BY HARUMI KONO

ホテルのメイン棟はかつての奈良県知事公舎
シルクロードの東の終着地として栄え、日本独自の文化が萌芽した奈良。東大寺、興福寺、春日大社といった世界遺産の寺社が点在する奈良公園内の神聖な地に、2023年8月「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」が開業した。
ホテルが建つのは、かつて藤原氏の氏寺であった興福寺の子院「摩尼珠院」(まにしゅいん)、「佛地院」(ぶつぢいん)、「世尊院」(せそんいん)が建てられていたと伝わる場所。現在は美しい日本庭園「吉城園」(よしきえん)を含み、敷地面積は約3万500平方メートル(約9,227坪)という広さを誇る。そこに43室という客室といえば贅を尽くしたホテルであることは明らかだ。

藤原家の氏寺があったとされる「吉城園(よしきえん)」。万葉集にも詠まれた長い歴史を有する場所。現在は一般にも開放している。奈良県指定有形文化財
ホテルの核となる建物は1922年(大正11年)に建築され、2017年まで奈良県知事公舎として使われていた歴史的建造物。「時の道」と名付けられた細い道を挟み、新たに建設された2つの宿泊棟を加えラグジュアリーホテルとして扉を開いた。
「登大路町六十二番地」、「奈良県知事公舎」という表札が架けられた門をくぐり、建物の中に入ると鶴と紅葉が描かれた杉戸絵が目に飛び込んでくる。奥に進むと大正ガラスがはめられた大きな窓、格天井、深緑色の砂壁に囲まれた和洋折衷の美しいラウンジ「寧楽」(なら)がある。かつて知事公舎の迎賓の間であったサロンに身を置くと、大正時代に繰り広げられた情景が目に浮かぶようだ。このラウンジ「寧楽」に隣接しているのが1951年(昭和26年)、奈良に滞在されていた昭和天皇が「サンフランシスコ講和条約批准書」に署名をされた「ご認証の間」である。

大正時代にタイムスリップしたかのようなラウンジ「寧楽(なら)」は奈良県知事公舎時代の迎賓の間。宿泊のゲストはこのラウンジで大和茶を味わいながらチェックインの手続きを行う

ラウンジに隣接する「ご認証の間」。奈良に滞在されていた昭和天皇が1951年(昭和26年)、サンフランシスコ条約の批准書に署名をした間が当時のまま残されている
日本の歴史が動いた瞬間の舞台となった間がホテルにある。日本では稀少なホテルだ。総支配人の羽鳥寛之氏は「貴重なプロパティを任せていただけることに感謝すると同時に責任を感じます」と語る。

紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良 総支配人 羽鳥寛之氏
神奈川県生まれ。法政大学卒業後、リーガロイヤルホテル大阪を皮切りにシャングリ・ラ ホテル シンガポール、マンダリンオリエンタル マカオなど海外のラグジュアリーホテルを経てマリオット・インターナショナルの宿泊部門、運営統括部長として勤務。「翠」「SUI」ブランドのプロジェクトに携わり2017年、「翠嵐 ラグジュアリーコレクションホテル 京都」総支配人、2018年より「イラフ SUI ラグジュアリーコレクションホテル 沖縄宮古」開業統括ディレクターを兼務、2023年8月「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」オープニング時より現職
奈良県知事公舎時代から受け継がれている古くて美しいものや奈良の意匠は建築だけではなく、「鳳凰」、「花鹿」という2つの宿泊棟、「翠葉」(すいよう)、「正倉」、「世世」(ぜぜ)といった食の舞台となるレストランと茶寮の名前、温泉「朱雀の湯」を湛えたスパ施設「白瑠璃」、「紺瑠璃」という名前からも感じることができる。

奈良県知事公舎の客間がレストラン「翠葉(すいよう)」として生まれ変わった。欄間に施された細やかな装飾に職人技が光る。プライベートルーム「紫檀(したん)」、半個室を完備しているのでファミリーや少人数の集まりにも活用できる。宿泊のゲストの朝食はこちらで日本庭園を眺めながら奈良の1日が始まる
特筆すべきは43の客室のうち23室にも温泉を備え、仏教と深い関わりがあると考えられている日本の風呂文化を伝えていることだ。洗面所に立つと、金色の手鏡とアメニティが収められた「丹色」(にいろ)の箱が輝いて見える。丹色とは純度の高い朱色のことで春日大社の本殿の朱色、客室の電灯も春日大社の燈籠の形に倣ったもの。花びらを象ったような形のテーブルは、正倉院に納められている螺鈿の八角鏡の形に由来する。

プレジデンシャルスイートルーム(温泉風呂付)
窓の外には奈良公園の緑が広がる98㎡のプレジデンシャルスイートルーム。寝室と客間の間は「いばらアーチ」で区切られている。カーペットの柄は藤の花。春日大社の藤の花を愛でるために、花の季節に必ず奈良を訪れたくなるはずだ

