BY EMILY LORDI, ARTWORKS BY DEVAN SHIMOYAMA AND WARDELL MILAN, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
1968年12月に放送された、エド・サリバンが司会を務める米人気テレビ番組のゲストは「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」だった。黒人と白人の男女7名からなるこのグループは、プラチナブロンドのウィッグに、スパンコールで飾ったブレザーやビニールのベストなどを身につけ、「エヴリデイ・ピープル」「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」「シング・ア・シンプル・ソング」「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイヤー」といった大ヒット曲をメドレーで矢継ぎ早に披露した。3枚目となるスタジオアルバム『ライフ』(1968年)をちょうどリリースしたばかりの彼らは、期待と興奮で浮き立っていたが、リーダーであるスライ・ストーンだけは万事うまくいくとばかりに自信をみなぎらせていた。その理由は、彼がエレクトリックピアノから離れ、妹のローズと一緒に客席に降りたとき明らかになる。ローズがソロで歌ったあと、彼はお決まりの、アフリカ発祥のジュバダンス(註:足を踏み鳴らし、胸や脚などを平手で打ちながらリズミカルに踊るダンス)を披露したのだ。グループのオリジナル・ドラマーだったグレッグ・エリコは当時の動画を観て私に言った。「僕たちは宇宙船で金星からやってきたみたいに見えただろうね。とりわけ、さえないスーツを着ていた観客たちにとっては。彼らの着こなしときたら会計士みたいだったから」。再びステージに戻る前に、スライは客席の中におそらくただひとりだったにちがいない黒人を見つけて、ハイタッチをした。この番組での演奏時間は限られていたが(メドレーはぎゅう詰め状態だった)、スライはどうにか時間をつくり出して、ほんの一瞬ながらもブラック・パワーを見せつけたのだ。
客席に降りるゲストなどめったにいなかったサリバンの番組で、スライが披露したこの一瞬のパフォーマンスは、ブラック・アートカルチャーの発展を支えてきた伝統──〈徹底的に演じる〉〈スタイルをひけらかす〉〈過激な表現でインパクトを与える〉──に従うものだった。この3つのテーマは、音楽やファッション、行動にまつわるあらゆるルールに対して、アフリカ系アメリカ人が長年抱いてきた激しい抵抗心の表れでもある。この背景を知れば、アメリカの歴史において傑出したムーブメントであるサイケデリックの先駆者が黒人アーティストだったと聞いても、驚きはしないだろう。この国は長い間、黒人たちの革新的なアイデアを我が物顔で取り込んでおきながら、提唱者としての彼らの功績を消し去ってきたのだ。そのために、今サイケデリックという言葉を聞いて思い浮かぶのは、「グレイトフル・デッド」(註:サイケデリックからロックまで手がけた米の人気白人バンド)の曲をバックに気だるそうに踊る若い〈白人たち〉なのである。
サイケデリック・ムーブメントとは、1960年代から70年代にかけての反戦運動や公民権運動、新左翼といったユース・ムーブメントと、簡単に入手できた幻覚剤とが結びついて生じたものと言われている。そんな中でもてはやされたのが、LSDでトリップしたような、エコーがかかり、時間感覚をゆがませ、幻覚作用を促す音楽だった。ビジュアルアートでは、鮮やかなカラーミックスや、デフォルメされた視覚体験をもたらすデザインが流行した。たとえば1968年公演のロックミュージカル『ヘアー』のポスターは、人種の不明な人物が、鏡に映ったようにほぼ上下対称に描かれ、緑と赤で彩られている。1966年にグラフィック・デザイナーのミルトン・グレイザーが手がけた、アイコニックなボブ・ディランのポスター(註:アルバム『Bob Dylan’s Greatest Hits』に同封されていたもの)では、ディランの切り絵風の横顔から、毛糸のような色とりどりのヘアが伸び、そこに〈Elvis〉という言葉が含まれているように見える。歴史家でサイケデリック・ムーブメントをれっきとした文化として扱う人は数少なく、そのうえ彼らでさえ最大の立役者は白人だと考えている。サイケデリック・ロックについて言えば、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』やビートルズの『リボルバー』とともに1966年に生まれ、ピンク・フロイドの陰鬱なドラマめいた『狂気』とともに1973年に幕を閉じたとする見方が多い(ジミ・ヘンドリックスの名前も挙がるが、イノベーターというより、白人に影響を受けた黒人と捉えられている)。
