち、バンコクでブータン国営エアラインに乗り換える。提携によりトランジットでも荷物はブータンまでスルーだ。私がこのヒマラヤの麓に位置する小国を訪れるのは、今回で11回目になる。しかし旅のはじめに目にする光景と、胸に去来する思いは、回を重ねても変わることがない。
2006年、雑誌の取材ではじめてこの国を訪れた。当時まだ情報も少なかったブータンで思うように物事が進んでいなかった私たちだが、偶然、ひとりのブータン人の青年と出会う。彼の献身的なサポートのおかげで事態は好転、無事に取材を終えることができたのだった。
旅においての第一印象はどこであれ重要なものだが、私のブータンのそれは、この彼との出会いによるところが大きい。決め手となったのは、別れ際に投げかけられた言葉だ。よくある「SEE YOU」や「KEEP IN TOUCH」ではなく、「LOVE YOUR LIFE」。自分の人生を愛しているかーー。それまで、そんなことを自問したことがなかったからだろう。この言葉が胸に響き、気づけば十数年にわたり、繰り返しブータンを訪れるようになっていた。
今回は、2019年春に誕生したばかりのシックスセンシズ ブータンのロッジ3カ所を拠点に、雨季のブータンを巡る。旅行者がまず降り立つのは、唯一の国際空港のある西部の町・パロである。断崖絶壁に建てられたタクツァン僧院や、最古の寺院のひとつであるキチュ・ラカンがある、チベット仏教への篤い信仰心を感じられる土地だ。なかでも、切り立った岩壁に立つタクツァン僧院は、ブータンの人々が一生に一度は参拝したいと願う聖地。そこへ至る道は登山となり、所要時間は3~4時間。巡礼者も観光客も一緒に歩いて進むが、この国の人々にとっては、この行為もまた“祈り”なのである。
“幸せの国”といわれるブータンは、GNHというユニークな政治理念を掲げる。GNHとは、Gross National Happiness(国民総幸福量)の略で、先代の国王の「GNHはGDP(国内総生産)より重要だ」という発言に端を発しているといわれる。現在、政府は、GNHを成り立たせるための4つの柱を、“持続可能で公平な社会経済開発”“環境保護”“文化の推進”“良き統治”と定義づけている。さらにGNHの進捗状況を確認するためのさまざまな指標を、9つの分野にわたり定めている。“心理的な幸福”“国民の健康”“教育”“文化の多様性”“地域の活力”“環境の多様性と活力”“時間の使い方とバランス”“生活水準・所得”“良き統治”である。また国がGNH追求のため力を尽くすことは憲法にも明記されているのだ。
ブータンでは教育費と医療費は無償であるが、これもGNHの理念を起点としているといえる。健康も教育もすべからく享受でき、それに対する不安が少ないことは、人々の暮らしの中に幸福への近道を提示するものになるはずだ。
国土の広さは九州くらいだが、白銀の峰から亜熱帯の密林まで、多様な自然環境が広がるブータン。ほとんどの集落は山間の谷に形成されており、それぞれが山に遮られていることで独特の文化が育まれている。つまり一カ所を訪れるだけでは、この国の多様性に富む魅力を知るには至らない。ホッピングしながらそれぞれの谷を訪れるのがブータンの旅の定番スタイルである。シックスセンシズ ブータンもホッピングの旅ができるよう建設、計画されている。パロ、首都ティンプー、古都プナカに3つのロッジが点在。ガンテ、ブムタンにもオープン予定だ。
パロから車に揺られること1時間半。政治と経済の中心である首都ティンプーに到着した。経済の中心というと、大企業の高層ビルが建ち並ぶ光景が思い浮かぶが、ここでは伝統建築の意匠に準じた建物が並んでいる。通りを行き交う人たちも民族衣装姿だ。公の場では民族衣装の着用が定められていて、学校の制服、企業や役所の就業服、ツアーガイドたちも男性は「ゴ」、女性は「キラ」という装束に身を包んでいる。世界中で均一化しがちな現代都市の姿とは異なる、ブータン独特の情緒ある風景を目抜き通りで眺めることができる。
