ポルトガルのサンタル。かつて栄華を誇ったこの村は、1960年代から衰退の一途をたどる。だが、この地で今、大がかりな再生プロジェクトが進行中だ。その一翼を担う造園家は、村にある複数の庭園をつなげて結び、誰もが自由に歩ける緑豊かな空間へと生まれ変わらせた

BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY RICARDO LABOUGLE, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA

 2013年のある日、ポルトガルのエストリルに住むジョゼ・ルイス・バスコンセロス・イ・ソウザは、マドリードに拠点を置く造園界の巨匠フェルナンド・カルンチョに設計を依頼したいと思い、いきなり電話をかけた。ミニマリストであるカルンチョの作風は、多くのすぐれた作品が生まれた1970年代のランド・アート(註:自然の素材を使って屋外で造成する美術。代表的な作家にイサム・ノグチなど)を彷彿させる。彼ならば、自分が思い描いていることを実現してくれるのではないかと考えたのだ。ポルトから車で南に約90分、ワインの産地ダン地方のサンタルという村に、バスコンセロス・イ・ソウザは先祖から受け継いだマナーハウス(註:貴族が田園に建てた広大な邸宅)を所有している。そこには400年前につくられた幾何学式庭園があり、この庭を補完するかたちで現代的な空間を新たに付け足すことを思いついたのだ。彼は現在62歳で、すでにリタイアしているが、計画をカルンチョに持ちかけた当時は富裕層向け金融機関のエグゼクティブだった。

画像: サンタル・イ・マガリャエス伯爵のマナーハウスはポルトガル中部にある。館の前にはトピアリーとバラの生垣を配した平面幾何学式庭園が広がり、その境界にはレモンの木が植えられている

サンタル・イ・マガリャエス伯爵のマナーハウスはポルトガル中部にある。館の前にはトピアリーとバラの生垣を配した平面幾何学式庭園が広がり、その境界にはレモンの木が植えられている

 16世紀に建てられたサンタル・イ・マガリャエス伯爵邸からは、遠くにエストレーラ山脈を望むことができる。カルンチョは、その花崗岩の列柱でできたベランダに立ってみて、バスコンセロス・イ・ソウザから打診された計画は目指すべき方向を間違えていることに気づいた。眼下には、緻密にデザインされたポスト・ルネサンス庭園が広がっていたのだ。3エーカー(12,140㎡)もある、フランスとイタリアの様式美が融合した平面幾何学式庭園には、さまざまな要素がちりばめられている。ボックスウッド(註:ツゲ)を刈り込んだトピアリーのオベリスク、模様を描くように規則正しく配置されたバラの生垣、湧水が流れ出る噴泉、大理石の彫像──。カメリアの並木道は、冬が深まると地面に花びらの絨毯を敷いたようになる。

カルンチョは、バスコンセロス・イ・ソウザとふたりで村に散策に出かけると、ほかにもマナーハウスがいくつもあるのを目にした。この緑が生い茂る峡谷地帯には、かつて何世紀にもわたり、複数の貴族がそれぞれのマナーハウスを持っていたのである。さらに曲がりくねった小道を歩くと、質素な住居が立ち並んでいるのが見えた。この村に暮らす1,000人ほどの住民の家だ。

カルンチョはそれまでの経験から、こんなふうに村がつくられるのは稀有であることを知っていた。かつて貴族が統治していたほかの共同体では、貴族の邸宅は地元住民の家々から離れた村の外につくられたし、貴族たちの邸宅もそれぞれ離れていた。ところがサンタルでは、そのすべてがぴったりとくっついていたのだ。「『ならばこれを利用しない手はないだろう?』と思ったんだ」。64歳のカルンチョは、そう話す。故郷のマドリードで造園と哲学を学んだ彼は、植物の名前を挙げるのと同じような感覚で、ソクラテス以前の哲学者たちの名前やリルケの詩、イスラムの統治下にあったアンダルシア地方の文化や芸術を引き合いに出しながら語る。「非の打ちどころのない庭園はそのまま残しておいて、ほかのものを庭園と調和させつつ、村全体の尊厳も回復するようなかたちで甦らせればよいではないか」

 かくして、農業中心でやってきた田舎の村を巻き込んで、ふたりの男たちによるおよそ10年がかりの共同プロジェクトが始まった。50エーカー(約20万㎡)に及ぶ基本計画には、塀で囲まれたいくつものマナーハウスを門や橋でつないでいくという構想が描かれていた。バスコンセロス・イ・ソウザは今夏のある日、使い古された麦わら帽子を日よけにかぶってベランダに立ち、計画に着手した当時を振り返りながら、強調した。目指したのは単なる景観の美化ではなく、それぞれのマナーハウスを甦らせることによる村全体の再生なのだ、と――。