このムーブメントに関わったのはこうしたミュージシャンだけでなく、科学や哲学の分野でも圧倒的に白人が多かった。そのために当時の人々から正当視され、ヒッピーたちの平和と自由恋愛を求める運動より、知的に一段優れたものとみなされたのである。サイケデリック・ムーブメントの歴史に常に登場する人物のひとりが、スイス人化学者アルバート・ホフマンだ。製薬会社に勤めていた彼は1943年に偶然LSDの幻覚作用を発見した。英作家オルダス・ハクスリーが『知覚の扉』(1954年刊。バンド「ドアーズ」の名は同書に由来している)を出版すると、幻覚剤の使用が一般に広まった。小説家ケン・キージーが率いるサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ」は、サンフランシスコ周辺を極彩色にペイントしたバスで移動しながら、アシッド・テストと呼ばれる、LSDを広めるツアーを行っていた。その詳細はジャーナリストのトム・ウルフが『The Electric Kool-Aid Acid Test』(1968年)に綴っている。60年代にはハーバード大学で米心理学者ティモシー・リアリーが幻覚剤による人格変容などについて実験した。こうした白人によるサイケデリック・ムーブメント(註:以下、ホワイト・サイケデリック。黒人によるムーブメントはブラック・サイケデリックと称する)は、多くのカウンターカルチャーと同じように(20世紀にすでに潜在意識の革命を目指していたシュルレアリスムも含まれる)、有色人種のカルチャーを下敷きにしたものだ。白人は有色人種のカウンターカルチャーを〈メインストリームから取り残された文化〉とみなしながらも、それを模倣して新しいライフスタイルのビジョンを見いだしてきたのである。
かたや黒人アーティストたちは、まず音楽をメインに、続いて文学やビジュアルアートを発展させ、分野間でシナジーを起こしながら、独自のサイケデリックシーンを切り開いていた。黒人と白人それぞれの実験的なクリエーションは、ビジュアル的にもサウンド的にも似ているが、その根本がまったく違う。ホワイト・サイケデリックはドラッグの力を借りて、必然的に白人(ビートルズの言葉を借りれば、他人に「come together」〔一緒に行こうぜ〕と言える立場の人々)が主導する人類共同体の幻影を見ていたが、ブラック・サイケデリックは黒人の歴史と文化に根差していた。黒人アーティストたちは、アートやコミュニティの限界を探り、もっと遠くまで押し広げようとしていたのだ。
ブラック・サイケデリックの作品に政治色はほとんどない。多くのアーティストは、特定の政策を支持したり、人種問題についてストレートに触れたりせず、ただ創作そのものにのめり込んでいたからだ。公民権運動の抗議者は教会に通う人々が着るような服を、ブラック・パンサー(註:黒人解放運動を展開した急進的な政治組織)は戦闘服のようなユニフォームを着ていたが、ブラック・サイケデリックが選んだのはプラットフォームシューズとレインボーカラーのジャンプスーツだった。黒人と白人、男女で混成した「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」は、公民権運動のスローガンだった〈人種の融合〉を身をもって示した。人々がこの理想を現実的に受け入れる心の準備も、実現のための体制すらも整っていなかった頃、このバンドは未来を先取りしていたのだ。ほかのアーティストは、アフリカに由来する伝統的な美学を刷新しながら新境地を切り開き、黒人の人生や精神の奥底に潜むものを探求した。またブラック・サイケデリックは野放図に見えてじつは規律のとれた、声高に自由を謳うムーブメントであり、さらに組織化された過激な黒人解放運動と手を組むことも、ぶつかり合うこともあった。彼らは「ブラック・パワーとは何か?」「ブラック・コミュニティとは何か?」という黒人の活動家にとっては解決ずみだった疑問を抱き続けていたのである。
