BY EMILY LORDI, ARTWORKS BY DEVAN SHIMOYAMA AND WARDELL MILAN, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
〈サイケデリック“psychedelic”〉という言葉は、ギリシャ語の〈精神、魂“soul”〔psyche〕〉と〈見える“reveal”〔deloun〕〉が語源とされている。そしてどうやら魂の輝きを見つけるとパワーが生じ、それが声となって響き渡るらしい。その声が聞こえるのが、チェンバース・ブラザーズの最大のヒット曲「タイム・ハズ・カム・トゥデイ」(1967年)だ。「My soul has been psychedelicized〈註:僕の魂はサイケデリックさ〉」というフレーズが繰り返されるこの曲の後半で、メインボーカルのレスター・チェンバースは何度も叫び声をあげる。レスター(現在81歳)は、祭祀音楽を思わせるこの声は怒りや恐怖の表れではなく、何の制約も受けない自由な精神の表出だと説明する。それは「なんて幸せなんだ。自分にはこんなことができるんだ。問題なくできるんだ」という魂の声だそうだ。サイケデリックの時代は、長尺のソロ演奏、コンセプトアルバムやダブルアルバム(註:LPレコードの2枚組)がもてはやされ、曲名にさえ驚くような創造性が注ぎ込まれていた(アイザック・ヘイズは1969年に「Hyperbolicsyllabicsesquedalymistic」という曲を発表している)。黒人アーティストの斬新なクリエーションは、利己的な現実逃避のためではなく(かたや先述の心理学者リアリーは、LSDによる意識改革を説き〈ドラッグで意識を覚まし、精神を解き放ち、社会から脱け出せ〉とスローガンを打ち立てた)、ユートピアを目指して突き進む中で生まれた。誰もがヨガで瞑想に耽り、一端の信者気取りだったあの時代、黒人と白人の共演は、NYのデルモニコ・ホテルでボブ・ディランがビートルズにマリファナを教えたあの伝説の日と同じように、ロック史の未来を変える大きな起爆剤となった。
「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」「ラブ」「ロータリー・コネクション」「チェンバース・ブラザーズ」──いずれも黒人と白人の混成バンドだが、ブラック・サイケデリック・アーティストの〈人種混成バンドの先駆者〉としての功績はあまり認められていない(白人たちがよく黒人の使用人のことを「まるで家族の一員」と言っていたことから、チェンバース・ブラザーズはステージで、白人ドラマーのブライアン・キーナンのことを「ブライアン・キーナン=チェンバースです」と紹介し、仲のよさを見せたというエピソードがある)。サイケデリック期以前に活躍していたチャーリー・パーカーやビリー・ホリデイといったジャズ・アーティストはドラッグを常用していたために、処罰されたりリハビリ施設に送り込まれたりしていた。だが黒人のサイケデリック・アーティストはもっと自由だった。彼らが演奏したNYの「エレクトリック・サーカス」のようなボヘミアン・クラブや、ウッドストック・フェスティバルなどには白人客が多く、黒人のジャズシーンほど厳しく取り締まられていなかったからだ。
白人男性のみならず黒人女性も加わり、歌だけでなく楽器も演奏した「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」は人種混成バンドの中で最も伝説的な存在だと言えるだろう。スライは幼少期から教会で音楽を学んだマルチプレイヤーで、スタジオ・ワークの鬼才かつサンフランシスコ・ベイエリアの人気DJ、さらにはプロデューサーでもあった。オリジナルメンバーは、スライの弟でギタリストのフレディ、キーボードとボーカル担当の妹ローズ、黒人ベーシストのラリー・グラハム、黒人トランペッターのシンシア・ロビンソン、そして白人サックス奏者のジェリー・マティーニと白人ドラマーのグレッグ・エリコ。彼らが初めて顔を合わせたのは1966年12月、集合場所はスライが両親のために買った家の地下室だった。当時17歳だったエリコ(現在は73歳)によると、そのときは演奏もせずにただ話をしただけらしい。「『これはイケるぞ』とでも言わんばかりに、キラキラ輝いた目と目を合わせてね。言葉にしたわけじゃないけど、そういう気迫があったんだ」。こうした自負があったからこそ、彼らは文化的な風あたりにもひるまなかった。「難しい時代だったからね」とエリコは言う。人種間の緊張と暴力が広がる中(1969年に発表した「Don’t Call Me N****, Whitey」〈註:黒人をさす蔑称が使われている〉で彼らはその状況をストレートに歌っている)、黒人も白人も大半は「人種混成バンドなんてありえない」という反応を示した。エリコは当時を振り返る。「でもスライは『ありえない』なんて言われても気にしなかった。これが人間らしいやり方だと言って。常に身近に教会がある環境で育ったスライには、もともとそういう精神性があったのかもしれない。彼は、僕たちがやっていることには何より大きな価値があると信じていた。そして結果的に彼は正しかったんだ」