ティンプーには国王の執務室や住まいもあるが、ブータンを“幸せの国”として発展させるために国王の果たした役割は大きい。2011年、新婚の現国王夫妻が来日し、話題を呼んだことは記憶に新しいが、現国王の祖父にあたる第3代国王は国連への加盟を実現するなど改革を進め、ブータン近代化の父と呼ばれている。死後、名君を記念し建てられたメモリアル・チョルテンという仏塔には、今もひっきりなしに参拝者が訪れる。
ブータンでは首都に限らず、あちこちに国王や夫妻の写真が飾られていて、人々に敬われているのがよくわかる。国王は、ナショナルデーや誕生日の式典など、折にふれて国民へ力強いメッセージを発信。2008年に行われた戴冠式で「私が在位している間、国王として、あなた方を統治することは決してありません。親としてあなた方を守り、兄弟のようにあなた方の世話をし、息子としてあなた方に仕えるつもりです」と演説し、今でも人々の心に強く刻み込まれている。現国王にはこのような名言が多いといわれるが、父である第4代国王ゆずりでもある。ブータン国王はスピーチライターを据えず、自分の言葉で人々に語りかける。そんな王を誇りに思う人はとても多いのだ。
国王と王妃はまた、サスティナビリティの実現に力を注ぎ、熱心に活動している。ブータンではゼロ・ウェイストアワー(廃棄ゼロの時間)や歩行者の日(自家用車などの使用を控え石油の消費を抑える日)を提案し、国民の環境問題への意識と理解を高める施策を講じるが、国王も自転車でティンプーの町を走ったり、王妃がゴミ拾いを行ったりと、自ら環境問題に取り組む姿を見せている。2011年のふたりの結婚の儀のあとのパレードも徒歩で行われた。プナカからティンプーまでの長い道のり、ふたりは手に手をとって山道を歩き、沿道の人々と心から触れ合い、祝福されながら進んでいったのだそうだ。
ブータンの主要産業のひとつは水力発電である。ヒマラヤの麓という地形を生かし、高低差のある河川を利用して電気を起こし、インドにも販売している。それはクリーンエネルギー発電でもあるため、CO2排出量取引制度(※あらかじめ国などの排出主体間で排出する権利を決めて割り振り、権利を超過して排出する主体と下回る主体との間で、権利の売買をすることで、全体の排出量を抑制しようとする制度)を用いて、外貨の獲得もしている。地の利や自然の恵みを最大限に生かしながら、環境にダメージの少ない、まさにサスティナブルな開発を推進しているのだ。
シックスセンシズは1995年に誕生して以来、自然環境そして地域社会との共生を理念に掲げ、企業の社会的責任を果たすよう努めながら、リゾートホテルを開発してきた。環境保全を念頭においた仕組みを構築し、経済的発展の道も探る点はブータンとも通じるところがある。
シックスセンシズ ブータンでも、プラスチックをはじめゴミをいかに出さないかという点に最大限の努力をはらっている。リゾートの各ロッジには、大型浄水器が完備されていて、その水を再利用可能な瓶に詰め、客室やレストランなどで使用している。ゲストが飲んだワインの空きボトルは植木鉢などにアップサイクルされる。環境問題に取り組むNGOの指導を受けながらコンポストにより生ゴミを肥料に変えて、敷地内にあるオーガニックガーデンで使用するなど、環境に配慮した再生システムを構築している。「サスティナビリティを掲げるシックスセンシズと、環境保護を4つの柱のひとつに据えるGNHには相通じる理念が少なくないのです」とシックスセンシズ ブータンのサスティナビリティ・コーディネーター、イェシ・チョデンさんは言う。彼女は大学でもサスティナビリティを学び、シックスセンシズの理念と母国のGNHに共通点を感じ、現在の仕事に就いたそうだ。
「サスティナビリティに関する取り組みは、リゾートの外でも行っています。“プランキング”、プラスチックとハイキングを組み合わせた造語ですが、ハイキングをしながらゴミを拾う活動を、毎月すべてのロッジのスタッフがしています。リサイクル施設が完備されていないブータンでは、ゴミ処理は大きな問題です。拾ったゴミを5つに分別したあと、ネパールやインドで再生させることで、不用品を極力なくす努力をしています」。スパで扱う日焼け止めは、海がない国であるにもかかわらず、サンゴにダメージを与えないためのコーラルフリーを採択。定期的に植樹も行っており、希望者は誰でも参加できるという。
