BY NANCY HASS, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICE
どんなにはかないストリート・アートでも、ここまで刹那的なものは今までなかった。明け方の光の中、作品が完成すると、数分後には通行人が立ち止まり、じっと見つめる。そして一部を持ち去ってしまう。ついには作品全体が崩れ落ちる。創作の行為も、突然降り出してはすぐやむ春の雨より短いが、破壊はさらに迅速に進む。まもなく、花びらやねじれた茎が句読点のような姿で地面に散るだけになる。何もかもが記録されるこの時代、もちろん、この作品もソーシャルメディアで生き残る――滝のようなランやエキナセアが、人の手で見事に生まれ変わった自然の美として。だが画像でさえも、やがてしおれて枯れていく不穏な予感をはらんでいる。
ゲリラ・フラワー・“フラッシュ”と呼ばれるアーティストたち。たとえば、メルボルンを拠点とする夫婦のアーティスト“ルーズ・リーフ”。ふたりが手がける巨大なリースは、町なかの路地で空中に浮かび、異次元への入り口のようだ。マンハッタンのフローリスト、ルイス・ミラーは、夜の闇にまぎれて、市内のあちこちにあるゴミ箱に花を飾る。腰の高さほどの金属製メッシュのゴミ箱を巨大な花瓶に見立てるのだ。彼らは、アートの場となったことなどないような場所で、瞬時に消えゆくさだめの装飾活動を展開する。都市環境の中にできるだけ長く作品を残そうとするグラフィティとは異なり、これらのインスタレーションは、自然の移ろいやすさに抗うことなく、そのまま表現するのである。
ファッションデザイナーも、自発性とサプライズに富む作品を目指してきた。アレキサンダー・ワンは先日のショーで、観光バスをマンハッタンやブルックリンのあちこちに停め、即興劇のようにコレクションを披露した。とはいえ、ファッションには、草花のような、はかなさはない。命の短い植物を用いたストリート・インスタレーションは、かつて“ハプニング”と呼ばれた表現形式に賛同しているようでもあり、反発しているようでもある。
“ハプニング”は、予測のつかないやり方でパフォーマンス・アートやインスタレーションを行なうものだった。“フルクサス”と呼ばれた1960年代の前衛芸術運動のアーティストたちは、少なくともその場に小さなアタッシェケースを残した。中にはゲーム、プラスチックのスポイトがついた瓶、カード、石の標本など、さまざまな物体が詰め込まれていた。1970年代にキャロル・グッデンとゴードン・マッタ=クラークがソーホーにオープンした“フード”というレストラン兼インスタレーションの場では、お客は食べた肉料理の骨を磨いて作ったネックレスを身につけて帰ったりもした。だが、花は、何の跡形もなく消えてしまう。
だからこそ、植物という素材にアーティストたちは今、大きな可能性と魅力を見いだすのかもしれない。20世紀初頭に引かれた、ファインアートとデコレーションの間の境界線をぼかすことに、これほど貢献できる素材はない。当時、彫刻は“ハイアート”や“ファインアート”と称されたが、フローラル・アートは〝デコレーション〞というレッテルに甘んじなければならなかった。しかし、そんな区別は、時代にそぐわないものになった。ロンドンのレベッカ・ルイーズ・ロウの作品を見れば、それが実感できる。2015年のチェルシー・フラワー・ショーで、彼女は花畑を天井から逆さまに吊るして見せた。東京の東 信(あずま まこと)は、ドリス・ヴァン・ノッテンなどの依頼を受け、氷に閉じ込められた植物の彫刻を創作した。
このような、人々の興味を引くスケールの大きいオブジェは、ギャラリーやエクスクルーシブなイベントの中にとどめられることが多い。これは残念なことだ、とジョフロワ・モタールは考えている。彼はこの2年間、ブリュッセル周辺の20以上の歴史的な彫像を、花で精巧に作り上げたカツラやヒゲでデコレートしている。風景に溶け込み人々の目にとどまらなくなっていたモニュメントに、新たな命を吹き込むのだ。花を使って“人と歴史をつなぐ”ことが自分の使命だと、彼は考えている。
一方、“ルーズ・リーフ”のチャーリー・ローラーとウォナ・ベにとって、ゲリラ・インスタレーションは、仕事の中で余った花々をリサイクルするハッピーな方法だ。彼らは拾った棒や道端に生えていたツタなども加えて、リースにしてしまう。フィラデルフィアで今年の4月頃から、石像やゴミ箱をデコレートしているフローリストのティナ・リビーは、地元の生花店の余りものをもらって材料にしている。だが、見る人を喜ばせることが目的の作品ばかりではない。今年の初め、マイアミにあるセメントの壁の上の有刺鉄線に、花が編み込まれた。これは、イラン出身で現在はブルックリンに拠点を置く兄弟“アイシー&ソット”による、最近の移民の苦境についてのメッセージだ。
マンハッタンのミラーは、ルソーの絵画の過剰表現もキュビズムの直線的な構成も、インスピレーションの源なのだという。彼にとってフラワー・フラッシュは、ただの“叫び”のようなものだ。夜が明ける頃、ワシントン・スクエア公園のアーチの下や、ウェスト14丁目の通りの信号近くに出没する。ニューヨークのダウンタウンのさまざまな場で、3人のチームで15分以内に作品を完成させる。この活動において、彼は自身の完璧主義を放棄せざるを得なかった。それは、たやすいことではなかった。2016年10月、街なかに突如出現する作品を作り始めた頃は、スタジオで完璧に作り上げたアレンジメントをゴミ箱に入れることを考えていた。その後、細かいことにこだわるのをやめた。「裕福な人々の生活をさらに美しくする」という本業を超えるものを作るべきだと気づいたのだ。街角に立ち、その場で即興的に作り上げるのでなければ意味がない。そのためには、数々の妥協を強いられる。気取ったものを作ったり、自意識過剰になったりしては、喜びが消えてしまう。
ゲリラたちのインスタレーションに遭遇した通行人が、気軽にひと握りの花を持ち去り、作品を破壊していくのを見ると、ミラーはうれしくなる。このような作品は、フェリックス・ゴンザレス=トレスによる1991年のメランコリックな作品《Untitled(PortraitofRossinL.A.)》を思い起こさせる。セロハンに包まれたキャンディが山のように積まれ、ギャラリーを訪れた客がそれをひとつずつ持ち去るというもので、作者のパートナーがエイズによる合併症でやせ衰えていく様子を表現した。
そして今、“突発的な美”が、絶望を感じる者たちにひとときの癒やしをもたらす時代が再び訪れた。ゴミ箱はバラの噴水となり、ダリアが爆発し、ユリやアイリスが噴き上がる。次の瞬間には、ただのゴミ箱に戻る。その残骸から立ち去るとき、人は気づかされる。あらゆる芸術がそうであるように、花がそこにあるのは、人が思いを馳せるきっかけをつくるためだ――命の無常と、すべての者が迎える最期に。