2017年は荒木経惟の年だ。一年を通して多くの写真展が開催される。1963年のデビュー以来、半世紀を超えた荒木の写真の旅はどこに向かうのか

BY JUN ISHIDA,PHOTOGRAPHS BY TAKASHI HOMMA

 この夏のもうひとつの山場となるのが、東京都写真美術館の『荒木経惟 センチメンタルな旅1971―2017―』(7月25日~)だ。「センチメンタルな旅」とは、言わずと知れた荒木の代表作であり、荒木にとっての生涯の被写体である亡き妻・陽子との新婚旅行の様子を撮った写真集のタイトルからきている。「(日付は)77歳もあるけれど、まだセンチな約束もあるんだよ。別れても7月7日に会ってセックスしようって(陽子との)約束がある。ストーリーは作るもんじゃなくて、自然とできあがっちゃってるんだよね。私の場合は、あとでなんでこうなってくれるんだ? と思うことがある。神がいるんだよ。写神が。今は写鬼だけどね」

 荒木の写真には、常にドキュメンタリーと作り事が入り乱れる。ちなみに、先に触れた「7月7日」の写真も実際に「7月7日」に撮られたものではない。1971年に私家版として作られた『センチメンタルな旅』もまた、真と虚の間を行き来する。荒木と陽子のハネムーンの様子を単々とドキュメントしたものかと思えば、そこには時間軸の入れ替えや、テーマに沿った写真の取捨選択がなされている。センチメンタルという言葉にふさわしく、新婚旅行を楽しむ陽子の笑顔はなく、陰を帯びた物憂げな表情の彼女ばかりだ。荒木はこの写真集の序文で、有名な「私写真」宣言を行なっている。

画像: 舟の上の陽子 《『センチメンタルな旅』より1971年》 新婚旅行に訪れた柳川で、妻・陽子が疲れて舟の上で寝込んだ姿を撮った一枚。「陽子の船の写真があるじゃない。今は胎児に見える。生への執着なんだ。ここからまた荒木が生まれるんだよ」 NOBUYOSHI ARAKI

舟の上の陽子
《『センチメンタルな旅』より1971年》 新婚旅行に訪れた柳川で、妻・陽子が疲れて舟の上で寝込んだ姿を撮った一枚。「陽子の船の写真があるじゃない。今は胎児に見える。生への執着なんだ。ここからまた荒木が生まれるんだよ」
NOBUYOSHI ARAKI

「この『センチメンタルな旅』は私の愛であり写真家決心なのです。自分の新婚旅行を撮影したから真実写真だぞ!といっているのではありません。写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います。私小説こそもっとも写真に近いと思っているからです。(略)私は日常の単々とすぎさってゆく順序になにかを感じています」(『センチメンタルな旅』)

 私写真=私小説であり、身の回りにある日常の出来事をテーマとして写真を撮ってゆくということだが、もちろん荒木が意味するのはそれだけではない。「私写真」は、撮る「私」の写真であり、被写体が何であろうとそこには同時に「撮る私」が映し出されている。

「(写真は)窓とか鏡とかいうけど、やっぱり俺には鏡なんだよ。鏡は息をかけるとぼやけたり、割れたりして、映るものはそのときによって違うじゃない。リアリズムなんてのはダメなんだ。リリシズムだよ」
 私写真宣言から46年、その信条をずっと貫き、被写体も撮る方法も変わらない。途中で迷いはなかったかと訊くと、「神だもん、迷わない(笑)」の答え。「正しいって、自分でね。まったく信じているわけじゃないけど、宗教になってるから」。何を言われようと、それが正しいと信じてきた。そこに世間に流布された「天才アラーキー」のキャラクターからは読み取れない、苦悩の軌跡が一瞬垣間見えた。

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.