だが人種を混成したことで、ブラック・サイケデリックが成功したわけでも、知名度を高めたわけでもない。画家サム・ギリアム(現在88歳)は「ワシントン・カラー・スクール」(〔註:カラー・フィールド・ペインティングに影響を受けた抽象表現主義の小グループ〕ギリアムやケネス・ヴィクター・ヤングのような黒人アーティストと、ケネス・ノーランドやモーリス・ルイスといった白人アーティストがいた)の中でも抜きんでた創造性を光らせていたが、名声を得るまでには長い年月を要した。ほかのメンバーが抽象表現主義の延長線上にある、やや保守的な作品を手がけていた頃、ギリアムは、木枠を取りはずした全長約140mの巨大なキャンバスに抽象画を描き、それを天井と壁から吊るすという野心作を発表していた。
今や著名なギリアムだが、彼のこうした作品は特定の形式やジャンルに当てはまらないという理由で、長いあいだ正当な評価を受けてこなかった。以前彼は「ドレープ・ペインティング」として知られたこれらの色鮮やかな立体絵画作品は「自信」を表したものだと語っていた。「自信こそが、自分を周囲に認められる存在に変え、創作の可能性を無限に広げるのだ」とも。同時にこの自信は「何のジャンルにも属さない自由」を主張したことで得られたとも考えられる。NY州北部のディア・ビーコン現代美術館では、2019年からふたつの立体作品から成るギリアムの《Double Merge》(1968年)が常設されている。今この作品を前にすると、〈改変され、忘れ去られた歴史〉の記念碑のようにも見える。観客の目を奪うのは、夕焼け色の背景のあちこちに飛び散ったシルバーとエメラルド色のしぶきと、キャンバスの上辺をところどころ丁寧につまみ、革紐で結びあげた小さなコブだ。このコブに航空機で使われるワイヤーロープを取りつけて、作品は天井と壁から吊り下げられている。作り手の労苦がにじみ出たこの緻密なディテールは〈どんなに見事でも日の目を見ないものがあること〉を伝え、観る者の心を打つ。また絵の一部はドレープの陰に隠れ、ドレープは美術館の壁と一体となって、柔らかくでこぼこした立方体を形成している。だがこの空間の内側は見えず、それでいながらその内側は美術館という公共の場にある。スケールの大きさと、不可解さが融合した〈ブラック・サブライム〉(sublime:荘厳美)とでも呼ぶべきものが、ブラック・サイケデリックのキーテーマにふさわしいだろう。黒人画家は黒人らしい絵を描くべきだと言われていたあの時代に、抑圧的なルールから鮮やかに身をかわすという回避の美学を打ち出すことで、ギリアムは自らの政治的メッセージを発信していた。
70年代になると、黒人と白人の統合を求めた公民権運動から、黒人が自決権を要求するブラック・パワー運動に変わり、この流れを受けてブラック・サイケデリックのアートや音楽の分野でも、黒人自らが運営する組織が生まれた。ビジュアルアーティストのセンガ・ネングディは、1965年のワッツ暴動(註:米カリフォルニア州の黒人居住区ワッツで起きた黒人差別問題を背景にした暴動)のあと、黒人アーティストのマインドセットが変化し「異人種同士の協働を目指すより、私たち黒人自身のために何かを創りたいという気持ちが強くなった」と言う。彼女が所属していたロサンゼルスの「スタジオZ」のような黒人アーティストの集団は、60年代の〈人種は混ざっていても男性しかいなかったグループ〉にくらべて、黒人女性の声に真摯に耳を傾けていた。またマチスモ(男性優位主義)が根づいていたサイケデリックの本元とは異なり、70年代のブラック・サイケデリックでは、多様な創作分野で黒人女性が頭角を現し始めていた(ちなみにジャニス・ジョプリンは個人的な苦悩を抱えていただけでなく、彼女が直面した性差別にも苛まれていたと言われている。1970年に亡くなるまで彼女が音楽シーンで活躍した期間は5年にも満たなかった)。
