「クルディテ」、すなわち火を通していない切っただけの野菜が、いかにしてシェフのクリエイティブな能力を発揮する主戦場になり得たのか?

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY PATRICIA HEAL, STYLED BY MICHAEL REYNOLDS, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: 紫龍人参にグリーンミートラディッシュ、そして紅芯大根とセロリの根

紫龍人参にグリーンミートラディッシュ、そして紅芯大根とセロリの根

 人類の歴史上のほとんどの期間、楽しみのために野菜を食べてきた人間はいなかった。野菜というのは結局、美味であることに進化の重きを置いていない植物だ。果物の多くは甘い。それは動物を惹き寄せて、その種子をあちこちにばらまいてもらうためだ。だが、野菜は繁殖の役には立っていない。根や茎や葉として単に個々の植物を生かすだけの働きしかしておらず、種の繁栄に一役買っているわけではない。私たちの先祖である原始人は、葉のついた植物や根菜を栄養とカロリーのために食べたのであって、それ以上の意味はなかった。

 そんな先祖たちや、または中世ヨーロッパの農民や、肉と芋を主食としていた1950年代のアメリカ人は、セントルイスの「ヴィシア」というレストランで、客から尊敬のまなざしを集める一品が「裸の野菜」という名でメニューに載っているのをいったいどう受け止めるのだろうか? ヴィシアの野菜のアレンジの仕方は、豪快であると同時に宝石のように美しい。くさび形に切られた有機栽培のラディッシュが、紫がかったピンク色の断面を見せて横たわり、指ぐらいの長さのごつごつしたにじんと、りんごのように歯ごたえのあるトマトが並ぶ。これらの野菜は地面から引き抜かれた日そのままの裸の姿だ。いや、見た目とその味からして、今日畑から収穫されたばかりかもしれない。

 全米のレストランで、生の野菜が突然、食事のオープニングを飾る巧みな一手として、表舞台に躍り出てきた。たとえば、シカゴの「クレバー・ラビット」では、大きな木製のボードの上に野菜を配して客に供する。またニューヨークの「サンティナ」では、巨大なテラコッタの壺から、野菜の茎が客の頭の位置より高く立ち上がり、まるでネイティブ・アメリカンの羽根飾りの様相を思わせる。マンハッタンのミッドタウンにある「ザ・グリル」では、ロメインレタスの葉ときゅうりの茎が、冷えた銀食器の中で寄り添っているし、そこから1マイル(約1.6km)ほどダウンタウン寄りに位置する「ザ・ノマド」では、にんじんとアスパラガスがボウルいっぱいの氷の中にさっと浸され、ひげの部分が凍って丸まっている。なかでもいちばん面白いアレンジが見られるのは、ニューヨークの「ザ・オフィス」というカクテルラウンジで、ここはシカゴのシェフ、グラント・アケッツの店だ。ボウルに入れた氷に、しょうがとレモンをつぶして浸し、そこにエンダイブの葉が垂直に立てられていて、まるでサーフボードが砂浜に刺さっているように見える。ロマネスコ(カリフラワーの一種)が塔のようにそびえる横には、青白いマッシュルームがまるで森で群生しているように配され、すべてが氷からそのまま生えているように見える。まるでエルサ・ベスコフが描く絵本の世界のようだ。

 こんな形でイメージを再生された野菜の「大皿」は、驚きと、活力を呼び戻す新鮮さと、ほどよく冷えた大地の甘みを提供し、これから出てくる濃厚な料理に向けて、客の舌を整える。これらの野菜は、サラダより劇場的な要素が強い。店では客は手を使って食べるように言われることもあり、エレガントであると同時に混沌としたシーンを演出するのだ。そんな野菜の一品を、「食糧採取ボード」「庭でとれるシャルキュトリー(肉加工製品)」などと呼ぶ人々もいるが、ほとんどのシェフは単に「クルディテ」と呼ぶ。カクテルパーティでとりあえず出てくるあの皿、つまりセロリとピーマンの横に、ヒドゥン・ヴァレー・ランチ(ドレッシングの銘柄)のディップが添えられて、面白みのない皿にのったあの一品の代わりに、登場したメニューなのだ。