プレジデンシャルスイートの温泉風呂。洗面所には丹色の箱と金の手鏡が置かれている
スイートルームにはスリッパと共に奈良雪駄が用意され、雪駄が奈良の伝統産業であることを教えてくれる。部屋の調度品一つ一つに奈良に纏わる意味があるのだ。客室を象徴するデザイン「いばらアーチ」は、奈良知事公舎の内蔵であった鮨&バー「正倉」の入り口を模り、隈研吾氏がすべての客室に取り入れたもの。広縁と寝室や寝室とサロンの境界に施され、それぞれの場所で過ごす時間と空間を心地よく仕切っている。

旧興福寺子院「世尊院」がリノベーションされて同敷地内で運営される茶寮「世世(ぜぜ)」となり、一般向けにランチ、アフタヌーンティーなどを提供し、憩いの場として利用されている。宿泊のゲスト向けには毎日17時から18時半の間、夕刻のひとときを愉しむ時間「ガーデンディライト」を提供。フリーフローで供されるシャンパンのグラスを片手に1日の終わりを振り返りたい
「翠嵐 ラグジュアリーコレクションホテル 京都」、「イラフ SUI ラグジュアリーコレクションホテル 沖縄宮古」に続いて3軒目となる「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」は、美しい日本を「翠」「SUI」という一言で表現したラグジュアリーホテルブランド。日本のデスティネーションの魅力を世界の人々に楽しんでほしいという理念を掲げてスタートした。
奈良の美点を伝えるプログラムの一つが「デスティネーション ディスカバリー」だ。「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」でのプログラムは「奈良墨を磨る」。墨を磨るというシンプルな行為は心の動き、手の動きがそのまま墨の濃淡に現れる。同じ墨を使っても人により色の出方は様々だ。そして、墨の香りを感じることでマインドフルネスの効果が期待できる。その効果は専門家も同調する。書道一乃會を主催する書家、竹内一氏は「気持ちが乱れる日は、墨を磨るだけでも心が落ち着きます。その所作や墨が放つ香りにより心の迷いもなくなるからです」と社中の弟子に伝えているほどだ。墨を通して奈良が墨の産地であること、歴史、製法、今では数少ない墨匠が1500年の歴史をつないでいることを発見する。「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」のコンセプト「伝統と現代の結び」そのものである。

デスティネーション ディスカバリー「奈良墨を磨る」
毎週月曜の朝、吉城園主棟で行われる「奈良墨を磨る」プログラム。かつては誰もが墨を磨り、書を認めていた古き良き伝統を改めて見直すことができる。アクテビティは他にも「紫翠ホテルツアー」、お子様向けの「キッズ紫翠ハンター」などが用意されている。(宿泊のゲスト専用・要予約。参加無料)
「翠」「SUI」ブランドの立ち上げからプロジェクトに携わり、「翠嵐 ラグジュアリーコレクションホテル 京都」の総支配人を経験している羽鳥氏は、「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」への着任が決まった時から今もずっと奈良にいたい、という気持ちが強いという。それは羽鳥氏のバックグラウンドが深く関わっている。
「子供のとき多くの転校を経験して友達との出会いと別れを繰り返すことで自分自身について考え、人との関係から様々な学びを得ました。日本でも海外でも人が集まるホテルは心地良い場であると感じます」。

ホテルの玄関を入ると鶴と紅葉が描かれた杉戸絵がゲストを迎える
日本の歴史が始まって以来、多彩な交流が盛んであった奈良は、多くの人々との出会いを通して培われた抜群の順応性と社交性を併せ持つ羽鳥氏にとって最適なデスティネーションなのではないだろうか。そして羽鳥氏は、まだ知られていないことを紐解いてゆくことも奈良で仕事をする醍醐味だという。例えば、自然豊かなホテルの敷地内に植えられている約3,000本の木について見識を深めることだ。写真を撮り、一本一本の名前を調べるという地道な作業もゲストを迎えるための入念な準備として取り組んでいる。

古代から変わらない若草山を臨むホテルのメイン棟と宿泊棟の間にある「時の道」
奈良という歴史あるデスティネーションにラグジュアリーホテルが存在することで、奈良はどのような所だろう、そこに行ってみようというゲストが増えたら「翠 SUI」ホテルの存在が一層の重みを増す。自然、歴史、文化、建築、工芸品、食、書。日本文化の礎ともいえる奈良の地が擁するすべての要素が婉然と集結した「紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良」に滞在して奈良を識り、日本人としてのアイデンティティを認識する時間を過ごしたい。
紫翠 ラグジュアリーコレクションホテル 奈良
住所 :奈良県奈良市登大路町62番地
TEL :0742-93-6511
公式サイトはこちら
髙野はるみ(こうの・はるみ)
株式会社クリル・プリヴェ代表
外資系航空会社、オークション会社、現代アートギャラリー勤務を経て現職。国内外のVIPに特化したプライベートコンシェルジュ業務を中心にホスピタリティコンサルティング業務も行う。世界のラグジュアリー・トラベル・コンソーシアム「Virtuoso (ヴァーチュオソ)」に加盟。得意分野はラグジュアリーホテル、現代アート、ワイン。シャンパーニュ騎士団シュヴァリエ。
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