ファンク(註:アフリカ系アメリカ人が生んだソウル、R&B、ジャズなどを融合したリズムに重点を置いた音楽)のパイオニア、ベティ・デイヴィスは、こうした黒人たちのネットワークを活用して自らの才能を開花させた。彼女は、当時の夫だったマイルス・デイヴィスをフュージョン(註:ジャズにロックやラテンを取り入れた音楽)に向かわせ、その後、自身でエロティックなプロト・パンク(註:パンクのルーツ)を手がけ、未来派の女性トリオ「ラベル」をはじめとする黒人女性アーティストや、プリンスなどをインスパイアした。ベティ(現在77歳)が18歳年上のマイルスと結婚したのは1968年のこと。当時、彼女はモデルやソングライターとして活動し、マイルスは1970年に最大の衝撃作『ビッチェズ・ブリュー』(2枚組LP。自身のバンドと演奏した)をリリースして、モードジャズやエレクトリックジャズを発展させていた。またベティはその頃すでに、チェンバース・ブラザーズに自分が作った「Uptown」を録音するように説き伏せ、この曲をヒットさせてもいた(その後スライ&ザ・ファミリー・ストーンとも知り合い、彼女のファースト・ソロ・アルバムはグレッグ・エリコがプロデュースを担当、スライたちと共演もしている)。続いてマイルスにジミ・ヘンドリックスを紹介し、マイルスが電子楽器に目を向けるきっかけも与えた。
ベティはサイケデリック・カルチャーに共鳴したことはなく、今もそれは変わらない。文化批評家のグレッグ・テイトがヘンドリックスについて書いた次の文章は、そんな彼女にもぴったり当てはまるだろう。「実験的なポップミュージシャン・グループの一員ではあったが……“ミュージシャンの世界”以外の何ものにも属したがらなかった」。ベティはどこにも属さないことで、社会的、また様式的なルールに逆らっていた。そして逆説的ながらこの反抗心こそが、サイケデリック・ミュージックの精神に結びついているのだった。ベティはよくマイルスと一緒に、ストラヴィンスキーやラフマニノフといったクラシックのほか、オーティス・レディング、ジミ・ヘンドリックス、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの曲を聴いていたそうだ。ふたりはめったに外出せず、暖炉を囲んでマシュマロを焼きながら家でのんびり過ごすのを好んでいたらしい。結婚生活は一年しか続かなかったが(ベティはどこかで彼を暴力的だと語っていた)、その間マイルスはよく制作中の曲を彼女に聴かせて助言を求めてきたという。「マイルスに『ベティ、どう思う?』と聞かれると、私は『もっとベースの音を効かせるべき』などとアドバイスしていた」。マイルスと音楽漬けの日々を過ごしたことが、ベティに自らの作品を創る自信を与えた。そのおかげで離婚後も彼女の意気込みは衰えることがなかった。
女優で作家のアリソン・ミルズ・ニューマン(現在70歳)もベティと同じように黒人コミュニティ内での恋愛を原動力に、黒人女性の欲求をあるがままに、文章にしたためるようになった。1974年に発表した彼女の実験的な自伝風小説『Francisco』は、いかにも黒人らしいウィットや、「生き生きとした人生を愛する」ために努力を惜しまない語り手の姿勢が非常に魅力的な作品だが、あいにくふさわしい評価を受けたことがない。もともと女優としてキャリアをスタートさせた彼女は、ダイアン・キャロル主演のテレビシリーズ『Julia』のベビーシッター役で一番知られているが、テレビから映画へと進出したときには多くの男性に枕営業を期待されて、ことごとく行く手を阻まれたという。だがその後、ロサンゼルスを離れて一時期NYで暮らしていた彼女は、実験的な創作活動を行っていた黒人作家やアーティストたちと知己を得た。サックス奏者オーネット・コールマン、詩人ジェイン・コルテス、作家のヌトザケ・シャンゲ、イシュマエル・リード、トニ・モリスン、アミリ・バラカといった面々だ。この仲間たちの間では、黒人男性は男女を対等に扱い、黒人女性はハリウッドのダイエットやヘアスタイルの話題にはまるで関心を示さなかった。友人の作家ヌトザケ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』(カリフォルニア州バークレーで初演、1976年からブロードウェイでも上演されたコレオポエム〈註:詩、歌、踊りを組み合わせた劇的な表現〉)の終盤で女性たちが声高に語ったように、ニューマンもこうした出会いを通じて「自分自身の中に神を見つけ、その自分を愛した。猛烈に愛した」(訳者訳)のである。