これらの庭園は現在、外部の人々にも開放されている。庭園やブドウ栽培、あるいはこの村の貴族社会と住民とのあいだの複雑な関係に関心を抱く人は、誰でも入ることができるのだ。1960年代以降、サンタルの人口はじわじわと減り続けている。若者はよりよい就労機会を求めて村を離れ、ポルトガル国内の大都市か、欧州のもっと豊かな国を目指す。一方で、古い世代は村の周辺にある小さな畑を耕してブドウやオリーブや果物を栽培し、ダン地方の大きな協同組合に収穫物を売って生計を立てている。

画像: ボックスウッドとバラの生垣が幾何学模様を織りなすサンタル・イ・マガリャエス伯爵邸の庭園の先には、カメリアの並木道が続いている

ボックスウッドとバラの生垣が幾何学模様を織りなすサンタル・イ・マガリャエス伯爵邸の庭園の先には、カメリアの並木道が続いている

 広大な土地を所有する旧家たちも、それぞれ危機感を募らせてきた。歴史的価値のあるマナーハウスを維持するには莫大な費用がかかる。彼らの祖先はポルトガルが数世紀にわたり強欲な植民地政策を続けた時代に莫大な富を築いたが、それは大昔の話で、今や財産はほぼ底をついている。すでに大手のワイン生産業者に土地を売却した家もいくつかある。手放してはいない場合でも、土地は作付けせず寝かせたままだ。

バスコンセロス・イ・ソウザが引き継いだマナーハウスは、2015年に86歳で他界した母、マリア・テレザ・レンカストレ・デ・メロの家系が代々所有してきた(母はサンタル・イ・マガリャエスの女伯爵で、父ジョゼ・ルイス・アンドラーデ・デ・バスコンセロス・イ・ソウザとは同格であった)。母は庭園だけは手入れを欠かさずよい状態に保つことができたが、2,787㎡もの広大な邸宅全体ともなれば常にどこかしら修繕の必要に迫られ、思うように手が回らずに苦労していた。マナーハウスは建築当時の姿を今も残しており、その歴史を1500年代後半まで遡ることができる。佇まいには、この地方独特の言い回しを借りるならば「バロック様式を先取りしたような雰囲気」があり、裾が広がった東洋趣味の屋根には赤いタイルがあしらわれている。1990年頃に近代的なキッチンを導入するまで、この家の人々は17世紀からあったものを使い続けていた。古いキッチンには、ロマネスク様式の巨大なドーム型噴水と水盤があった。その昔、ノルウェーの漁船が運んできた干しダラの塩漬けを水に浸けて戻すために使われていたのだ。

 バスコンセロス・イ・ソウザは、自分の代ではなんとかマナーハウスを維持することができても、3人の子どもたち──いずれも20代で、欧州各地に散らばっている──は、この重荷を背負いたがらないのではないかと案じていた。子どもたちが覚悟を決めたところで、先祖たちが築いた村の空洞化が進んで、いつしかすっかり滅びてしまうまで、手をこまねいているしかないのだ。いったい誰がそんな役目を進んで引き受けたがるだろうか。

 サンタルを文化的魅力にあふれた観光地として生まれ変わらせるプロジェクトは、多くの労力と資金を必要とするものだ。バスコンセロス・イ・ソウザは、作物栽培学者でワイン生産者でもある弟のペドロ(56歳)と共同でマナーハウスを相続したが、いずれはここを非営利団体に託したいとふたりは考えている。バスコンセロス・イ・ソウザがこのプロジェクトに着手したのは、まだリスボンの金融機関で働いていたときのことだ。彼は今も、パートナーのパトリシア・ポッペ(58歳)とともに、リスボンからさほど遠くないエストリルにある自宅で過ごすことが多い。プロジェクトに必要な資金は自身の私財に加え、弟のペドロ、サンタルを代表するもうひとつのマナーハウスを引き継いだジョアン・マニュエル・モラ・デ・イベリコ・ノゲイラの支援を得て調達した。

彼らは最初の数年間、カルンチョとともにプロジェクトの中身を具体的に考え、近隣住民の賛同を得ることに力を注いだ。転機が訪れたのは、かつての王室ブラガンサ家(その祖先であるカタリナ・デ・ブラガンサ<註:英語名はキャサリン・オブ・ブラガンザ>は、1662年にチャールズ2世のもとに嫁いでイングランド王妃となった)が、手入れもせず放置していたフィダルガス邸を22部屋のホテルとスパとして再生させることに同意したときだ。名称は未定だが、サンタルに誕生するこのホテルは来春に完成予定だ。

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