BY MIKA KITAMURA, PHOTOGRAPHS BY PARKER FITGERALD
祖栄尼は5歳で京都「霊鑑寺(れいがんじ)」に入った。後水尾(ごみずのお)天皇の皇女を開祖として1654年に創建され、歴代の住職を皇女が務めてきた歴史ある尼門跡寺院だ。祖栄尼は、さらに8歳で「竹の御所」と呼ばれる曇華院へ移り、ここで20余年を過ごした。
祖栄尼は可愛らしく、愛嬌があり、多くの人々に愛されたという。霊鑑寺、曇華院の住職にお経や仏学を学び、料理や裁縫、掃除などの作務に明け暮れた。1934年、三光院が建立された際、ぜひにと請われ、30歳前後で住職として武蔵野へ。当時、武蔵野は林ばかり。
「京都から参りまして、広い武蔵野の真ん中で、それはそれは寂しゅうございました」と語っている。
三光院の周辺がまだまだ静かだった頃、「何か音がする」と祖栄尼が下駄をつっかけて庭へ出てみると、「松かさ」がはぜる音だった。それに感じ入った祖栄尼は、夜の食事にさっそく「松かさ」という名の料理を出した。しめた豆腐に干し椎茸を加え、松かさの形にして揚げたもの。これだけの素材を優美でおいしい料理に仕上げる手腕。しかもこれ以上引き算できないのが三光院の味だと、この寺の精進料理を受け継ぐ西井香春(こうしゅん)はいう。昼に感じた松かさの音への感動を夕餉にのせる。これが祖栄尼の感性なのだ、と。