ニューマンの『Francisco』は、同書の推薦文を書いたトニ・モリスンの画期的なデビュー作『青い眼がほしい』(1970年)と同じくらい実験的な作品だ。モリスンほどの赤裸々な描写はないが、若い黒人の芸術家グループにみなぎるダイナミズムに着目しながら、当時の黒人女性の立場についてごくありのままに綴っている。さらには将来の夫となる映画監督フランシスコ・ニューマンをモデルにした人物との恋愛初期のことについても描いている(作中でこの恋人たちはよくジミ・ヘンドリックスの曲を聴いているが、同書刊行前、1970年のロンドンで、この天才ギタリストはオーバードーズのために27歳で亡くなった)。サム・ギリアムの絵画作品と同様に、ニューマンはこの小説で黒人としてのアイデンティティそのものは描出していない。だが全体を通じて、徹底した個人主義を謳いながら意味深いメッセージを伝えている。1971年、『Ebony』誌で歌手のアレサ・フランクリンは、彼女と周囲の黒人たちが「ありのままの自分たちに恋をしている」と語った。ニューマンのこの作品は、黒人たちのこうしたポジティブな心の変化を象徴してもいる。
だが黒人たちのこのような〈文化の独自性を求める動き〉は、しばしば分離主義と同一視された。これもまた、ブラック・サイケデリック・ムーブメントが、アメリカのカウンターカルチャー史に刻まれなかった理由のひとつである。支配的な白人文化にしてみれば、黒人たちが「死にかけた文化がはびこるヘイト・アシュベリー地区〔註:60年代のカウンターカルチャー・ムーブメントの発祥地〕をあとにして、黒人独自の文化を築くために別の場所に行った」というより、「黒人たちはそこから消えた」と言うほうが都合がよかったのである(ジャーナリスト、トム・ウルフも先述の『The Electric Kool-Aid Acid Test』で「ニグロはもはやクールなシーンから姿を消し、そのトーテム像すら残っていない」と綴っている)。こうした流れの中で生まれたアートは抽象的でスケールが大きく、従来の〈黒人らしい表現様式〉をはるかに逸脱したものだった。またブラック・サイケデリックは、抗議や自己肯定の感情をさらけ出して自己完結するのではなく、自らの願望や言葉にできない体験といった、未知との個人的な出会いを好んで表現した。
60年代の自由主義に対する反動もあって、70~80年代におけるアメリカの法律では娯楽用の麻薬に関する規制が強化されたが、主に違法薬物使用で取り締まりの標的になったのは黒人と褐色人種だった。アメリカ西海岸の人気ミュージシャンで、「ビーチ・ボーイズ」を率いていた白人のブライアン・ウィルソンは、麻薬にのめり込み、引きこもり生活をしていたにもかかわらず、人々の記憶には〈複雑な苦悩を抱えた天才〉として刻まれている。一方ウィルソンと同じくらい人気があり、同じように麻薬に溺れていたスライ・ストーンは、辛辣で悲観的な厄介者呼ばわりされている(1971年のアルバム『暴動』内の曲にちなんでつけられた“偶然の預言者”というあだ名は、まだましなほうだった)。だが確かに、リスナーに「take it easy」(註:気楽に行こうぜ)と歌いかけた「イーグルス」や、甘美さや楽しさを伝えた「グレイトフル・デッド」など、70年代以降の、ホワイト・サイケデリックに追随した音楽に比べると、スライの音楽には凄みのようなものがあったかもしれない。
ブラック・サイケデリックが称賛されず、過小評価されてきたもうひとつの大きな理由は、このムーブメントの功績が、アフロフューチャリズム(註:アフリカから奴隷としてアメリカに来た人々の子孫としての経験や文化から生まれる、黒人の未来に焦点をあてた創作活動で宇宙に関する表現が多い。90年代に評論家が命名したこの運動は今もなお続いている)の人気の陰に隠れてしまったことだ。60年代の公民権運動への反発が激化するようになると、サイケデリックのエネルギーはアフロフューチャリズムに吸い取られてしまった。グレッグ・エリコが先述したように「スライ&ザ・ファミリー・ストーンが金星からエド・サリバン・ショーのスタジオに降り立った」のなら、70年代半ばの多くの黒人アーティストたちは、宇宙の開拓者さながら天空へ飛び立っていったと言えるだろう。このムーブメントは奇想天外なだけでなく、いかにもアメリカ的な矛盾もはらんでいる。当時の黒人市民は、アポロ計画に何十億ドルもつぎ込みながら、貧困緩和のためには予算を組まない政府を批判していたが(この状況については、ギル・スコットヘロンが1970年に発表した曲「Whitey on the Moon」で端的に描写している)、のちにアフロフューチャリズムと呼ばれるこの〈黒人のSF〉は広く受け入れられたのである。