 この言葉はフランス語のクルディテに由来し、生(なま)を意味する。常に複数形で使われ、料理界では、20世紀のフランスで最初に使われはじめた温故知新的な言葉だ。フランスのレストランで「クルディテのブーケ」を味わって感銘を受けたアメリカ人シェフのジェームズ・ビアードが、1965年に出版した料理本にそのレシピをこう記述している。「ねぎ、ラディッシュ、セロリ、小ぶりのアーティチョーク、アスパラガス、かぶ、にんじんをすべて生で」。あえて外国語をそのまま使ったのは、単に高級感を出すためで、彼は1940年代にはすでに野菜とディップを前菜として世に広めていたのだった。1980年代にはニューヨーク・タイムズ紙がそのレシピを掲載し、南仏にあるレストランの人気の前菜が、ニューヨークのパワーランチのスポットにまで伝播してきた。だが、ジェームズ・ビアードはクルディテが、彫刻かテラリウム(観賞用植物をガラス容器の中で栽培する)のような形になるのを想像したことがあっただろうか? かつて人類が仕方なく食べていたものが、今では私たちがつい目を見開いて見つめ、興奮して、大金まで払う対象になった。では、生の野菜が変わったのか、それとも私たちが変わったのか?

 人間の脳は空腹な野獣のようなものだ。科学者たちの計算によれば、われわれ人類の先祖は、生き延びるために、一日に9時間ぶっ続けで生の野菜を食べなければならなかったそうだ。限られた道具しか持たなかった原始人にとって、ベジタリアンの食生活は効率的ではなかった。進化のブレイクスルーは約250万年前に訪れた。私たちの遠い先祖たちが、より多くの肉を食べるようになったときだった。長期間にわたる肉食で、彼らの脳の質量は大きくなった。もしかしたら、私たちはこのときの教訓を胸に刻みすぎたのかもしれない。野菜はその栄養価は別として、われわれ人類の長い歴史の中では、脇役にすぎなかった(特に西洋ではその傾向が強い。アジアやアフリカでは、気候や宗教などの要因が入り交じり、野菜を栽培して食べるという長年の伝統がすでにあった)。古代ローマ人たちは、私たちが言うところのサラダのようなものを食べていた。サラダの語源は、ラテン語で塩を意味する言葉で、彼らは塩水に浸したレタスを食べていたのだ。だが、16世紀になると、チューダー朝の英国がその文化を破壊し、長時間煮て作るシチュー料理が主流になった。

 また、いつの時代にも、肉食を受けつけない英雄たちが出現してきた。シエナの修道女カテリーナは14世紀に生の野菜以外のすべての食べ物を拒絶した。アメリカ人の牧師、シルベスター・グラハムは、1830年代のマサチューセッツ州で、同じように肉を悪魔の食べ物だと公に宣言し、グラハム・ブレッド(粗挽きの全粒粉で作るパン)を中心とする食を提唱した(その後、グラハム・クラッカーが発明され、それとチョコレートでマシュマロを挟むと、地獄に落ちても食べたい悪魔の食べ物“スモア”になるのだが)。そして同じマサチューセッツ州で10年後に、エイモス・ブロンソン・オルコットが、ヴィーガン食のコミューンであるフルーツランドを創設した。そこには9人の大人と5人の子どもが住んでおり、彼の10歳の娘でのちに小説家になるルイーザ・メイ・オルコットもいた。彼らは野菜の「生命の力」を調理することで逃がさないように、生で食べた。冬になるとそんな生活はおしまいになり、オルコット家は近所の人々に寝床を提供してもらい、食糧をわけてもらって飢えをしのいだ。

 しかし、19世紀の終わり頃には、当時まだエキゾチックだったオリーブやセロリが温暖な国々から輸入されるようになり、野菜はアメリカの食卓に進出してきた。食肉産業の闇を暴いた、アプトン・シンクレアの1905年の著書『ジャングル』は、自由主義経済と資本主義に対し、大衆の怒りをかき立てるのが目的だったのだが、その代わりに、多くの人々が肉食をやめるきっかけになった(「大衆の心情に訴えたつもりだったのが、間違って彼らの胃袋を直撃してしまった」とシンクレアは書いている)。野菜への関心は、その後の二つの世界大戦で下火になった。肉がなかなか手に入らなかった当時、肉は誰もが欲しがる贅沢品だった。ヒトラーがベジタリアンだという評判も逆風だった。

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