「活動は、今の自分たちに直接関係のあることばかりではありません。でも、未来の社会にはとても大切なことだと思います。そんな社会貢献を続けていけば、次世代に対してよい影響を与えられるのではないでしょうか」
積極的に環境問題に寄与しようとするシックスセンシズであるが、ビジネスである以上、利益という観点を無視することはできないはずだ。昨今、生産性という言葉が日本で大きく取り上げられることが多いが、コストパフォーマンスや合理性を鑑みると、シックスセンシズの歩む道は、時間と手間がかかり非効率的ということになる。しかし、それをあえて行うことが、ラグジュアリーリゾート界で大きな評価を得る理由にもなっている。多くの富裕層がシックスセンシズの理念に共感し、訪れる。その結果として、新しいシックスセンシズの誕生が今後も世界各地に予定されている。
イェシさんに、ビジネス的視点では取り入れにくいシステムを導入することについて、どう思うかと尋ねてみた。「サスティナビリティが将来にいかに重要であるか。それを理解するためには教育も大切だと思います。ブータンの大学では、国王が毎年、卒業式でスピーチをしてくださいます。次世代のリーダーとして、私たちの真の価値とは何かを考える機会を与えてくれるのです。今さえよければいい、自分さえよければいいのではなく、未来の社会のために個人として何をすべきか。陛下が道を照らしてくださるのです」
旅も終盤となったが、ブータンでの道程はほとんどが山道。それはヒマラヤ山脈の麓にありながら、国内にトンネルがないことに起因する。チベット仏教の信仰国である一方で、自然信仰も持ち合わせており、山は神聖な存在だ。「山を傷つけるぐらいなら、数時間よけいにかかってもトンネルがない道を選ぶ」というのだ。旅人は、針葉樹から亜熱帯の植物まで、標高によって異なる実に豊かで多様な景色で目を楽しませながら、旅路を進むことになる。
最後の目的地プナカは、標高2,000メートルを超えるパロやティンプーとはちがって、1,300メートルほど。冬でも温暖な避寒地で、かつては冬の間、ティンプーに代わり都が置かれた古都である。ブータンでは今でも政治と宗教が近くにあり、各県に建つゾンという国独特の機能をもつ城塞内に、役所と僧院が共存している。川の合流地点に建つ「プナカ・ゾン」はそんなゾンの中でも最高峰ともいわれ、国の紙幣ニュルタムにもその姿が描かれている。
仏を信じ、自然を尊び、王を敬うブータンの人々。「LOVE YOUR LIFE」と言われて以来、この国を繰り返し訪れ気づいたのは、彼らが自分の人生の価値を知り、“足る”を知り、自己がおかれている状況を肯定しているということだ。便利な道路やトンネルより自然のままの姿の山々を選ぶ。民族衣装でトレンドを楽しむ。手のひらにある宝を慈しみ、感謝し、その宝を未来へつなげようとする姿勢は、滞在したシックスセンシズ ブータンで垣間見ることができたものとも通じる。あるがままを肯定して感謝し、次世代のことを思いやる姿。これが人生を愛することと“幸せ”につながっているのではないだろうか。他と比較したり足りない事柄に焦点を当て開発を進めるのではなく、“足る”を知る価値観をもつ。競争ではなく共存を重視する。ブータンの人たちの人生観に、持続可能な社会へのカギが隠されているように思えてならない。
いつしか車窓に青々とした棚田の景色が広がっていた。いまだに、ほとんどが手植え手刈りで米作りが行われている。車を止めて、田んぼで作業をする女性たちに近づき、話しかけた。挨拶をかわしてから、いつしかブータンの旅での恒例となっている質問をしてみた。
「ガ・トト、キ・トトですか?」
実は、“幸せの国”ブータンの公用語、ゾンカ語に、“幸せ”に対応する言葉はないのである。最も近い意味をもつとされる言葉が、“ガ・トト、キ・トト”で、心身が心地よい状態を意味する。「ガ・トト、キ・トトですよー!」
問いに手を止めて、声を張り上げて答えてくれる。どうしてですか? と聞くと、「だって、するべき仕事があるんだから、ありがたくてガ・トト、キ・トト」と言う。それから続けて「でも、仕事がなかったら、もっと、ガ・トト、キ・トトだね」と言ってから、大きな声で笑った。
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