ブラック・サイケデリックの正式メンバーには「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」「チェンバース・ブラザーズ」「フィフス・ディメンション」「ロータリー・コネクション」「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」「マイルス・デイヴィス」「ベティ・デイヴィス」「ファンカデリック」「アース・ウィンド&ファイアー」といったミュージシャンやグループが含まれる。彼らは水瓶座の時代(註:西洋占星術では20世紀後半にキリスト教支配下の〔魚座〕から自由な〔水瓶座〕のニューエイジに移行すると考えられた)らしい深遠な洞察をテーマに、最新の録音機器を離れ業で使いこなし、ジャズ、ソウル、ロックの歌詞やサウンドにおける新しい可能性を探った。彼らの音楽的な特徴は、ほかのサイケデリック・ミュージックと同様に、強調したリバーブ(残響)や緩急自在なリズムにある。この動きは文学界にまで広がり、イシュマエル・リード、アリソン・ミルズ・ニューマン、クラレンス・メジャー、デヴィッド・ヘンダーソンといった作家たちの、詩作や描写表現、また物語形式にブラック・サイケデリックの実験的な精神が感じられる。アートの分野では、サム・ギリアム、ベティ・サール、センガ・ネングディといったビジュアルアーティストがブラック・サイケデリックの範疇に入る。キャンバスの上だけでなく、美術館やギャラリーにおける表現形式の限界にも挑んだ彼らの作品は、抽象的でありながら感情であふれ、どれも圧倒的な美しさを湛えている。
映画監督で代表的なのはウィリアム・グリーブス(『Symbiopsychotaxiplasm:Take One』、1968年)やビル・ガン(『ガンジャ&ヘス』、1973年)だ。非常に興味深い内容だが、時系列をあえて崩した彼らの作品はやや難解でもある。建築家では1971年にシカゴの《ジョンソン・パブリッシング・カンパニー本社ビル》を手がけたジョン・W・モートサミーが挙げられる。カラフルなカーペットや抽象的な渦巻き柄の壁紙が目を引くこの華やかなビルは、アフリカ系アメリカ人向け月刊誌『Ebony』とその姉妹誌『Jet』の出版社のものだった。こんなふうに、彼らは絵画を彫刻として表現したり、ポップソングをオペラ作品のようにコンセプトアルバム(註:それまで主流だったシングルとは違い、アルバム全体をひとつの作品とみなしたもの)にまとめたりした。自伝を詩に、ホラー映画をアートフィルムに変え、ギャラリーや劇場を屋外に引っ張り出した。常に新しさを求めるモダニスト的な使命から、ニューエイジ(註:宗教とは違う形で発展した、精神世界を探求する動き)という潮流まで派生させた。こんなふうにしてブラック・サイケデリック・ムーブメントは、さらに大きく、もっと高みへ、もっと遠くへと羽ばたいていった。
大胆でみずみずしく、没入感があり、夢のようなブラック・サイケデリックは色彩と感情に満ちあふれた世界だ。その究極と言えるのが、ファンカデリックの『マゴット・ブレイン』(1971年)で冒頭を飾る曲でのエディ・ヘイゼルのギターソロだろう。バンドリーダー、ジョージ・クリントンから「母親の死を知ったばかりという状況を想像して」という指示を受けて、ヘイゼルは陰影ある残響をまとった、10分間のこのレクイエムを生んだのだ。この名曲はブラック・サイケデリックと、この動きに触発されて黒人アーティストが発展させたSF的な〈アフロフューチャリズム〉(ジョージ・クリントンが先導役だった)との違いを明示している。サン・ラー、サミュエル・R・ディレイニー、オクティヴィア・E・バトラーといったアフロフューチャリストは、未来と宇宙空間(黒人の詩人ロバート・ヘイデンは詩の中で宇宙を「absolute otherwhere」〔註:絶対的な他所〕と呼んだ)に魅了されていたが、ブラック・サイケデリックは〈現在と現実世界〉にフォーカスしていた。彼らはNYのセントラルパーク(グリーブスがポストモダン・ドキュメンタリー『Symbiopsychotaxiplasm: Take One』を撮影)やロサンゼルスの高速道路の高架下(ネングディが1978年のアートパフォーマンス《Ceremony for Freeway Fets》を披露)といったありふれた風景の中で、不条理や崇高さといった概念を描き出したのである。ブラック・サイケデリックにとって〈超越〉のシンボルは星ではなく鳥であり、彼らの移動手段はタイムマシンや宇宙船ではなく夢想とドラッグだった。
「ちょっと悪いけど、ギターを弾いてもいいかな」。1967年のモントレー・ポップ・フェスティバルで、ジミ・ヘンドリックスは観客にこう問いかけた。ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」のカバーを披露したかったからだ。結局この問いは、気恥ずかしさを紛らわせるための形式的な挨拶でしかなかった。なぜなら彼は観客が同意しようと同意しまいと、ヒーローであるディランへの敬愛を表してこの曲を演奏するつもりでいたからだ。彼のこの姿勢はブラック・サイケデリックのエートスを示している。すべての人が理解できるものではないが、それがわかり、共感できる人々がこのムーブメントについてくるのだ(註:黒人であるヘンドリックスが、白人のディランに影響を受け、また白人から圧倒的な人気を集めていたために、一部の黒人からは批判的に見られていた)。