結局のところ、宇宙旅行はどんな人にとっても魅力的だったということだろう。女性トリオの「ラベル」は『スペース・チルドレン』(1974年)を、スティーヴィー・ワンダーは『土星』(1976年)を、「パーラメント」はコンセプトアルバム『マザーシップ・コネクション』(1975年)を発表した。どれもファンキーで遊び心があり、風刺が効いたアルバムだが、どこか革命後の静かな小宴といった印象がある。長かった波瀾の60年代からさらに長い70年代へと移り変わる中で、アフリカ系アメリカ人のアーティストたちは、地球上はもちろん、理想化されてきたアフリカにもユートピアは存在しないことにようやく気づき始めたのだ。当時の大統領リチャード・ニクソンは黒人や褐色人種のコミュニティの問題について〈事なかれ主義〉を貫き、警官隊は麻薬戦争(註:薬物使用の規制政策で人種や階級差別の一因になった)に乗じてさらなる厳戒態勢を敷いていた。ブラック・パワーの余力は選挙目当ての政治に注がれ、保守主義が台頭し、経済の低迷が顕著となった。こんな時代だったからこそ、サン・ラーは黒人のために宇宙の理想郷を築く設計者として、実験映画『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』(1974年)を製作したのだ。彼が“宇宙的”なエネルギーを傾けたこの映画のラストでは地球が爆発し、サン・ラーとその信奉者たちは宇宙船で脱出する。
黒人たちが生んだ多彩なクリエーションを細かく分類していくと、ブラック・サイケデリックとはつまり〈身近にあるユートピアに気づかせてくれる黒人アーティストの集合体〉ということになる。スライ&ザ・ファミリー・ストーンは「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイヤー」で、この地上にいても、官能的な喜びや、ドラッグによる快楽を味わえるだろうと歌っている。もしかすると未来は近くにあり、明日を指すのかもしれないし、宇宙は銀河の彼方ではなく、ほかの民族が暮らす場所や、単に空気の中にあるのかもしれない。かつて画家のサム・ギリアムは1968年に手がけた作品について「何かが空気中に漂っていて、その空気の中でドレープ・ペインティングが生まれた」と語っていた。こう聞くと彼が単に〈時代の精神〉について語っているように聞こえるかもしれないが、見方を変えれば、作品が時代の空気をつくったとも言えるのだ。
アートや音楽を通してこの世の権力やアイデンティティについて問い直したブラック・サイケデリックは、20世紀において最も大胆な試みを行ったムーブメントだ。その潮流は、21世紀以降も命脈を保ち続けている。アウトキャスト(1998年リリースの「Synthesizer」ではジョージ・クリントンとコラボレートしている)、ヤング・サグ、フューチャーといったヒップホップ・アーティストは、もっぱらドラッグディールを主題にしていた初期のラップとは違って、その快楽のほうに目を向けているが、まるで聴力の限界を試しているかのような、独特の歌い方をする。エリカ・バドゥの『ニュー・アメリカ パート・ワン』(2008年)と『ニュー・アメリカ パート・ツー』(2010年)、ディアンジェロの『ブラック・メサイア』(2014年)は、ブラック・ミュージックの新境地とも言えるアルバムで、彼らのユニークな歌い回しも魅力だ。一方サイケデリックを、よりパーソナルで甘美に味つけし、音楽と映像の新境地を切り開いているのが、シンガーソングライターのアーロ・パークスやカディア・ボネイだ。また、歌手であり脚本家で女優でもあるミカエラ・コールによる2020年のテレビドラマ『I May Destroy You』では、演出構成や視覚効果においてサイケデリックの実験精神が生かされていた。ジャーナリストのジェナ・ウォータムとアートキュレーター兼作家のキンバリー・ドリューは、ブラック・コミュニティを支援するだけではなく、彼らに光をあてたいという想いで、ビジュアルアンソロジー『Black Futures』(2020年)を出版した。500ページにわたるこの作品集では、(タイトルとは裏腹に)過去や未来より現在にフォーカスしようと、現代のブラック・アーティストの多彩なアート作品と著作物を取り上げている。
そして最後に紹介するのが、ときに不可解ながらも大胆なクリエイティビティを発揮したコラージュや彫刻作品を創る、ケニア系アメリカ人アーティスト、ワンゲキ・ムトゥだ。2019年に、ムトゥによる高さ2mの巨大な女性ブロンズ像(人間と女神のハイブリッドだ)4体を設置した、メトロポリタン美術館のファサードのニッチには、この世のものとも宇宙のものとも言いきれない謎の力が立ち込めている。この像と同じように、ブラック・サイケデリック・ムーブメントはときに姿を潜ませながらも、その強大なパワーを轟かせていたのだ。いたるところに、すぐそばまで、あらゆる人々の耳に届くほどに。